勝利を捨てた勇者
フレイムベルグから噴き上がった炎が夕暮れの空を赤く染め、押し寄せた熱風が野営地全体をのみ込んだ。
グレンはまだ剣を振り下ろしてすらいない。それにもかかわらず、周囲に残っていた草は一斉に黒く焦げ、地面に倒れている兵士たちの鎧も、触れれば皮膚を焼くほどの熱を帯び始めていた。
「動ける者は、負傷者を後方へ下げろ!」
アルトは声を張り上げながら、無銘の剣を身体の前へ構えた。
グレンの背後ではガルディア兵が槍をそろえ、いつでも突撃できる態勢を整えている。一方、野営地へ戻り始めていたルミナス兵も、敵の本隊を前にして足を止め、アルトたちの後方で慌ただしく隊列を組み直していた。
両軍の間に取り残されているのは、満足に動けない負傷者と、戦闘訓練を受けていない補助兵たちだった。自分の力で戦える者よりも、逃げることさえできない者の方が多い。
「フィオナ」
「分かっているわ」
名前を呼ばれたフィオナはすぐに両手を広げ、周囲へ意識を向けた。呼応するように、アルトの左手首へ刻まれた契約印が淡い翠色の光を帯びる。
アルトは契約を通じて流れ込んでくるフィオナの精霊力へ意識を重ね、そのつながりを足がかりに戦場の周囲を探った。
燃え上がる炎に怯え、地面や荷車の陰へ身を潜めている小さな精霊たちの気配が伝わってくる。土の中には昨夜の雨水がわずかに残り、治療用として運び込まれた革袋にも水が入っていた。荷車の車輪が沈んだぬかるみにも、まだ乾ききっていない水分がある。
しかし、どれもフレイムベルグの炎へ正面から対抗できるほどの量ではなかった。無理に力を集めれば、水に宿る精霊たちまで消耗し、存在を保てなくなる恐れがある。
それでもアルトは命じるのではなく、静かに呼びかけた。
「危険なのは分かってる。それでも、少しだけ力を貸してくれないか」
精霊たちから力を奪うつもりはない。応じるかどうかを決めるのは、あくまでも彼ら自身でなければならなかった。
わずかな沈黙の後、アルトの足元にある泥が小さく震えた。革袋の表面からも淡い青色の光が浮かび上がり、いくつもの小さな光が無銘の剣へ集まってくる。
精霊たちの力が宿ると、鈍い銀色の刃が薄い水の膜に包まれた。
「その程度の力で、フレイムベルグを防ぐつもりか」
グレンの低い声には、明らかな侮蔑が含まれていた。
「防げるかどうかは、やってみないと分からない」
「百年前の勇者を名乗りながら、そのような粗末な剣に頼るとはな」
「俺には、これで十分だ」
「偽物が」
吐き捨てるように言うと、グレンはフレイムベルグを振り下ろした。
剣から放たれた炎が地面を這い、大地を削りながら巨大な奔流となってアルトへ迫る。
アルトは無銘の剣を斜めに構えた。
「正面から受け止めないで!」
フィオナの声が飛ぶ。
「分かっている!」
炎と水が衝突した瞬間、耳をつんざくような音とともに大量の蒸気が爆発した。
アルトは押し寄せる力に逆らわず、刃を傾けて炎を身体の横へ流していく。わずかな水の力で巨大な炎を押し返そうとすれば、無銘の剣も、蘇生によって作られた仮初めの身体も耐えられない。
狙うのは炎を消すことではなく、流れる方向を変えることだけだった。
赤い奔流はアルトのすぐ横を通り過ぎ、誰もいない焼け跡へ突き刺さった。地面が激しく爆ぜ、巻き上げられた土砂と火の粉が空へ広がる。
流れから外れた炎が外套の端を焦がし、刃を覆っていた水の膜も、一度の衝突だけでほとんど蒸発してしまった。両腕には重い痺れが走り、踏ん張っていた足も大きく揺らぐ。
