憎しみだけでは選べない
日が傾き、焼け跡から伸びる影が長くなった頃、リナはようやく顔を上げた。
涙は止まっていたが、悲しみが消えたわけではない。行き場を失った重いものが、胸の底へ沈んだだけだった。
しばらくすると、アルトが一人で戻ってきた。彼は何も言わず、少し離れた焼け壁へ背を預けて座る。
「一人にしてって言った」
「十分待ったと思った」
「勝手に決めないで」
「悪かった」
アルトは言い訳をせず、そのまま口を閉じた。
沈黙の中、風に運ばれた灰が二人の間を横切っていく。無理に慰められるよりも、何も言わずに隣にいられる方が、今のリナにはありがたかった。
それでも胸へ残っていた疑問は、沈黙だけでは消えてくれなかった。
「どうして、グレンを殺さなかったの?」
「昨日も聞かれたな」
「答えてない」
「町が燃えていたから、助ける方を優先した」
「そういうことじゃない。ガルディアの兵士たちも殺さなかったし、グレンのことだって、最初から殺すつもりはなかったでしょ」
「あの剣を奪えれば、それでいいと思っていた」
「それで何が変わるの?」
リナの声へ、再び怒りが混じる。
「あいつは町を焼いた。父さんも母さんも弟も殺した。剣を取り上げたって、あいつのしたことは消えない!」
「消えない」
「だったら、殺すべきでしょ!」
アルトはすぐには答えなかった。やがて、静かな声で問い返す。
「グレンを殺せば、君の家族が戻るのか?」
「戻らない!」
そんなことは、最初から分かっている。
それでも、他に怒りを向ける方法が見つからなかった。
「あいつだけ生きているなんて、おかしいじゃない。家族はもう帰ってこないのに、町を焼いた本人は、今も何も失わずに生きている」
「そうだな」
「また、それ?」
「俺にも何が正しいのか分からないんだ」
「勇者なのに?」
「勇者だったからといって、何にでも正しい答えを出せるわけじゃない」
「それなら、何のために戻ってきたの?」
アルトは腰に差した無銘の剣へ視線を落とした。
「百年前に俺たちが残したものが、今の戦争に使われている。それを止めるためだ」
「聖剣を取り戻すの?」
「ああ」
「だったら、グレンからフレイムベルグを奪って。そのときは、剣だけじゃなくて、あいつも殺して」
アルトは答えなかった。
肯定も否定もしない沈黙が腹立たしかったが、どれほど責めても彼が軽々しく約束しないことだけは分かった。
「私も連れていって」
「どこへ?」
「グレンのところ。フレイムベルグを止めるんでしょ」
「危険だ」
「ここへ残って、私に何をしろっていうの?」
リナは焼けた家を見回した。
「帰る場所なんて、もうない」
アルトは何かを考えるように黙り込んだ後、リナの目をまっすぐ見た。
「復讐のためか?」
胸の奥を見抜かれたような気がして、リナは反射的に否定した。
「違う。フレイムベルグを止めるためよ」
「そうか」
「信じてないでしょ」
「君がそう言うなら、今はそういうことにしておく」
「何、それ」
腹が立ったが、本当の目的を自分でも否定しきれなかった。
自分一人ではグレンに勝てない。けれど、アルトなら聖剣を奪えるかもしれない。その場にいれば、自分にも矢を放つ機会があるかもしれない。
「連れていって。私なら弓を使えるし、治療もできる。荷物だって運べる」
「兵士と戦った経験は?」
「ない」
「昨日は敵を前にして動けなくなっていた」
「次は動く」
「その保証は?」
「ない。そんなもの、今の私にはできない」
「正直だな」
「嘘をついたって仕方ないでしょ」
アルトはリナの顔を見つめた。その目には、口にしなかった復讐心まで見抜かれているような気がした。
それでも拒絶しなかったのは、ここへ置いていけば、リナが一人でもグレンを追うと考えたからかもしれない。
「フィオナは反対すると思う」
「あなたが決めるんじゃないの?」
「二人で旅をしているからな」
「これからは三人になるかもしれない」
「もう決まったように言うな」
リナが黙って見つめ続けると、アルトは根負けしたように息を吐いた。
「条件が三つある」
「三つも?」
「一つ目。戦うときは、俺かフィオナの見える場所から離れない」
「分かった」
「二つ目。勝手に敵を追わない。特にグレンを見つけても、一人では追うな」
「……努力する」
「約束できないなら、連れていけない」
