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伝承と重なる背中

 アルトは感覚の薄れた左腕をかばいながら、宿場町へ続く道を走っていた。


「走らないでと言ったでしょう!」


 隣を進むフィオナが声を上げる。


「今は歩いている場合じゃない!」


「途中で身体がもたなくなれば、誰も助けられないわ!」


「それでも、あの家まではもたせる!」


「百年前から、そういうところは何も変わっていない!」


 二人が言い合っている間にも、燃える家は近づいてくる。屋根の一部はすでに崩れ、無数の火の粉が夕暮れの空へ舞い上がっていた。


 入口は激しい炎に塞がれていたが、窓の奥から子どもの泣き声が聞こえる。


「使える水は残っているか?」


「ほとんどないわ」


「風は?」


「強く吹かせれば、周囲へ炎が広がる可能性がある」


「それなら、入口を開けるためだけに使う。家の中の火は動かさない」


 アルトは無銘の剣を抜き、周囲に残る風の精霊たちへ呼びかけた。


「中の炎を外へ出さず、入口を塞いでいる火だけを上へ押し上げてくれ」


 願いに応じ、小さな光が刃へ集まった。


 今度は敵を倒すためではない。炎によって閉ざされた道を開き、その向こうにいる命を救うための力だった。


 アルトが燃える入口へ剣を振るうと、刃から生まれた風が炎を左右へ押し分け、人一人が通れるだけの狭い道を作った。


「長くは保てないわ!」


「それだけあれば十分だ!」


 アルトは迷わず炎の中へ飛び込んだ。


 濃い煙が視界を奪い、息を吸うたびに喉が焼ける。熱気に晒された身体が限界を訴えていたが、立ち止まるわけにはいかなかった。


「どこにいる!」


「こっち……!」


 かすかな声が、奥の部屋から聞こえた。


 声を頼りに進むと、倒れた棚の向こうに小さな少年がうずくまり、その隣には意識を失った女性が倒れていた。


 左腕はすでにほとんど使えない。アルトは右肩と背中を倒れた棚へ押し当て、両脚へ力を込めた。


 仮初めの身体が悲鳴を上げ、視界が一瞬暗くなる。それでも歯を食いしばって押し上げると、重い棚がわずかに持ち上がった。


「今のうちに外へ行け!」


「でも、お母さんが……」


「この人は俺が連れていく。振り返らずに走れ!」


 少年は涙を拭い、炎の隙間へ向かって走り出した。入口ではフィオナが風の流れを維持し、少年を外へ導いている。


 その瞬間、焼けた天井から太い梁が落ちた。


 アルトは右手に持った無銘の剣を掲げ、迫る梁を受け止める。凄まじい衝撃が右腕から全身へ伝わり、刃の根元に髪の毛ほどの細い亀裂が走った。


「ここまで来て壊れるなよ」


 無銘の剣へ言い聞かせるように呟き、アルトは梁を横へ押しのけた。


 剣を鞘へ戻すと、意識を失っている女性のそばへ膝をつき、その腕を右肩へ回す。左手は身体へ添えることしかできなかったため、右腕と背中を使って女性を担ぎ上げた。


 入口へ続く風の道は、すでに狭くなり始めている。


「アルト、急いで!」


 フィオナの声に導かれ、アルトはふらつきながらも最後の一歩を踏み出した。


 家の外へ出た直後、背後で屋根が崩れ落ち、炎と黒煙が空へ噴き上がった。


 アルトは担いでいた女性を地面へ静かに寝かせる。フィオナがすぐに胸元へ手を当て、呼吸を確かめた。


「息はあるわ。かなり煙を吸っているけれど、すぐに治療すれば助かる可能性はある」


「そうか。間に合ったんだな」


 安堵した途端、張り詰めていた力が切れ、アルトの膝が地面へ落ちた。無銘の剣を杖のように突き立て、どうにか倒れるのをこらえる。


「少し休めば、また動ける」


「その台詞は、もう信用しないことにしたわ」


 フィオナがそばへ膝をついた瞬間、その輪郭が水面に映る像のように揺らいだ。


 森から遠く離れた影響なのか、それとも短時間に力を使いすぎたためなのか、今のアルトには判断できない。


 フィオナの姿はすぐに元へ戻ったものの、二人の左手首に刻まれた契約印の光も、先ほどまでより明らかに弱くなっていた。


「フィオナも限界なんじゃないか」


「誰かと違って、無理はしていないわ」


「姿が消えかけていたぞ」


「見間違いよ」


「それなら、今はそういうことにしておく」


 アルトには、フィオナが強がっていることなど分かっていた。今すぐ休ませたいという思いはあったが、自分も同じように身体の限界を隠している以上、それ以上追及すれば言葉がそのまま自分へ返ってくる。結局、彼女から目を離さないようにすることしかできなかった。