「アルト!」
「まだ動ける!」
左手首の契約印が明るく輝き、フィオナから送られた力がアルトの全身へ流れ込んだ。失われかけていた足の感覚が戻り、どうにかその場へ踏みとどまる。
しかし、フィオナにも余力があるわけではない。森を守り、アルトを蘇らせた彼女には、長時間にわたって力を送り続けられるほどの余裕は残されていなかった。
グレンはアルトを見据え、わずかに目を細める。
「今の炎を受け流したのか」
「昔、何度も使った剣だからな」
「貴様が、フレイムベルグを?」
「その剣は魔力を込めてから炎を放つまでの一瞬、刀身の核が内側へ沈むように暗くなる」
アルトはフレイムベルグの中央で脈打つ赤い核へ目を向けた。炎を放った直後の核は、先ほどまでと比べてわずかに輝きを弱めている。
「正面へ炎を放つときは、使い手の右側へ力が偏る。今の振り方なら、左側へ受け流されやすい」
グレンの表情から、わずかに余裕が消えた。
「なぜ、それを知っている」
「百年前、その偏りを抑えるのに苦労したからだ。何度失敗して、周囲を焦がしたのか覚えていないくらいにな」
「黙れ」
グレンがフレイムベルグへさらに魔力を注ぎ込むと、刀身から赤黒い炎が噴き上がった。
その色を見たアルトは眉を寄せた。
刀身の長さも、柄に刻まれた古い精霊文字も、核の位置も百年前と変わっていない。それにもかかわらず、剣から生まれる炎だけが、記憶の中にあるものとは明らかに異なっていた。
かつてアルトが使っていた頃の炎は、澄んだ赤色をしていた。激しい熱と破壊力を持ちながらも、魔力の流れは一つの方向へ整えられていた。
しかし今の炎には濁った黒色が混じり、流れも不規則に乱れている。
フレイムベルグそのものに、使い手を惑わせる意思があるわけではない。注ぎ込まれた魔力を炎へ変え、その力を増幅することが、聖剣に備わった機能だった。
だからこそ、使い手の怒りによって魔力が乱れれば、核はその乱れまで含めて増幅してしまう。感情に任せて力を注ぎ続ければ、いずれは使い手自身でも炎を抑えられなくなる。
「グレン」
「将軍を呼び捨てにするな!」
ガルディア兵の一人が怒鳴ったが、グレンは左手を上げて兵士を黙らせた。
「何だ」
「その剣を使うほど、怒りが強くなっていないか」
グレンの目が鋭くなる。
「何を言っている」
「怒りで乱れた魔力が、フレイムベルグの核によって増幅されている。今のあんたは、剣を制御しているつもりで、自分の感情を抑えられなくなっている」
「だからどうした」
「そのまま使い続ければ、いずれ敵と味方の区別さえつかなくなる」
グレンは地面を強く蹴った。
一瞬で二人の距離が縮まり、炎をまとったフレイムベルグが横薙ぎに振るわれる。
アルトは無銘の剣でその一撃を受けた。金属同士がぶつかる激しい音とともに火花が散り、腕から肩へ突き抜けた衝撃によって、アルトの足が泥の上を滑っていく。
純粋な膂力では、グレンの方がはるかに上だった。鍛え上げられた大柄な身体から放たれる剣撃へ、フレイムベルグが生み出す炎の力まで重なっている。
「私が感情を抑えられていないだと?」
グレンは剣を押し込みながら、低い声を絞り出した。
「この力によって、帝国は救われた!」
「国境の町を焼くことが、帝国を救うことなのか?」
「敵を早く屈服させれば、それだけ早く戦争を終わらせられる!」
「焼かれた町の人間にとっては、その瞬間にすべてが終わる」
「それが戦争だ!」
怒声とともに注ぎ込まれた魔力が乱れ、フレイムベルグの炎が大きく膨らんだ。無銘の剣を覆っていた水の膜は完全に蒸発し、熱を受けた刀身が赤く変色していく。
