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二〇二四年四月二十八日日曜日 午後十三時五十三分

 私の答えに黙々と耳を傾けていた先生は──表情を動かすことこそなかったが、やはり満足そうだった。



「先生」


「どうした」


「『逃げてもいい』って言ってくれて、ありがとうございます。でも、万が一私が逃げたら困るの先生たちじゃないですかね?」


「……」


「正直、今年に入っていろんなことをたくさん聞かされたから、今でもふわっと怖いですよ。でも、この先誰かに弱いとか才能ないって言われたとしても、私はもう逃げません。逃げたいと思えないし……あ、隠れたり戦略的撤退はするかもしれませんけど」



 複雑そうな渋い顔を保ちつつ沈黙する先生を見ながら、私は続ける。



「それに、ここまできたら何がなんでもなるようにしないと釣り合いが取れません。自分でやるって決めたなら、ひとつでも多くプラスにしますよ」



 口先ばかりの強がりも、最後まで押し通せばひとつの強さになる。

 言葉に嘘はない。だからこそ本物でも偽物でもいい。真実は、当人だけが知っていれば大抵のことは上手くいくものである。祖父風に言うなら「方便」、祖母風に言うなら「はったり」、織姫風に言うなら「猫かぶり」、姉風に言うなら──やはり「詐欺」だろうか。

 良いことを言った(てい)で私が胸を張っていると、先生は何かを思い出したように目を瞬かせた。



「鈴木」


「はい?」


「まさかとは思うが忘れていないか?」



 どこか呆れを(にじ)ませた先生の言葉に、一瞬思考が止まる。



「な……何を、何をですか?」


「……決闘における契約内容のことだ」


「え?」



 眉根を寄せる先生に言われて、私は数日前の出来事を順繰(じゅんぐ)りに思い返す。

 あの夜は本当にいろいろなことが起きたので細かな記憶は欠落しているものの、最低限のことを忘れるほど健忘症ではない。


 ──『(あるじ)たる鈴木(すずき)茉楠(まな)の勝利が確定した瞬間、『獄死』の魔女の自由は鈴木茉楠に預けるものとする』


 確か、ヤマトがそう言って、先生はあっさりとそれを受け入れたはずだ。しかし──



「……あれ? でも契約書って破られたから、それはもうなかったことになったはずでは」


「君は何を言っているんだ?」


「え?」


「……記憶が混乱しているようだな、無理もない。よく思い出してみなさい」



 私の生返事に、先生はそう言って突然壁の模様を観察する暇人(ひまじん)のように黙り込んでしまった。

 なぜだろう。黙られるよりいっそ(ののし)られる方がマシだと思ってしまうのは。先生が相手だからだろうか。



「いや、でも……だって、あれ?」



 突如自分の記憶に自信が持てなくなり、私は再度あの夜の出来事を(さかのぼ)る。

 重ねて何度も言うが、あの夜は本当にいろいろなことが起こった。アクシデントに次ぐアクシデント、事件からまた事件の波状攻撃には、かの名探偵の首も回らないという有り様だった。下手をすればどちらかが死んでいてもおかしくはなかった。それぐらい事態は切迫していたと言っていい。

 ──よくよく考えてみれば。私との決闘前後はともかく、『爆死』の襲撃中ずっと冷静だった先生とは異なり、私はほとんどパニック寸前で情報を整然とできていない気がする。

 つまり、何かを見落としている──あるいは聞き逃していることがある、ということだ。今までの先生の言葉をしっかり思い出してみよう。


 ──『君が勝てば私は二度と謀反(むほん)を起こさないし、私はあらゆる危険から君を守り通すと誓う』

 ──『契約書だ。ただ縛り付けるより、紙の方がお互いに安心できるだろう?』

 ──『この決闘は無効だ。ああ、心配せずとも勝負は君の勝ちだし、君とは今後二度と決闘することはない』


 漠然(ばくぜん)とした違和感が、喉元に張り付くような錯覚を覚える。

 前提として、先生は嘘をついていない。それは間違いないとみなしていいだろう。であれば、これらの発言に嘘はない──()()()()()、と解釈していいはずだ。

 そこから導き出される答え。それは。



「あ」



 我ながら間抜けな声を上げて、私はようやくその答えに気づく。

 ──つまり。契約書が破られたからと言って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



「ちょ、ちょ……ちょっと待って!」



 どもりながら、今までの先生の発言が私の頭の中を反芻する。

 こだまするように響く言葉の鈍痛(どんつう)に、思考が内なる理解を(こば)みながら悲鳴を上げる。



「せ、()()()()()()()()()()()って、それって、いやそんなまさか馬鹿なこと──」


「つまり、私の命は文字通り君の手中に委ねられた。私を生かすも殺すも、すべては君次第ということだ」



 他人事のように淡々と告げられた先生の言葉に、私はとうとう開いた口が塞がらなくなった。

 驚愕(きょうがく)、という日本語が生易しく聞こえてくるほど馬鹿げている事実に、軽く眩暈(めまい)さえしてくる。



(…………重っ!!)