アルトの声は穏やかだったが、これだけは譲るつもりがないことが伝わってきた。
リナは掌の木の鳥へ視線を落とし、しばらく迷った末に答えた。
「分かった。勝手には追わない」
「三つ目。危険だと思ったら、すぐに助けを求める」
「それは、あなたも守るの?」
「ああ」
「絶対?」
「できるだけ」
「絶対って言って」
「……分かった。絶対に助けを求める」
まるで信用できない約束だった。それでも、今はその言葉を受け入れるしかない。
「それなら、私も約束する」
アルトは立ち上がり、右手を差し出した。
「よろしく、リナ」
出会ったときにも、彼は同じように手を差し出した。あのときは取ろうとしなかった手を、今度は少し迷ってから握る。
「グレンを止めるまでだから」
「ああ」
一人でグレンを追わないという約束に、嘘はなかった。
しかし、いつかアルトがグレンと再び戦うとき、その場に自分もいる。そのときこそ必ず矢を向けるという決意まで、捨てたわけではなかった。
◇
日が暮れ始める前に、三人はフェルナの焼け跡を離れた。
リナの腰には、焦げた部分を切り取った母の薬草袋が下がっていた。中には火を免れた薬草だけを戻し、補助兵として支給されていた作業用の短剣は荷物へしまった。代わりに手入れを済ませた父の短剣を腰へ差し、弟の木製の鳥は布に包んで懐へ入れている。
町の外で待っていたフィオナは、近づいてきたリナを見ると、わずかに複雑そうな表情を浮かべた。
「アルトから聞いたわ」
「反対する?」
「反対したところで、あなたはついてくるのでしょう?」
「うん」
「それなら、目の届かないところで一人にするより、近くにいた方がまだましね」
「それ、許可してくれるってことでいい?」
「アルトと交わした約束を守ること。それから、見知らぬ精霊や精霊力の集まる場所へ勝手に近づかないこと」
「そんな場所、見ただけで分かるの?」
「分からないなら、必ず私に聞きなさい」
「分かった」
「もう一つ。アルトが無茶を始めたら止めて」
リナは隣に立つアルトを見た。
「それが一番難しそう」
「二人なら、一人で止めるよりはましよ」
当人であるアルトが、納得できないように首をかしげる。
「俺の扱い、少しひどくないか?」
「自覚がないのが一番ひどいのよ」
三人はフェルナを離れ、再び街道へ戻った。次に目指すのは、ガルディア軍が占領しているフェルナ北部だった。そこからグレンとフレイムベルグの行方を追うつもりだった。
◇
町を出てしばらく進むと、前方に北へ向かって荷車を引く一団が見えた。
人数は十人ほどで、誰も粗末な服しか身につけておらず、軍人には見えない。先頭では幼い子どもを背負った女性が歩き、その隣には痩せた老人が付き添っていた。
「避難民かな?」
リナが小声で尋ねると、アルトは荷車の側面へ描かれた印へ目を向けた。
「あれは帝国領で使われている山鷹の印だ。ガルディアの人たちらしい」
三人の足音に気づき、一団が警戒するように立ち止まった。リナの指が腰に差した父の短剣に触れる。
「我々は兵士ではない」
老人が先に告げた。
「どこから来たの?」
「北の山村だ」
「ガルディア領の?」
「そうだ」
老人の後ろから、一人の子どもが怯えた顔をのぞかせている。
ガルディアの人間。
グレンと同じ国で暮らし、自分の故郷を焼いた軍に守られている者たちだと思った瞬間、リナの胸へ冷たいものが広がった。
「どうしてフェルナにいるの?」
「食料を受け取りに来た」
老人が指した荷車には、麦袋と干し肉が積まれていた。
「帝国軍は占領した村の倉庫を臨時の配給所として使っている。輸送隊が不足しているため、各村から代表者が取りに来るよう命じられたんだ」
「それで、子どもまで連れてきたの?」
「村に残っているのは病人だけだ。置いてくることはできなかった」
老人の後ろで、女性が背負った子どもを抱き直す。
「山では作物が満足に育たず、若い者は軍へ取られた。この食料がなければ、子どもたちは冬を越せない」
リナは荷車へ積まれた麦袋を睨んだ。
袋の一つには、フェルナ南部の農場で使われていた小麦の印が残っている。
焼かれた畑から運び出され、逃げた人々が持っていけなかった穀物。それが今、故郷を焼いた帝国の村へ配られようとしている。
「それを返して」
気づいたときには、言葉が口から出ていた。
「その食料はフェルナのものよ」
「我々は軍から受け取っただけだ」
