灰の中に残されたもの
フェルナへ続く街道には、焼け焦げた荷車が何台も置き去りにされていた。外れた車輪は道端へ転がり、黒く炭化した荷台の周囲には、踏み荒らされた麦袋や割れた水瓶が散らばっている。
逃げる途中で捨てられたのか、それとも持ち主が炎に追いつかれたのか。それを確かめる術はなかった。
リナは短弓を肩へかけたまま、焼けた道を黙々と歩いていた。
少し前まで、彼女はこの街道を東へ逃げていた。背後から迫る炎と悲鳴に追われ、振り返ることさえできなかったのに、今は反対に、滅びた故郷へ戻ろうとしている。
「本当に行くの?」
フィオナに尋ねられても、リナは前を向いたまま答えた。
「行く」
「町に何が残っているか、分からないわ。家族も先に逃げて、別の場所へ避難している可能性がある」
「それも、確かめなければ分からない」
口調が思った以上に強くなった。心配してくれているだけだと分かっているのに、少しでも止められれば、自分の中に残っている希望まで否定されたような気がした。
フィオナはそれ以上何も言わなかった。先頭を歩くアルトも、二人の会話が聞こえているはずなのに振り返ろうとしない。
昨日の戦いで負ったアルトの左腕には、フィオナが巻いた包帯が残っていた。精霊術によって炎症は抑えられているものの、まだ大きく動かせる状態ではない。それでも本人は何事もなかったような顔で歩き続けていた。
「腕、大丈夫なの?」
リナが尋ねると、アルトは歩調を変えずに答えた。
「動くようにはなった」
「そういうことを聞いているんじゃない」
「痛みも少し引いた」
「それも違う。無理をしていないかって聞いてるの」
「してない」
リナが黙って包帯へ目を向けると、アルトは居心地が悪そうに視線を逸らした。
「……少ししかしてない」
「してるんじゃない」
「歩けるから問題ない」
「そういうところ、本当に腹が立つ」
アルトは困った顔でフィオナを振り返った。
「俺、何か悪いことを言ったか?」
「百年前からずっとそうよ」
「それでは説明になってないだろ」
「何度説明しても直らなかったもの」
呆れたようなフィオナの返事を聞き、リナは前へ向き直った。
二人のやり取りだけを聞いていると、昨日の戦いも、燃える町も、ずっと遠い出来事のように感じられる。けれど、肩へ食い込む短弓の重さが、それを過去にすることを許してくれなかった。
昨日、目の前にはグレンがいた。
故郷を焼いた男を射らなければならないと思ったのに、矢をつがえることさえできなかった。自分が選んだのは、傷ついた兵士を支えて逃げることだった。
助けた兵士はルミナス軍の後送部隊へ引き渡し、別れ際には何度も礼を言われた。自分がいなければ助からなかったかもしれない命が、確かに一つある。
それでも、胸の空白は埋まらなかった。
助けられた命を喜べばよいのか、それとも失ったかもしれない家族を嘆けばよいのか。どちらか一方を選ぶことなど、リナにはできなかった。
◇
昼を過ぎた頃、街道の先に小さな集落が見えてきた。
石造りの家が十数軒ほど並んでいたが、その半分は屋根を失い、残った壁にはガルディア軍の旗が掛けられている。すでに軍は通り過ぎたらしく、武装した兵士の姿はなく、井戸の周囲にいるのは老人と子どもばかりだった。
「ここもフェルナ領だったのか?」
アルトに尋ねられ、リナは頷いた。
「国境に近い村よ。ガルディア軍が来る前は、もっと大勢の人が暮らしていた」
井戸のそばで水をくんでいた老人が三人に気づいた。老人の視線がリナの髪と顔へ止まり、やがて驚いたように目を見開く。
「その髪……フェルゼンの娘か?」
思いもよらない名前を聞き、リナの足が止まった。
「私を知っているの?」
「薬草屋のエレナの娘だろう。名前は確か……」
「リナ」
「そうだ、リナだ。生きていたのか」
老人は水桶を地面へ置くと、足元を確かめながらゆっくり歩み寄り、記憶と照らし合わせるようにリナの顔を見つめた。
「母を知っているの?」
「知っているとも。わしの妻が熱を出したとき、薬を分けてもらったことがある」
胸の奥が大きく鳴った。家族につながる手掛かりをようやく見つけた気がして、リナは老人へ詰め寄った。
