オニクセル侯爵の初恋
狸親父の純愛、馴れ初めです。
あれは、いつの頃だったかな?
オニクセル侯爵は嫁入り予定の娘に渡す形見の指輪を眺めて口の端を上げた。
嫁…に行くには大事になってしまったが。
「ようやく君のことを思い出した瞬間に涙が溢れる事が無くなったよ。時間は優しいな」
その目に宿るのはとても穏やかな、新芽のオリーブのような色だ。
「確かに、身分が違う相手に嫁ぐのは色々気苦労があるなぁ。もらう方は何も考えてないがな」
今になって、妻の気苦労に思い至る。
「でもあの時は、とにかく君といられたら何でもよかったんだよ」
オニクセル侯爵は遠い昔に思いを馳せた。
オニクセル侯爵家の三男坊マクシムは、立派な兄二人から年も離れていたことから、かなり自由奔放に育った。
小柄な体格を生かし身軽ですばしっこく、剣の腕もまぁまぁ。しかし飽きっぽかったのでまぁまぁから評価が上がることがなかった。
「これで真面目に鍛錬すれば…」
というのが師匠であるリード卿の口ぐせだ。
オニクセル家は武家の家門。ワーズウェントの北の端にある港町で北の山脈を越えた先には隣国のブレイグがあった。
国境の諍いをまとめ交易も担うこの地は国の要であり、辺境でありながら侯爵という高い地位と責任が課せられていた。
だが三男坊はお気楽なもの。
家族も期待すらしていない。
稽古を三日サボった報いは、想像以上に重かった。休日返上で師匠の屋敷へ呼び出されたマクシムを待っていたのは、大目玉どころではない実力行使。
「お館様から、三男坊の性根を叩き直して構わないと言われておりますのでな。本日は厳しく行きますぞ」
師匠の纏う空気が変わった。
これまでの稽古とは違う、殺気を伴った実戦さながらの打ち込みがマクシムに襲いかかる。
防戦一方で、木刀はあっけなく弾き飛ばされ、マクシムの小柄な体は地面に叩きつけられた。
「立ってすぐに構えろ!」
全身の痛みに呆然とするマクシムに、師匠の容赦ない怒声が飛ぶ。
泥まみれになりながらいくら打ち込んでも、いともたやすくあしらわれ、何度も何度も地面を転げ回らされた。
「ちっくしょう!! うわああっ!」
カンカンカンッ!
力の限りの乱打も、師匠には軽く受け流される。どれだけ本気で打ち込んでもびくともしなかった。
悔しくて、痛くて、ボロボロと涙がこぼれる。
全身打ち身だらけで息も絶え絶えになっても、師匠の木刀は止まらない。
泥と汗と涙でぐちゃぐちゃになり、いよいよ立ち上がる気力すら尽き果てた頃、ようやく終わりが告げられた。
「ご自分の今の実力がわかりましたか? その腕でサボりなど言語道断。今後は身を入れて稽古に励むように」
見下ろしてくる師匠の足元で、マクシムは大の字に倒れ込んだまま、ただ荒い息を吐くことしかできなかった。
目を固くつぶり、必死に嗚咽を堪えていると、ふと照りつける日差しが遮られるのを眼裏に感じた。
そっと目を開けると、少し年上の栗色の髪の少女が心配そうな顔でマクシムを日傘の影に入れてくれていた。
「なんだよ……ボロボロでおかしいかよ! 見るな!」
泥まみれの惨めな姿を見られた恥ずかしさから、マクシムは慌てて涙を拭い、身体を起こそうとする。だが、あちこちの激しい打ち身が容赦なく響いた。
「いてっ……! ちくしょう……」
痛みに顔を歪め、再び土の上に崩れ落ちそうになったマクシムに、少女は静かに、凛とした声で語りかけた。
「痛みますね。ご無理をなさらないで。……でも、父は見込みがない方には、あそこまで本気になりませんのよ」
少女の言葉にマクシムは目を見開く。
そしてまた、まなじりがじわりと熱くなり涙が溢れそうになるのを腕を押し当て隠した。
「………そっか…。師匠、本気で俺の相手をしてくれたのか…」
少女の言葉は不思議と素直に心に入ってきて、それまでの悔しかった気持ちがするりと溶けていくのを感じた。