 二人が短い休息を取っている間にも、避難民と駆けつけたルミナス兵たちは懸命に消火を進めている。


 アルトは荒い呼吸を整えながら振り返った。


 戦場の向こうには、フレイムベルグを下げたままこちらを見つめているグレンの姿があった。


 追撃してくる様子はなかった。


          ◇


 グレンは、燃える町へ駆けていった青年の背中を、追うこともできないまま見つめていた。


「将軍、追撃のご命令を」


 副官に促されても、グレンはすぐには答えなかった。


 今追えば、あの青年を討つことができる。身体はすでに深く傷つき、握っている粗末な剣にも亀裂が入っていた。隣にいる精霊らしき少女も、満足に力を使える状態ではない。


 兵を率いて追撃すれば、確実に排除できるはずだった。


 しかし、フレイムベルグの出力は安定していない。先ほどのような過剰反応が市街地で起きれば、敵だけでなく、残っている住民や味方の兵士まで炎に巻き込む可能性がある。


 ルミナス軍も後方で隊列を整え始めていた。このまま深入りすれば、ガルディア軍の損害も無視できないものになる。


 もっとも、それだけがグレンの足を止めた理由ではなかった。


 普段の彼であれば、多少の危険を承知で追撃を命じていただろう。敵に立て直す時間を与えることこそ、さらなる犠牲につながると考えてきたからだ。


 それでも今は、命令を口にできなかった。


 グレンは倒れている部下たちへ視線を向けた。


 武器を壊され、意識を失っている者はいるものの、剣で斬られ、致命傷を負った者は一人もいない。馬から落ちて頭を打った兵士には、呼吸が止まらないよう最低限の手当てまで施されていた。


 戦場で敵にそのような情けをかける者を、グレンは愚かだと考えてきた。


 まして、勇者の名を騙る者が見せる振る舞いとしては、あまりにも不自然だった。英雄らしく装うのであれば、圧倒的な力で敵を打ち倒し、自らの強さを誇示した方が説得力を持つ。


 ところが青年は、自分が勇者であることを証明しようともせず、敵兵を殺さないために余計な力を使い、勝利を目前にしながら燃える家へ走っていった。


 その姿が、グレンの記憶の奥へ沈んでいた古い伝承を呼び起こす。


 百年前の勇者アルト・レイヴァンは、三本の聖剣を操り、魔王を討ち果たした最強の戦士として語られている。幼い頃からグレンが聞かされてきたのも、圧倒的な力によって敵を打ち倒した英雄の物語だった。


 しかし、数ある伝承の中には、異なる勇者像を語るものも存在した。


 勇者は敵味方を問わず、戦えなくなった負傷者を助けたという。勝利を目前にしていても、民間人が危険にさらされれば敵へ背を向け、その命を守るために走ったとも伝えられている。


 戦いを終わらせることよりも、目の前で失われようとしている命を優先した男。


 グレンは、そんな話を弱者が作り上げた美談にすぎないと切り捨ててきた。


 強者が敵を生かせば、敵は再び武器を取る。一人を救うために勝機を捨てれば、その結果としてさらに多くの兵士が死ぬ。そんな甘い戦い方を続けて、魔王を倒せるはずがないと考えていた。


 だが、先ほどの青年はフレイムベルグの癖だけでなく、核の動きや魔力の偏りまで正確に知っていた。


 そして今、グレンを討ち、聖剣を奪えるかもしれない機会を捨て、最後には燃える家へ迷わず飛び込んだ。


「将軍?」


 副官からもう一度呼ばれ、グレンは我に返った。


 手元のフレイムベルグへ視線を落とすと、赤い核が不規則に明滅している。先ほど自分が意図した以上の炎が生まれ、味方の兵士まで焼きかけたことを思い出した。


 青年に指摘されるまで、フレイムベルグの出力が自分の制御から外れ始めているとは認めようともしなかった。


 今でも、認めたくはない。


 帝国を救い、勝利へ導いてきた自分が、この剣を扱いきれていないはずはない。そう否定しようとするほど、炎が味方へ向かった瞬間の光景が鮮明に蘇った。


「負傷者を回収しろ」


 長い沈黙の末、グレンは命じた。


「追撃はいかがなさいますか?」


「ルミナス軍も態勢を整えつつある。このまま市街地まで踏み込めば、こちらの損害も増える」


「しかし、アルトを名乗る者を放置すれば、後に脅威となる恐れがあります」


「あれは偽物だ」


 グレンは即座に言い切った。


 しかし、その言葉は副官へ答えるためというより、自分自身へ言い聞かせるために発したものだった。


「勇者アルトは、百年前に死んだ」


「では、次に見つけた際は、ただちに討ちますか?」


 グレンはすぐには答えず、燃える町へ顔を向けた。


 青年は子どもと女性を救い出し、地面へ膝をついている。その隣では、銀白色の髪をした少女が彼を支えていた。


 フレイムベルグへの深い理解、敵を殺さずに退けた戦い方、そして勝利よりも住民の命を優先した背中。


 そのすべてが、グレンの知る古い伝承と重なっていた。


 グレンは迷いを断ち切るように、フレイムベルグを鞘へ収めた。


「次に会ったときは、私自身の手で確かめる」


 何を確かめるつもりなのか、副官は尋ねなかった。


 目の前に現れた青年が、本当に百年前の勇者なのか。それとも、伝承を利用して帝国を惑わせようとする偽物なのか。


 あるいは、自分がフレイムベルグを本当に制御できているのか。


 その答えを、グレン自身もまだ見つけられずにいた。


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