魔女になったイザベラ
砂が舞う地表を見ると、宇宙服を脱いでも死ねないのではないかと錯覚してしまう。
しかし、ここは-183度の極寒の世界、タイタン。大気中の成分はほぼ窒素が占め、酸素が殆ど存在しないこの星では、宇宙服を脱ぎ捨ててしまえば死を迎えることになる。
ヘルメットを外すとすぐに死ぬのか、それとも少しの間もがき苦しみながら死んでいくのか。
そんなことを考えながら歩き続けているということは、自分は本当は死ぬのをためらっているのではないかとイザベラは思った。
タイタンで三番目に大きい湖、プンガ海のほとりを歩くイザベラは、かつて地球で洋服のデザイナーをしていた。齢25歳という若さでデビューした彼女のデザインする服は、独創的で性別に囚われない、誰もが絶賛する芸術品であり、世の若者を虜にした。だが彼女の才能を妬んだ者がある日彼女を陥れた。彼女の服は盗作であると公の場で言い放ったのである。その者はイザベラより先にデザイナーとして成功していたが、イザベラの服が人気になり、世間で評価されると、自分の作品がかつての流行りとして人々から忘れ去られていくことに恐怖を憶え、彼女を罠に嵌めたのだ。
当然イザベラは否定したものの、ぽっと出の彼女より、以前から評価が高かったそのデザイナーの発言を人々は信用した。イザベラへのバッシングは瞬く間に広がり、ファンも友人も、両親さえも、イザベラを非難した。
デザイナー生命はおろか社会的にも抹殺された彼女は地球にいた頃、自宅のマンションで死のうと考えたが、ベランダで夜空を見上げた時、ふと星になろうと思いついた。
そうだ。宇宙で死ねばきっと星になれる。デザイン業界で星になれなかった私を、女神アテネが哀れんで、私の亡骸を夜空に上げて星にしてくれるだろう。どうせなら月や火星よりも遠いところがいい。地球から遠い方がアテネが私を見つけやすいかもしれない。確か、土星の衛星タイタンへの定期便がニューメキシコの宇宙空港から出ている筈だ。そこから地球を出よう。そしてタイタンで生涯を終わらせてしまおう――。
こうしてタイタンにやってきた彼女は、現地の観光ツアーの地表歩行イベントに参加してプンガ海を訪れたのである。
足が悪いと言って列の最後尾にしてもらったイザベラは行動に出た。薄暗い地表では歩行の際、宇宙服のヘルメットのライトを点灯させることになっていたが、イザベラはライトを消してしまった。そしてツアーの列から少しずつ離れ、岩陰に隠れると、遭難防止のために触らないように言われていた発信機の電源を切り、誰にも居場所がわからないようにしてから――タイタンは地球と比べて重力が小さいことを利用して――大きくジャンプし、列からどんどん離れていった。その後はひたすら歩き、メタン採取所や鉱石採掘場といった施設が全くない、人気のない場所にイザベラは辿り着いた。
タイタンに来てからどれくらい経っただろう。マンハッタンのマンションからニューメキシコに行って地球を出て、このタイタンに着いたのがもう何年も前のことのような気がする。ううん。昔のスペースシャトルと違って、光速エンジンの宇宙船で来たんだから、地球を出てまだ2日目ね。
死ぬつもりでここまで来たのに、何故私は死ぬのをためらっているの?