「母はここへ来なかった? 父と弟も一緒だったはずなの。三人とも町から東へ逃げたから」
老人の表情が曇った。
そのわずかな変化だけで、胸の内側へ冷たいものが入り込んでくる。
「リナ」
フィオナが小さく名前を呼んだ。
「黙っていて」
心配そうな声を振り切り、リナは老人だけを見つめた。
「家族に会ったの?」
老人はすぐには答えなかった。その沈黙が、どんな言葉よりも残酷に感じられた。
「お願いだから、教えて」
「町を出るところまでは見た。だが、橋へ向かう途中でガルディア軍が来たんだ」
「それから?」
「逃げる人が多すぎて、わしも妻とはぐれた。誰がどこへ向かったのか、すべてを見ていたわけではない」
「だったら、生きているかもしれないんだよね?」
「……そうだな」
老人の返事は、希望を肯定するにはあまりにも弱かった。それでもリナは、その言葉へ縋るしかなかった。
「フェルナの町には、生き残った人がいる?」
「何人かはいる。北側に残った者たちが、今も焼け跡を片づけているはずだ」
「行く」
即座に歩き出そうとしたリナを、老人が慌てて引き止めた。
「待ちなさい。町には消えていない火が残っているし、崩れかけた建物も多い。今入るのは危険だ」
「それでも、行かなければ分からない」
「分かったところで、どうにもならないこともある」
「分からないままよりはいい!」
抑えきれなかった声が、壊れた家々の間へ響いた。近くにいた子どもたちが怯えた顔で振り返り、老人もそれ以上の言葉をのみ込む。
代わりにアルトが一歩前へ出て、老人へ頭を下げた。
「案内できるところまでで構いません。町へ入る道を教えてもらえませんか」
「お前さんたちは?」
「俺はアルトだ」
「アルト?」
老人が驚いて目を見開いたため、リナはすぐに口を挟んだ。
「勇者じゃないから」
「本人なんだけどな」
「今は黙っていて」
「はい」
素直に引き下がったアルトを見て、フィオナが小さくため息をつく。
老人は三人を怪しむように見比べていたが、やがて諦めたように町へ続く道を教えてくれた。
「北門は崩れている。西側の畑を回り、川沿いから入るといい」
別れ際、老人はリナの方へ向き直った。
「何が残っていても、一人で抱え込むんじゃないぞ」
その言葉に返事をすれば、これから何を目にするのか認めることになりそうで、リナは何も答えられなかった。
◇
フェルナの町は、まだ遠くにあるうちから見つけることができた。
空へ絶え間なく伸びる黒煙の下で城壁は焼け落ち、見張り塔も途中から崩れている。以前は白い石壁に囲まれた、小さく穏やかな町だった。春になれば門の近くに色とりどりの花が咲き、市場からは焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。
今は風が吹くたび、黒い灰が舞い上がるだけだった。
西側に広がっていた畑もすべて焼け、水路は土砂で埋まり、焦げた柵が力なく倒れている。
リナは無意識のうちに歩く速度を上げていた。
「急がないで」
フィオナの声は聞こえていたが、立ち止まることはできなかった。
崩れた城壁の隙間を抜けて町へ入ると、焼け跡にはまだ熱が残っていた。石畳の隙間から細い煙が立ち上り、家々は壁だけを残して屋根も扉も失っている。
道端には焼けた食器や砕けた玩具、熱で形を失った金属片が散乱していた。つい先日まで続いていたはずの人々の暮らしが、炎によって途中から切り取られている。
「リナ?」
焼け跡の向こうから、誰かが自分を呼んだ。
振り返ると、頭へ布を巻き、右脚を引きずった女性が歩いてきた。顔は煤で汚れていたが、リナにはすぐに分かった。
「マルタさん」
「本当に、リナなの?」
幼い頃、隣の通りでパン屋を営んでいた女性だった。
足を引きずりながら近づいてくるマルタへ、リナは挨拶をすることも忘れて駆け寄った。
「母たちは?」
マルタの顔が強張る。
その表情だけで答えを悟りかけたが、リナは胸に浮かんだ考えを必死に打ち消した。
「知ってるでしょ。お願いだから、隠さないで」
マルタは苦しそうに視線を伏せた。
「あなたのお父さんたちは、町の東門へ向かっていたわ。でも、橋が逃げる人たちで詰まっていて、そこへ炎が来たの」
