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前日譚 香水

ep.2 1ワーズウェントの王子、

前日譚 絆と縁の最後に触れられた香水のエピソードです。


♢王妃


 王から贈られた王妃のお気に入りの香水は、遠い異国から取り寄せた特別なもので、王との夜伽の折には、いつもその香水をまとっていた。


 王妃は姫を出産した時の大変な難産で、産後の予後が悪く、それ以上子どもが望めない身体になった。


 王妃には子を産めなくても他に妃はいらぬと愛してくれる王と、死の淵を乗り越え産んだ姫がいた。

 けれどやはり、世継ぎの王子さえいたら…という悩みは、常に王妃の心を苛んでいた。




 王と共に出席した宴を先に退出し、自室に戻ってみれば、ベッドで眠る姫と、その横の椅子で姫の手を握りながらベッドに伏せて眠る姫づきの侍女、オリビアの姿があった。

 辺りには香水の香りが強めに漂っていた。

 聞けば、姫が香水瓶を触ろうとして、慌てたオリビアが少しこぼしてしまったそうだ。


「あらあら、クラウディアったら、お転婆さん。オリビアも災難だったわね」


 王妃はコロコロ笑いながら、スッと心に何かが差し込んできた。


 オリビアが香水の瓶を倒してしまった。


 そして、王妃の部屋で母を待つ姫と眠っている。戻った王妃の気配にも気づかないほど、ぐっすりと。


 王は恐らく宴が引けたらここに来る。

 いつも、そうなのだ。

 酒が入ると殊のほか、情熱的になる。

 今日は特に酔っている様子だった。


 もしも…

 もしも私の代わりに、世継ぎの王子を産んでくれる子がいたら?

 愛するあの人の血筋を他に残せる娘がいたら…?


 自分の危険も顧みず、奉公先の娘を命がけで守った優しい心根の娘、オリビア。

 姫も王妃も心の底から慕ってくれる、かわいい大切な侍女。

 王が訪れるとき、オリビアは頬をうっすら染め、はにかむように微笑む事を知っていた。

 この子の産む子なら…。



 王の愛は重かった。

 抱かれるたびに意味があるのかと虚しくなり、どこか冷めた気持ちもあった。

 立場に応えられない自分が悲しかった。


 どうして…私は王子が産めなかったのかと。

 なぜ姫は王子ではなかったのかと。

 そんな事を考えてはいけないと振り払っても、ふとした折に、ぶわりと胸に広がるシミのような黒い想いが胸を締め付け、苦しい。


 口に出せない悩みが、本来は聡明なはずの王妃の判断を狂わせた。



 香水の瓶を倒したのは、オリビア。


 王妃はただ、そのまま王妃の部屋で寝かせておくように告げ、眠る姫を抱いて部屋を出ただけ…。


 王が王妃の寝所を訪れるかも、娘を抱くかもわからない…。


 王妃の部屋の扉は静かに閉じた。



*****


 次の日の朝、オリビアの姿はなく、王は王妃の部屋で目覚めたものの、何も覚えていなかった。


 そしてその日…オリビアの実家から両親が病に倒れたとの報があった。

 オリビアは宿下がりを願い出てブレイグに帰って行き、そのまま戻って来なかった。


 その後、オリビアからは、暇を願い出る手紙が王妃宛に届いた。

 あれほどお世話になったのに、ご恩返しもできぬままお暇することになり、本当に、本当に申し訳ありませんでした。…と。


 王妃は退職の手当として、五年分の給金を送ってやった。



 悪いことを考えたから罰が当たり、可愛がっていたオリビアを失う事になったのだと…。


 自分の汚い願望に、あの娘を利用する事にならずこれで、良かったのだと…。

 王妃はそれ以上は考えることをやめた。





 けれど…運命の歯車は、いくつもの思惑を経て静かに回り出す。

 まるで、決められた何かに導かれるように…。








♤王


 王は王妃を深く、深く愛していた。


 王妃は、明るく大らかで聡明で、王は溺れるような愛を注いだ。

 それは、王妃が子を成せない身体になっても一切変わらなかった。


 ひどい難産の末、産まれたのは姫だった。

 一時は命が危うくなりながらも何とか回復した時、医師からこれからお子を授かる事は無理であろうと、そっと耳打ちされた。



 周りは世継ぎの王子を望み側室を勧めるが、姫とはいえ愛する王妃と自分の子がいるのだからそれでよかった。


 王の愛は変わらない。

 変わらず、愛する王妃をその手に抱いた。

 けれど王妃の気持ちが、どこか離れているような…、以前のような熱は返って来ることがなく、ふと、寂しくなる事があった。




 宴で、先に退出した王妃。

 今日は、王が王妃の為に異国から取り寄せたあの香りをまとっていた。

 夜伽の時には必ずつける香りを。

 王は手に持つ杯をぼんやりと回した。


 宴が終わり、人払いをして王は王妃の部屋に向かう。

 部屋に入ると、ふわりと香る王妃の香り。

 その香りが王を、誘っているような気がして、部屋に入るなりよろめいた王を支えてくれた、香りをまとった愛する人を強く抱きしめた。

 すると…いつもは返って来ない熱が。

 ひたむきな熱が返ってきた気がした。


 ああ…。これは夢なんだな。

 あり得そうにない事に、王は自嘲気味に笑う。


 王は夢の中の王妃を情熱的に愛した。



*****


 次の日、王は王妃の部屋で目を覚ました。

 深酒のせいで頭が痛い。

 聞けば王妃はクラウディア姫の部屋で休んでいるとの事だった。

 

