二〇二四年四月二十八日日曜日 午前十二時三十六分
ペパーミントグリーンの壁に寄っかかりながら、メダリオンと思しき絨毯に足を吸いつかせる。
「……」
「……」
目に優しい照明が、異国情緒漂う壁掛けと鏡の照り返しでより部屋全体の明るさを増す。
赤や緑を基調とした座席と程よいクッションの柔らかさが心地いい。私の貧相な想像でしかないパリの街中を彷彿とさせる穏やかに弾むBGMに混じる、人々の談笑が耳に馴染む。
だというのに、肩が凝るようなこの居ずまいの悪さと緊張感。原因は分かりきっているので、私は努めて視線を前に戻さない。
「……」
「……」
──それというのも。
目の前で会話を交わすこともなく、ただひたすら文庫本に読み耽る無愛想な青年さえ雰囲気をぶち壊さなければ、もっと快適だったろうにと思わずにはいられない。
「──お待たせいたしました。ごゆっくりお召し上がりください」
丁寧な説明をし終えた白い制服を纏う女性店員に軽く会釈し、私は早速待ち望んだ輝きに目を奪われた。
横長なケーキスタンドの一段目には鮮やかなフルーツに砕いたナッツ、艶やかなチョコレートとクリームで飾り立てられた色とりどりのパウンドケーキ。二段目にはミニサラダと厚みのある野菜のケーキが美しく陳列していた。
とりあえずアイスコーヒーを口に含んで、無駄に緊張感に満ちた空気をクールダウンさせる。すっきりとした水出しのアイスコーヒーには、焼き菓子がよく合うと相場が決まっているのだ。
これでひとまずは気まずい思いをしなくて済むだろう。
「……さて。君のリクエストにお答えして、ありがたくいただくとしよう」
運び込まれたケーキセットに、先生はようやく顔を上げて本を閉じた。
私はミニサラダに手を付けた後、ナイフとフォークで半分に切り分けたケーク・サレを口に運ぶ。
「先生、この塩ケーキ美味しいですよ!」
「そうか。ケーキは逃げないから味わって食べなさい」
彼はいつまで打てど響かずを貫くのだろうか。
一緒にここへ向かう途中、甘いものが好きだと聞いたのでしめしめとほくそ笑んでいたのだが──好感触だっただけに、よからぬ可能性を考えてしまう。まさか、ケーキを食べ終わるまで沈黙を保つつもりなのだろうか。まったく、私が何のためにこの店を選んだと思っているのか。いやむしろ、慣れない場所で余計に緊張させてしまったのだろうか。本日、この店の客の大部分は女性が占めている。しかし、突然の銃弾の雨を前に終始冷静だった先生がこのような状況で萎縮するだろうか。その姿をあまり想像できないし、考えにくい。
私は一瞬だけ先生の様子を窺う。
「……!」
先生は切り分けたケーキを頬張り、頷きながら嬉しそうに微笑んでいた。まったくの杞憂だった。
「……」
静かに喜んでくれているのはこちらとしても嬉しいが、この様子では埒が明かない。
私もゆっくりと味わいながら一段目を平らげた後、口直しにアイスコーヒーで一服する。
「──それで、私に話があるというのは何でしょう?」
「……」
「先生?」
久々のアフタヌーンティーを半分楽しんだところで、私はいよいよ話を切り出す。
すると、ブラックコーヒーよりはるかに苦々しい表情をしながら、先生は静かにカップを置いた。
「自分を殺しかけた相手と呑気に顔を突き合わせながらカフェで舌鼓、か。……正直、驚きを通り越して尊敬するよ。君の神経はどれだけ強靭に作られているんだ? 少なくとも、茉穂であれば絶対に私と来ようとはしなかっただろうな。日本人は穏やか温厚とはよく聞くが、普通年頃の少女はもっと嫌がるはずだろう」
「別に死んでませんし、お姉ちゃんとは違うし、特段私は温厚ってわけじゃないですよ。魔法のことだって結局先生が早とちりしただけじゃないですか。なんなら今まさに『お詫び』してもらってる最中なので、せっかくのケーキに水を差すような言い方しないでくださいよもったいない。ん、これも美味しい」
「む……」
私の反論に先生は押し黙った後、やはり観念してコーヒーを呷った。
言われるまでもなく、先生の皮肉めいた言葉の端々には、いっそ律儀なほど私への気遣いが読み取れる。今は私への罪悪感と居た堪れなさが正常に作用しすぎいるのか、先ほどからまったく視線が合わない。
おそらく、今までの体裁を気にして最低限強がっているのだろう。しかし、店に入ったときから泳ぎまくる目は心に正直なようだ。
「というか、驚いてると言ったらこっちですよ。まさか、会って開口一番また謝罪されるとは思いませんでした」
「意外か? あの夜以前の君の立場を考慮すれば、一度の謝罪では到底足りないだろう。未来の同僚かも不明瞭な人間から理不尽な喧嘩を売られた挙句、長年連れ添った家族を喪い、盤上外から『爆死』に射殺されるところだった。むしろ君はもっと怒っていい──というより、差し支えなければ答えてもらってもいいか?」
「どうぞ?」
「なぜ怒らない? なぜ責めない? 私は、いの一番に罵られ嫌われる覚悟を持って君に会いに来たんだ。わざわざ私の機嫌を取って、私に気を遣う必要はないはずだろう。……まさか、報復や離反を恐れているとでも言うつもりか?」
「……」
これが本当のデジャヴというものだろうか。
先生の負い目から生じたであろう疑問と困惑に、何と答えたものか私は舌を彷徨わせる。
「あの夜、君が言ったことは正しい。私は、自分の望みを満たすためだけに、君の亡くなった家族が遺した大事なものを、どちらも取り上げようとした卑怯者の腰抜け野郎だ」
あの日、私が時間稼ぎのためだけに九割九分適当にぶちまけた言葉を、本人だけは重く捉えていたらしい。
──しまった。我ながら大失態だ。ここまで彼が真に受けること自体、私にしてみれば想定外でしかない。
「もし、今の君に慈悲の心があるのであれば、どうか教えてほしい。──私は、君が何を考えて私とここにいるのか、まったく分からないんだ」
常時の彼が冷静沈着で明晰なのは疑いようがない。しかしながら、あの夜だけは例外中の例外だった。
『獄死』の魔法に閉じ込められた際の会話から、彼が魔女に対して敬意を抱き、魔法を心から愛していることはよく分かった。愛が強すぎるがゆえに──あるいは愛に対する絶対的自尊を確信しているがゆえに、必要以上に攻撃的になることは誰しもに心当たりはあるはずだ。私だって夕飯を作る際、虫一匹によるキッチンへの侵入を許そうものなら、心を鬼にして排除しようとするだろう。
(…………)
──なぜ自分を責めないのか、なんて。私が何を考えているのか分からない、なんて。
あのとき、我ながらかなり勇気を振り絞って言ったのに、肝心なことはまるで伝わらなかったらしい。
(勢いで言っちゃったから、今素面で言うのものすごく恥ずかしいんだけどなァ……)
しかし、言わねば伝わらぬなら、伝わるまで言うしかあるまい。
私はまたもやアイスコーヒーを口にして、無駄に喉を潤してから意を決して口を開く。
「先生もですよ」
「何がだ?」
「先生も、おじいちゃんが遺してくれた縁ですから」
「縁、だから……?」