ああ、多分、歩いているからだ。この星では歩くのにけっこう気を使うから、つい目的を忘れてしまうのね。なら、歩くのを辞めよう。
イザベラは立ち止まり、地面を見た。
「え…」
そこに、地球の人々の顔が浮かび上がってきた。
「これは――」
最初に現れたのは、イザベラの作品を着たら、ボーイフレンドにプロポーズされたという手紙をくれた、ファンのリンジー。この娘は後に作品を着ている写真まで送られてきたから顔をよく覚えている。
次にハイスクールの頃から彼女の夢を応援してくれた親友のハンナ。ハンナはイザベラのデビューをシャンパンでお祝いしてくれた。
その次は彼女を弟子として時に厳しく、時に優しく支えてくれた師匠のスミス氏。
同様に次々と現れるファン、友人、ファン、友人。
最後は、生まれてから一生懸命自分に愛をくれた父と母の顔。
多くの人々の顔がイザベラの足元に現れた。皆、自分にとってかけがえのない人たちだった。――そう、かつては。
最後に現れた両親の顔を見たイザベラは突然、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「そんな、どうして」「このドレスを作った本当の人の名前を教えて!」「嘘でしょ、イザベラ」「君という人間は。おお、なんということだ」「人の才能を盗むなんて!」「おまえは世間様にとんでもないことを!」「ママはあなたを、あなたを信じるわ。だから過ちを認めて皆さんに素直に謝りなさい」
同時にイザベラの頭の中に、川の濁流のように言葉が流れる。
違う!違う!違う!私はそんなことやってない!私は人の作品を盗んでなんかいない!どうして?なぜ、みんなは私の言葉を信じてくれないの?どうしてあの人の言葉を信じるの?名誉が?名声が?信用が?一体何がみんなの心を惑わすの?お願い、誰か、誰か私の言葉を聞いて!私を信じて!私を助けて!なんで、なんで私を無視するの?誰も私を助けてくれないの?みんな、本当は私のことが嫌いなの?私を応援してくれたのは見せかけだったというの?そんな、そんな、そんなあなたたちなんか、あなたたちなんか!
イザベラは地面を踏みつけた。何度も何度も目一杯踏みつけた。彼女は浮かび上がる顔を踏みつけているのだ。自分を信じてくれなかった人々の顔を。もう二度と見たくない顔を。
しかし、何度踏みつけても、砂埃が立つ地面から顔が消えることはなかった。その顔は憎悪の、怒りの、侮蔑の、哀しみの、すべて彼女を否定する表情だった。
――嗚呼、苦しい!!イザベラは胸をおさえた。
顔たちが囁く。おまえが悪い。いけないのはおまえだ。誰も悪くない。誰もおまえを苦しめてなどいない。苦しめているのはおまえ自信だ。おまえの天性の才能がおまえ自信を苦しめている。苦しいか?苦しいだろう。この苦しみから解き放たれる方法はひとつしかない。おまえがおまえを終わらせるのだ!その手で!
「もう嫌!!―――」
現れる顔に耐えられなくなったイザベラは、宇宙服のヘルメットを外してその場に倒れた。
瞬く間に彼女の身体は凍りつき、硬く冷たい塊となり、動かなくなった。
イザベラが命を絶ったところからそう遠くない場所にある氷の山で、一部始終を見ていた者たちがいた。
この山に住む魔女の姉妹である。見た目は十代かそこらの少女に見えるが、すでに何百年と生き続けている長寿の魔女である二人は、ローブ一枚だけを羽織った生身の姿でタイタンの地表に住んでいた。
イザベラの亡骸に歩み寄る二人の魔女。
「こんな年端もいかない娘が、こんなところで…」妹の眼には涙が浮かんでいる。
「よほど思い詰めていたようね」と姉が言った。
「アヴェンタ姉様。この娘の記憶、見てもいい?」
「いいわよドール。でも気をつけてね。こんなとこで自殺するなんてとても普通の精神じゃない」
「はい」
ドールはしゃがんでイザベラの額に手をかざした。
ドールの頭の中にイザベラの記憶と思いが流れ込む。
「うっ――」一瞬苦しむドール。
「大丈夫?ドール?」
「へ、平気。この娘、イザベラって言うのね。でも姉様、この娘とてもかわいそう」