「それでも逃げたんでしょ?」
「お父さんは、途中で倒れた人を起こそうとしていた」
リナの呼吸が止まった。
どうして逃げなかったのか、どうして見知らぬ誰かを助けようとしたのか。胸の中で父を責める声が生まれた直後、自分も昨日、負傷した兵士を置いていけなかったことを思い出した。
自分は父と同じことをした。その事実が、怒りを向ける先さえ奪っていく。
「母さんと弟は?」
「一緒にいたわ」
「その後は?」
「橋が封鎖されたあと、三人は一度家の方へ戻ったの。裏道から町を出ようとしたんだと思う」
「それから、どうしたの?」
マルタは息を詰まらせた後、覚悟を決めるようにリナを見た。
「三人とも家へ戻ったけれど、そこから逃げられなかった 」
「見たの?」
「私は近くの水路へ落ちて、それで炎から逃れられた。三人は火が収まったあと、家の裏で見つかったの」
「違う」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
「見間違いかもしれない」
「リナ」
「顔を見たの?」
「ひどく焼けていたから、顔では確かめられなかった」
「だったら、別の人かもしれない!」
「……ごめんなさい」
「謝らないで!」
叫び声が焼けた町へ響き、マルタの肩が震えた。
リナは荒く息をしながら周囲を見回した。何かが残っているはずだった。家族が逃げた証拠が、生きていると信じられる何かが、どこかにあるはずだった。
「家はどこ?」
「残っているのは壁だけよ」
「それでもいい。案内して」
マルタは短く頷き、足を引きずりながら歩き始めた。アルトとフィオナも何も言わず、少し距離を置いてついてくる。
かつて市場だった広場を抜けると、中央にあった噴水は砕け、水も流れていなかった。そこから東の細い道へ入り、しばらく進んだところで、リナは足を止めた。
目の前にあったのは家ではなく、家があった場所だった。
外壁の一部だけが残り、その内側は黒い瓦礫で埋め尽くされている。母が薬草を干していた棚も、父が道具を置いていた作業場も、弟が遊んでいた小さな庭も、どこにも残っていなかった。
マルタが崩れた裏庭へ目を向ける。
「三人とも、裏庭へ続く勝手口の近くで見つかったの。遺体を運び出すだけで精いっぱいだったし、火も残っていたから、家の中までは探せなかった」
「三人……」
「身元を確かめられる物が残っていないか、ずっと気になっていたわ」
リナは吸い寄せられるように焼け跡へ足を踏み入れた。
「危ないわ。床が崩れるかもしれない」
フィオナが制止したが、リナは振り返らなかった。
「私の家だから」
「今は、以前の家と同じではないわ」
「そんなこと、分かってる!」
強く言い返した途端、フィオナを責めても何も変わらないことに気づいた。唇を噛むリナへ、フィオナは怒ることなく告げる。
「私が先に調べるわ」
「触らないで」
「でも――」
「自分で探したいの」
リナはその場へしゃがみ込み、黒く焼けた木片を一つずつどけていった。指先はたちまち灰で黒くなったが、手を止めることはできなかった。
何を探しているのか、自分でも分からない。
家族がここにいた証拠なのか、それとも、ここから逃げた証拠なのか。どちらを見つけたいのかさえ分からないまま、リナは瓦礫を掻き分け続けた。
やがてアルトも隣へ膝をつき、黙って瓦礫を動かし始める。
「触らないでって言った」
「フィオナには言っていたけど、俺には言ってないだろ」
「同じことよ。それに、左腕を怪我してるじゃない」
「左腕はあまり使わないようにする」
「そういう問題じゃない」
「一人で全部どけるつもりなのか?」
答えられなかったリナに構わず、アルトは右手だけで崩れた柱を少しずつ動かした。フィオナも直接瓦礫には触れず、弱い風を起こして灰を払っていく。
三人で探し始めてから、どれほど時間がたったのか分からない。指先が灰で真っ黒になり、日が少し西へ傾いた頃、勝手口に近い瓦礫の下から布の端が見つかった。
「リナ、ここを見て」
フィオナが示した場所へ駆け寄り、焦げた板をどけて布袋を引き出す。
それは端こそ焼けていたものの、深い緑色と、表面に縫われた白い花の模様が残っていた。