 突如遅効(ちこう)してきた契約内容の重大性に、嫌な汗が大量に背筋を(つた)った。



「く……」


「?」


「く、く……クーリングオフ!」


「できるわけがないだろう。落ち着け」



 立ち止まりそうな思考回路を()じりながら苦し紛れに出した提案は、先生にすげなく却下された。



「じゃ、じゃあ今からでも契約をなかったことにすれば!」


「事の重大さを理解してもらったところ大変残念だが、魔女同士が一度交わした契約の破棄(はき)は不可能だ。後から条件を付け加えることは可能だが、破却は諦めた方がいい。なかったことにするにはリスクが高すぎるので、今はお互いに契約を完遂させることだけを考え──」


「先生はそれでいいんですか!!?」



 荒れるこちらを(いさ)めるように語る先生に、脇目も振らず私は声を(あら)げる。



「先生、私は真面目に言ってるんですよ!? あなた、私が『死ね』って言ったら死んじゃうんですよ!?」


「ああ。君が本当に心から望むなら、私は死ぬしか選択の余地はない。そういう契約で決闘を続行したのだから、文句なんてあるわけがないだろう」


「──」



 何の情動もなく淡々とした先生の回答に、私は絶句した。



「この件に関してだけは、君が気にする必要はない。これは、ヤマトが敗北する私に求めた決闘の条件でもある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」



 一切の曇りのない美しい両目で言い切った先生に、一方の私は言葉も紡げずどうにかなりそうだった。

 何か、何でもいいから、どんなに非論理的で荒唐無稽(こうとうむけい)でも構わない。先生の言葉に反論しなければいけない。こんなこと、許していいわけがない。許される謂れもない。自分の命は自分のものだ。他人の如何でどうこうしていいものではない。破棄できない契約に自分の命を担保にする人間がいたとしたら、その人はとんでもない命知らずか、頭のネジが飛び散った大馬鹿者だ。

 だから。どうして。それでも。なぜ。



(……なんで、そんな風に穏やかな顔でいられるんだろう?)



 悲しいはずだ。憎いはずだ。理性と現実では到底割り切れない感情(もの)が、確かにあるはずなのだ。

 ぽっと出の子どもに唯一の夢を奪われた人が、何でもないような顔で割り切れるというのだろうか。出会って数ヶ月もしない日本人の少女に、好き好んで命を預けたいと思えるものだろうか。

 いくら先生が魔女だからといって──魔女らしいといえばらしいかもしれないとはいえ、あまりに常軌(じょうき)(いっ)している発想ではないか。



「先ほど言っただろう。マダム・クローズが君を選んだ理由を理解した、と。あえてこの発言に付け加えるのであれば……そう、()()()()んだ。心の底から」



 誰がそこまでしろと言った──そう言いかけて、先生の静かな本音に無理矢理口を(つぐ)まされた。

 あのとき、ヤマトがその気になれば、決闘はあっさり中断させられていただろう。それでも、先生はヤマトに命懸けの交渉してまで決闘を続行させようとした理由が、私の首元を(つか)んで離さなかった。

 私は、傲慢(ごうまん)にも『もしも』を夢想する。──もしも、その理由の中に、先生が何物にも代えがたい価値を見出していたとすれば。それだけに(とど)まらない。もしも、先生がヤマトの死を(いた)んで、命には命で(つぐな)おうとしているのだとしたら。もしも、仮初めでも私をライバルとして見てくれていたなら──。

 仮に、今聞いたとしても先生は怒ったり傷ついたりはしないだろうが、ケリのついた話を蒸し返すのも野暮かと思い、一旦忘れることにする。もし私が間違っていたり自惚(うぬぼ)れていたりしたら、やはり少し気恥ずかしいから。聞くにしてももう少し仲良くなってからだと思う。これが最後の邂逅なわけもなし、どうせなら今度は気楽に話がしたい。

 あの日、あの瞬間。何をどう思っていたかを一緒に思い出すには、話の(さかな)はまず欠かせないだろうから。



「だから、それで……それが、いいんだ。君が私の代わりに夢を見せてくれるのであれば、私は本望だ」



 先生のその言葉とともに、私は完全に根負けした。

 だからといって、私はそれを嫉妬(しっと)とも同情とも、ましてや諦めとも優しさとも表現するつもりはない。



「先生」


「何だ」


「向こうではなんて言うか分からないけど……それ、日本語では『ケジメをつける』って言うんですよ」


「そうか。それは良い言葉を知った。ありがとう」


「どういたしまして~」



 私は気づけば空っぽになっていた綺麗な白い皿を眺めながら、さらに(かさ)の減ったアイスコーヒーに口を付けて、こう結論づける。

 結局のところ、理由なんて誰が何と言おうと常に単純なものだ。──誰にも邪魔されたくなかったし、誰にもやめさせたくなかった。ただ、それだけのことなのだから。

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