「どういうの?」アヴェンタはドールの手を握り、イザベラのすべてを見た。
「――そう。地球の人間は私たちのお婆様を追い出した時から変わってないのね。むしろ、昔よりもたちが悪くなってる」
「こんな哀しいことがあっていいの?」
「ドール、お婆様が言っていたでしょう。地球にいる者は相手が見ている世界を見ようとしないって。だから魔女狩りなんて愚かなことをしたし、その後も争いがやめられない種族になってしまったとね」
「この娘は何も悪くないのに。どうしてこの娘の両親は彼女の言葉を信じなかったの?」
「それが人間よドール。まったく、このタイタンにまで進出してきたから、少しは進歩したものと思っていたのだけれど。どうやら私の見当違いだったようね」
「とても辛かったね。とても哀しかったね」ドールはイザベラのために涙を流した。
「ドール。この星はもう駄目よ。もうここには住めないわ」
「そんな。だって姉様、私たちは土星の妖精を驚かさないように、氷の山で隠れて暮らしてきたのよ。今度だって人間に見つからないようにするくらい簡単よ」
「無駄よドール。人間は土星の妖精のように欺くことはできないわ。どんな術でカモフラージュしても必ず見破られる。ちっ、こんなことなら、おかしな機械が降りてきたときに妖精たちのようにこの星を出ていってしまえば良かったわ」
「それじゃ、また旅に出るの?」ドールはもう泣き止んでいた。
「そうよ。だからさっさと済ませてしまいましょう。旅支度もしなくちゃならないんだから」
「わかりました。姉様」ドールは立ち上がり、イザベラから一歩下がった。
「今あなたを救ってあげる」
ドールはローブの中から金でできた裁縫針を取り出し右手の人差し指の先に突き刺して血を出した。
その血を左手の薬指の指輪に垂らし、地球の言葉ではない呪文を唱えて左手をイザベラに向けてかざすと、イザベラの亡骸は輝き始めた。
すると、イザベラの凍りついていた顔に血色が戻り、永遠に開くはずのなかった瞼がゆっくりと開き、イザベラは息を吹き返した。
「…私は?」イザベラはゆっくりと起き上がった。
「良かった、目を覚ましたわ!」ドールはイザベラに近寄り彼女を抱き締めた。
「ここは天国?ずいぶん暗いようだけど」イザベラは自分の身に何が起きたのかわからないようだった。
「いいえ。タイタンよ。あなた生き返ったのよ」
「魔女としてね」アヴェンタが言った。
「今なんて言ったの?魔女?あなたたちは何者?女神様ではなさそうだけど」
「そんな大それた者じゃないわ。私たちは、あなたたち人間が過去に地球から追いやった魔女の末裔よ」
「末裔?ということはあなたたちも魔女なの?」
「ええ。その通り。だからこんな格好でも平気なわけ」アヴェンタは一回まわってみせた。
「そういえば私、ヘルメットがないのに生きてる!?」
「魔女になったんだもの。そんなもの必要ないわ。立てる?」ドールはイザベラの背中を支えて、彼女を優しく立たせた。
「さてと。さっさと旅支度をしましょう。あなたも手伝って」とアヴェンタ。
「旅?この星を出るの?」イザベラはアヴェンタに訊ねた。
「人間がすぐそこまで迫っているからね。私たちのお婆様は最初は月へ行ったのよ。でもそこにも人間がやってきて、身の危険を感じたお婆様はその次に火星、金星と人間がやってくる度に家族や仲間を連れて星を渡り歩いたわ。魔女は人間とは相容れない関係なのよ」
「なら私はもう地球には戻れないのね」イザベラは遠くのコロニーの方角を見つめた。
「まだ人間たちに未練があるの?」今度はアヴェンタがイザベラに訊ねた。
「いいえ。今更帰ったって、また非難されるだけだわ。それに私は一度死んだんだもの。私もあなたたちについて行く」イザベラは二人に向き直った。
「それがいいわ。新しい仲間なんて何百年ぶりかしら!」ドールは両手を合わせて喜んだ。
「天王星や海王星、他の星にも魔女の仲間がいるのよ。まずはお父様とお母様がいる木星へ行きましょう。きっと喜ぶはずだわ」アヴェンタはイザベラの隣に立つ。
「木星?あそこに人が住めるの?」
「魔女に人間の常識は通用しないわ。あなたには色々と覚えてもらわなくちゃいけないことがあるの」