「母さんの……」
母がいつも腰へ下げていた薬草袋だった。中には乾いた葉と砕けた薬瓶が残っている。逃げるときにも、母は必ずこれを持っていたはずだった。
「急いでいたから、ここで落としただけかもしれない」
リナは誰にともなく言った。
誰も答えてくれないため、もう一度、自分へ言い聞かせる。
「そうだよ。きっと、逃げる途中で落としただけ」
さらに瓦礫を探ると、少し離れた勝手口の内側で、指先が硬いものへ触れた。引き出したのは、火によって黒く変色し、鞘の半分を失った短剣だった。
柄の端には、小さな傷が三本刻まれている。
父が作った短剣だった。リナが十二歳になったとき、護身用として持たされた物と同じ型で、父は自分の短剣にも同じ傷を刻んでいた。
「父さん……」
手の震えを止められなかった。
母の薬草袋と、父の短剣。二人がこの家へ戻ってきたことは、もう疑いようがないように思えた。
それでも、弟の物は見つかっていない。
まだ、生きているかもしれない。
そのわずかな希望へ縋っていると、裏庭の端で膝をついたアルトが、低い声で名前を呼んだ。
「リナ」
「何?」
アルトは答えず、灰の中から何かを拾い上げた。
片方の翼を焦がし、嘴の先を欠いた小さな木製の鳥だった。
それでも、見間違えるはずがない。
父が削り、リナが色を塗った、弟の大切な玩具だった。弟は眠るときでさえ、それを手放そうとしなかった。
「返して」
アルトが差し出した木の鳥を、リナは奪うように受け取った。
「これも、落としただけ」
声がかすれ、思うように言葉にならない。
「弟は逃げる途中で落としたんだよ。だから、きっと生きてる」
マルタが目を伏せた。
その表情を見た瞬間、リナの中で張り詰めていた何かが切れた。
「そんな顔をしないで!」
「ごめんなさい」
「だから、謝らないで!」
焦げた翼が掌へ食い込むほど、木の鳥を強く握り締める。
「顔では分からなかったんでしょ? 本当に三人だったか、確かめられなかったんでしょ?」
「三人は同じ場所で見つかったわ。それに、この家の焼け跡から三人の持ち物まで見つかった。もう、別の人だとは…… 」
「言わないで」
「リナ」
「言わないで!」
叫んだ声は途中で崩れ、膝から力が抜けた。リナは灰の中へ座り込み、木の鳥を胸へ抱き締めた。
涙は出なかった。
ここで泣いてしまえば、家族の死を認めることになる気がした。父も母も弟も、もう帰ってこないのだと、自分の手で決めてしまうようで怖かった。
「まだ、決まってない」
喉が震え、うまく声が出ない。
「どこかで生きてるかもしれない」
フィオナがそばへ座ろうとしたため、リナは顔を上げないまま告げた。
「一人にして」
「でも……」
「今だけでいいから」
フィオナは立ち去ることをためらったが、アルトが静かに声をかけた。
「少し離れよう」
二人の足音が遠ざかり、マルタも何も言わずに焼け跡の外へ出ていった。
◇
一人になった家の跡は、耳が痛くなるほど静かだった。
遠くから瓦礫の崩れる音が聞こえ、風が黒い灰を運んでいく。かつて家族の笑い声や弟の足音で満ちていた場所には、もう何も残されていなかった。
「ただいま」
リナは焼けた家へ向かってつぶやいた。
当然ながら、返事はない。
「遅くなって、ごめん」
木の鳥を両手で包み込む。
「私、ちゃんと逃げたよ。母さんに言われたとおり、怪我をしている人も助けた」
誰へ何を伝えようとしているのか、自分でも分からなかった。それでも、一度こぼれ出した言葉は止まらなかった。
「父さんみたいに、見捨てられなかった。でも、そのせいで……家族のところには戻れなかった」
胸の奥を締めつけていたものが、ようやく涙となって落ちた。
一滴目が灰へ染み込み、その後を追うように、次の涙が頬を伝う。
「ごめん」
木の鳥へ額を押しつける。
「ごめんなさい……」
我慢していた悲しみが堰を切り、声を殺そうとしても抑えられなかった。息を吸うたびに胸が痛み、喉の奥から嗚咽が漏れる。
父の声も、母の笑顔も、弟が自分を呼ぶ声も、まだ昨日のことのように思い出せた。
忘れたくない。
けれど、思い出そうとするほど、二度と会えないという現実が深く胸へ突き刺さった。