 やはり、あれは狂おしい願いが見せた夢だったのだと、王は自嘲気味に笑った。

 部屋には、香水の残り香が漂っていた。

 








♧娘



 王と王妃はオリビアの憧れだった。


 優しく大らかで分け隔てなく、透き通るような青い瞳の、優雅な王妃。


 銀色の髪、美しい顔立ちの王は王妃を深く愛し、いつも優しく、けれど時折さみしげに王妃を見つめている。


 二人の姿は、まるで童話の幸せな結末のその続きのような、幸せの象徴のようだった。


 いつかこれほど愛されて幸せになりたい。

 年頃の娘らしい、ささやかな夢。


 身分の低いオリビアが、本来なら垣間見ることの無かった壮麗な世界と、高貴な人々。

 見ているだけで、うっとりと幸せだった。



 幸せ、だったのに…。




 その晩、王と王妃は宴に出席していた。寂しがるクラウディア姫に王妃は、


「早めに帰るから私のお部屋でおりこうに待っていなさい」


と告げた。

 姫は王妃の部屋で大はしゃぎだった。


「あ…っ!」


 オリビアは、姫が触ろうとした香水の瓶を慌てて取り上げようとして、倒してしまった。


 鏡台の上で倒れた小瓶から香水がこぼれ、辺りに王妃の香りが広がる。

 それは王が王妃のために異国から取り寄せたという、特別な香り。

 オリビアは慌ててハンカチで香水を拭き取った。


 指先から、香り立つ王妃の香りに、オリビアはまるで自分が憧れの王妃になれたかのような気持ちになった。


 眠くなったクラウディア姫は、それでも王妃の部屋で母を待つとグズり、王妃のベッドで眠ってしまった。

 疲れていたオリビアも、姫の手を握りながらベッドの横で眠ってしまった。



 気がつけば、部屋の明かりは落ちて、クラウディア姫はいなかった。


「私…あのまま寝ちゃったんだ…」


 慌てて部屋を出ようとしたところ、酩酊した王が王妃の部屋に訪れた。

 足元がふらついておぼつかない。倒れそうになる王をオリビアは慌てて支えた。

 宴で相当飲んだようだった。


「オフィーリア…?オフィーリア!」


 王はオリビアを強く抱きしめた。

 突然の事にオリビアは硬直したが…一瞬、自分の名前を…呼ばれた気がした。

 いつも王妃だけを見ている優しく寂しげな瞳が、今は熱心にオリビアを見つめていた。

 薄暗いとはいえ、間違える事などあるのだろうか?

 もし…この想いが本当に自分に向けられているとしたら…?

 唇が重なり、思考が溶けるような口づけと酒気に、気がつけば何も考える事ができなくなっていった。

 

 オリビアは、王の手を振り払う事ができなかった。



 香水の香りの中で、オリビアは儚い泡沫の恋をした。




*****


 王は眠ってしまった。


「愛している、オフィーリア…」


 そう、つぶやいて。


 身を起こしたオリビアは甘い嵐の余韻の中、静かに涙をこぼした。

 取り返しのつかない事を、してしまった…。

 王はやはりオフィーリア王妃として自分を抱いたのだ。

 けれど、そのあまりにもひたむきな思いを受けている時、まるで自分が愛されていると錯覚してしまったのだ。

 冷静になれば、わかることなのに。


 オリビアは急ぎ身支度を整え、王の寝顔を見下ろした。

 穏やかに寝息をたてる王の顔には憂いがなく幸せそうな寝息を立てていた。

 王にとっても幸せなひとときだったのだろうか?


 いや、何も…なかったのだ。

 王はこの部屋で眠ってしまった。

 それだけ。

 愛する王妃と違う娘を抱いても気づかないほど、王は泥酔していたのだから。



 夜明け前に王妃の部屋を出ようとした時、王付きの侍女とすれ違ってしまった。


「あなた、まさか…」


 乱れた服を見咎めた侍女がオリビアを心配し声をかけた。


「王は、酔われていたのです。大丈夫。何もありませんでしたよ。でも、王妃さまが心配されたらいけないので、このことはどうか、どうか誰にも言わないで…」


 普段からオリビアに優しく接してくれていた侍女はしばらく逡巡した後…頷いてくれ、オリビアはホッとした。



 その日、オリビアにブレイグの実家から親が危篤の報が届いた。

 オリビアはすぐに宿下がりを願い出て、現実から逃れるように城をあとにした。



 ブレイグで親の葬儀を滞りなく終わらせた後…泡沫の恋は確かな形を結び、オリビアの身に息づいていた。




 



グレンが初めてワーズウェントの王城の登城したとき、あっけらかんと笑っていた王妃も、うっかり者の王もそれぞれに抱えている想いがありました。


もともと、絆と縁のタイトルは「泡沫の恋」として王とオリビアの一夜の過ちのエピソードを描こうと思っていたのですが、かなりのボリュームになってしまったので、さらっと文末に触れるだけにして改題。


ほとんどの人は口に出さないだけでみな様々な思いを抱えています。見えてる通りじゃない。

グレンには拍子抜けするほどいい人過ぎた王家の人々も、きっと色々葛藤があったのでしょう。


王妃は王を悪者にしてあっさりグレンを迎えます。

そうするしか、できなかったでしょう。

王妃の不作為の果ての必然でしたから。

実は王妃こそ、オリビアには…本当に申し訳なく思っていたでしょうね。



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