「さぁ行きましょう」魔女の姉妹はそれぞれイザベラと手を繋ぎ、彼女と共に空へ上がった。
「私、飛んでる!?」イザベラは驚く。
「あなたもすぐに一人で飛べるようになるわ」とアヴェンタ。
二人は繋いでいない片方の手を広げ、イザベラを連れてタイタンの空を飛んだ。
「飛ぶことができれば色んな星に行けるのよ。そうだわ姉様、お父様とお母様に挨拶したら三人で太陽系を旅しましょう」
「それはいい考えね。どうせなら太陽系をひと通りまわったあと外の宇宙に行きましょうか」
「外の宇宙?あなたたち魔女はそんな遠くまで行けるの?」
「言ってるでしょう、魔女には人間の常識は通用しないって」
「すてき!アンドロメダやプレアデスへ行くのね。ねぇイザベラ、あなたにはダイヤモンドでできた星があるって想像できる?」ドールが嬉しげに言った。
「ダイヤモンドでできた星ですって?そんな星があるなんて信じられない」
「それだけじゃないわ。鉄の雨が降る星や熱い氷が存在する星、アルコールの湖がある星だってあるのよ」
「宇宙はとっても広いの。ドールが言った星以外にも、人間には想像もつかない不思議な星が無限にあるのよ」
二人の話を聞いたイザベラの心に希望の光が灯った。
「とても楽しみだわ。ねぇアヴェンタ、ドール」
『なに?』二人は声を合わせて返した。
「私を救ってくれてありがとう」
二人はイザベラの顔を見る。
「人から礼を言われるなんてはじめて。ねぇドール」
「なんだかとっても嬉しいわ姉様」
他人に感謝されたのは二人にとって初めてのことだった。
「それからひとつ聞きたいんだけど、私は何を手伝ったらいいの?」
「あなた、地球で服のデザイナーをしていたでしょう」
「ええ」
「木星に着いたら、あなた自身と私たちの旅の服を仕立ててもらえるかしら?」
「私があなたたちの服を?」
「あなたのも含めて、よ。ドールを介してあなたの記憶を見たとき、あなたの作品を見たの。私たちあなたの服がとても気に入ったわ。それに、あなたもそんな格好じゃ動き辛いでしょ。だから旅行にぴったりの服を仕立ててほしいの」
「いい?イザベラ」
「ええ、喜んで。私を救ってくれたお礼に、宇宙の旅にふさわしい服をデザインするわ」
『ありがとうイザベラ』アヴェンタとドールは感謝の言葉を綺麗に揃えてイザベラに言った。
空飛ぶ三人の真下で、イザベラを捜すツアーガイドの姿が見えた。
「いけない、私が飛んでるところを見られたら大変!」
「心配ないわ。ねぇ、姉様」
「こうしてしまえばいいのよ」アヴェンタは軽く指を鳴らしてみせた。だが、特に変化はない。
「何も起きないけど…。あ、ガイドがこちらを見上げたわ!」
イザベラが見つからず、途方に暮れたガイドは三人がいる空を見上げたが、イザベラたちにはまったく気づいていない様子だった。
「大丈夫。今だけ私たちの姿は見えないわ。このまま宇宙へ出てしまいましょう。この状態なら、人間がタイタンのまわりに打ち上げたおかしな機械にも見られずに済むわ」
「本当にありがとう。ごめんねガイドさん。それから、さよなら地球のみんな。さよならタイタン」
「姉様、雲に入るわ。イザベラ、私たちの手をしっかりと握っていてね。タイタンの雲は暗くて厚いから、手を離したらはぐれてしまうわ」
「ええ、絶対に手を離さない」
やがて三人はタイタンの厚い雲の中へと消えていった。
もし、姉妹の魔法を見抜くことができる者がいたとしても、地上からは雲に入った三人を見つけることはできないだろう。
地球にいる人の心には常にタイタンの雲のような厚い雲がかかっている。
その厚い雲が、雲の向こうの真実を隠してしまうのである。
そして、人はその雲を払おうともしない。
人の心が晴天になるには、まだかなりの時間を要するだろう。
心が晴れない限り、これからもたくさんのイザベラが現れることになるのである。
その事実にも気付くことはないまま、人は宇宙へ出ようとしている。
それはおそらく、イザベラたちとは違う、苦難の旅路――。
三人が去ったタイタンには、相変わらず、砂が混じった窒素の風が吹いていた。