期待されない、お気楽な三男坊。いつも甘やかされて。
でも、本当は期待して欲しかったのだと…この時に初めて気がついた。
「今、傷の手当てをしますから少し待っていて下さいね。良かったらこちら、使って下さい」
少女は薬箱を取ってくるからと屋敷に入って行った。
渡された白いハンカチには淡い薔薇の花びらと刺繍が入っていた。少女の名前だろうか…。
「ロゼリア……」
ハンカチから、優しいバラの匂いがほのかに甘く香る。屋敷の中に消えていく少女の背中をマクシムはぼんやりと見つめていた。
思えば些細な事なのに、気がつけば胸の奥で何かが芽生えていた。
それからは休日の度に師匠に稽古を願い出て真面目に鍛錬に臨み、師匠はようやく真面目になった三男坊に嬉しい悲鳴を上げていた。
聞けばリード卿の娘ロゼリアは身体が弱く、気候のいい頃に時折庭で読書をする他はほとんど屋敷の外に出ることはないという。そして少しどころかけっこう年上だった。
マクシムは時折庭の木陰に出てきて本を読む少女を目の端にとらえては口の端をあげていた。
北の山脈を背負うオニクセル領の冬は厳しい。
凍てつくような冷たい風が吹き降ろし始める頃になると、病弱なロゼリアが庭の木陰に姿を見せることはなくなる。
だが、通い詰めるうちに仲良くなったリード卿の息子ロナンを巻き込み休日の稽古は続けた。
時折聞こえてくる竪琴の音がロゼリアが奏でるものだと聞くと、あの日優しく手当てをしてくれたほっそりとした手で弦を爪弾く様を思い浮かべ口元が綻ばせた。
本好きの姉の為に侯爵家の蔵書を貸してほしいとロナンに頼まれ、若い娘が好みそうな本を行商人から取り寄せ、届けることもあった。
そうして巡る四季をいくつか過ぎ、マクシムが少年から青年になった頃、ロゼリアに結婚を申し込んだのだった。
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後日談
紆余曲折を経て初めて結ばれた次の日…
「あなた…思っていたのと違いますわ。もっとこう…激しく、情熱的に求めて下さって?」
妻からのまさかの申し出にマキシムは仰天した。
「い…いや、お前…こういう事は俺には縁がないと思って、その、目の毒になるものは避けていたからなぁ…どうしたものか…」
マキシムは何をどうしたらいいのか途方に暮れる。
「あら、では、こちらをお読みになって!昔、侯爵家の蔵書からお借りした事があったのですが、それはもう事細かに書いてあって…お恥ずかしながらそれまで何も知らなかったものですから、とても勉強になりましたのよ?」
「そ…それは!!!」
行商の者に若い娘が興味を持ったり役に立つ本を頼んで仕入れた本…だった。
そんな内容だったなどつゆ知らず。とんでもないものを渡してしまった。
「この本を読んでから、実は燃え上がるような逢瀬に憧れておりましたのよ…。わたくしの夢、叶えてくださいませ?それとも…やはりこんなふしだらな女はお気に召しませんか?でしたら離縁を…」
渋るマキシムにロゼリアは顔を曇らせる。
「まっまてまてまて!わかった!勉強するから待ってろ!」
マキシムは慌てて本をひったくった。
「あら、うふふ…。楽しみですわ!お待ちしておりますね」
それから2年の後、オニクセル侯爵家に元気な双子の産声が響くことになる。
本当にただ手当てをしてもらっただけ。大した会話もしてないのです。
ただ、自分も誰かに期待されているのだと気づかせてくれた。それがマクシムの人生の転機でした。
行商人とのやり取りとか、薔薇彫りの珊瑚の指輪とか、ロナンとの交流とか色々書いてたけど、また我に返り割愛。
いちゃいちゃ後日談だけ残しました(笑)
もう一つ、ロゼリアさんとのお別れのエピソードがありますが、こちらも機会があれば…。
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