「奪った物を受け取ったんでしょ」
「リナ」
アルトが静かに名前を呼ぶ。
「黙っていて」
リナは老人を睨みつけた。
「その麦を育てた人たちは家を焼かれたの。殺された人だっている」
「我々が町を焼いたのではない」
「同じ帝国の人間でしょ」
口にした言葉は、自分自身へ言い聞かせるように響いた。
同じ帝国の人間で、その軍に守られ、奪われた食料を受け取っている。ならば、この人たちも同じ罪を背負っている。
そう考えなければ、胸に渦巻く怒りを向ける場所がなくなってしまう。
老人の後ろで、怯えていた子どもが泣き始めた。母親がその背中をなで、必死にあやしている。
「それを返せば、あなたたちが困ることは分かってる。でも、その食料は本当なら、フェルナの人が生きるためのものだった」
「分かっている」
老人は目を逸らさずに答えた。
「分かったうえで、受け取った」
「だったら――」
「受け取らなければ、孫が死ぬ」
老人の服をつかんでいる少年は、リナの弟と同じくらいの年に見えた。頬はこけ、服から伸びた腕も細く、十分に食べられているとは思えない。
「だからって、他の国から奪っていいの?」
「いいとは言っていない」
「でも、受け取ってる」
「ああ。わしは国のためではなく、家族を生かすために受け取った」
その言葉が、リナの胸へ深く突き刺さった。
家族を生かすため。
それは自分も同じだった。もし父や母や弟が飢えていて、その前に奪われた食料が置かれていたなら、自分は受け取ることを拒めただろうか。
その食料を失うことで、見知らぬ敵国の誰かが死ぬと分かっていても、家族へ食べさせずにいられただろうか。
「だからって……」
リナは短剣の柄から手を離した。
「許せるわけじゃない」
「許してくれとは言わない」
老人は深く頭を下げた。
「だが、この子たちまで憎まないでくれ」
リナは老人の後ろにいる子どもたちを見た。
怯えた目と痩せた身体。自分たちが口にする食料がどこから奪われたものなのか、理解しているようには見えない。
それでも、この子たちがフェルナから奪われた食料によって生き延びようとしている事実は変わらなかった。
腹が立った。悲しかった。ガルディアに関わる者を、誰も彼も同じように憎んでしまいたかった。
けれど、弟と同じくらいの子どもへ、その怒りを向けることはできなかった。
「行って」
リナは街道の端へ寄り、道を空けた。
「食料は取らない」
「……ありがとう」
「感謝しないで」
「それでも、ありがとう」
村人たちは再び荷車を引き、北へ向かって歩き始めた。軋む車輪が乾いた土へ跡を残し、最後尾にいた少年が何度もリナを振り返る。その手には、小さな干しパンが握られていた。
懐に入れた弟の木製の鳥が、急に重くなったように感じられた。
「納得できない」
一団が遠ざかったあと、リナは絞り出すように言った。
「自分の国が奪った食糧で助かろうとしているのに」
「そうだな」
アルトが答える。
「でも、あの子たちを飢えさせればよかったとも思えない」
「そうだな」
「どうして、さっきから同じことしか言わないの?」
「俺にも答えがないからだ」
「勇者なのに?」
「さっきも言っただろ。勇者は何でも知っているわけじゃない」
リナは納得できない思いを抱えたまま、唇を噛んだ。
「グレンは敵よ。あいつを許すつもりはない」
「ああ」
「でも、あの子まで同じ敵なのかは……分からない」
「それなら、今は分からないままでいい」
「答えを出さなくてもいいの?」
「分かったふりをして、間違った答えを選ぶよりはいいと思う」
そう言ってアルトが歩き出し、フィオナもその隣へ並んだ。
リナは少し遅れて二人の背中を追った。
グレンへの憎しみが消えたわけではない。家族を奪った炎も、故郷を焼かれた悲しみも、何一つ軽くなってはいなかった。
それでも、帝国に暮らす子どもまで同じように憎めるのかと問われれば、答えることはできなかった。
リナは母の薬草袋へ触れ、父の短剣と、懐にしまった弟の木製の鳥の重さを確かめた。家族を失った悲しみも、グレンへの憎しみも、抱えたままだった。それでも、今の自分がどうしたいのかを考える間、そばにいてくれる者たちがいる。
前を行く二人へ追いつくと、アルトが一度だけ振り返った。リナは小さく頷き、グレンとフレイムベルグの行方を求めて、焼けた国境を北へ歩き始めた。