「アルト、離れて!」
フィオナの声に従い、アルトは剣で押し返そうとするのをやめた。身体を横へ滑らせて力の方向から外れると、支えを失ったグレンの剣が空を切る。
その隙に懐へ踏み込んだアルトは、無銘の剣を返し、フレイムベルグの柄を狙った。
グレンもすぐに腕を引いたため、切っ先は籠手の表面を擦り、浅い傷を残しただけだった。
「浅かったか」
「そこまで消耗しながら、私の腕へ届くとはな」
グレンは警戒するように距離を取り直した。アルトも無理に追わず、乱れかけた呼吸を整える。
蘇ってから、まだ半日も経っていない。頭と記憶には百年前の動きが残っているが、仮初めの身体は、その速さと負荷に耐えられなかった。
剣撃を受けるたびに腕の感覚が薄れ、無銘の剣にも細かな傷が増えている。それに対して、フレイムベルグの刀身には傷一つついていない。
「フィオナ、水の精霊たちは?」
「これ以上は危険よ。周囲に残る水が少なすぎるわ」
「そうか」
無理に力を借りれば、応えてくれた精霊たちが存在を保てなくなるかもしれない。森を守るために蘇った自分が、精霊たちを犠牲にして戦うことだけはできなかった。
アルトは痺れの残る両手で無銘の剣を構え直す。
「もう降伏しろ」
グレンが告げた。
「貴様が何者であれ、私の兵を一人も殺さなかったことだけは認めよう。今なら捕虜として扱ってやる」
「それは助かる」
「ならば剣を捨てろ」
「その前に、フレイムベルグを返してくれ」
「話にならんな」
「俺も同じことを思っていた」
グレンの背後では、ガルディア兵たちが武器を構え直している。一方、アルトの後方では、戻ってきたルミナス兵たちが負傷者の避難を進めていた。
リナも短弓を肩へかけ、先ほど助けた兵士へ肩を貸している。アルトと目が合うと、彼女は抑えていた感情をぶつけるように叫んだ。
「早く、そいつを倒して! そいつがフェルナを焼いたの!」
「分かっている」
「だったら、どうして迷っているの!」
「まずは、あの剣を手放させる」
「あれだけ話しても手放さない人に、まだ言葉が通じると思っているの?」
アルトが答えるより先に、グレンが再び地面を蹴った。
今度の剣撃は先ほどまでよりも速く、勢いも増している。怒りによって乱れた魔力を、フレイムベルグの核が過剰に増幅しているのだ。
アルトは一撃目をかわし、二撃目を受け流したが、三撃目までは避けきれなかった。熱を帯びた刃が外套を裂き、肩の表面をかすめる。
鋭い痛みとともに、焦げた布の臭いが立ち上った。
グレンは攻撃の手を緩めない。振り下ろしから横薙ぎへつなぎ、体勢を崩した相手へ突きを放つ。その剣技には軍人として積み重ねてきた鍛錬が表れており、決して聖剣の力だけに頼っているわけではなかった。
だからこそ、アルトは違和感を覚えた。
グレンの踏み込みと、フレイムベルグの炎が重なっていない。剣を振るってから一瞬遅れて炎が噴き出し、力を抑えるべき場面で出力が膨らむ一方、最大の力を必要とする瞬間には核が不規則に揺れている。
グレンの剣技と聖剣の出力が、明らかにかみ合っていなかった。
「右へ避けて!」
フィオナの声を聞いたアルトは、迷わず右へ跳んだ。
直後、それまで立っていた場所へ炎の柱が上がる。意図していなかった出力だったのか、グレン自身も一瞬だけフレイムベルグへ目を向けた。
「今の炎は、あんたが狙って放ったのか?」
「当然だ」
「違うだろう。今、あんた自身も驚いていた」
「黙れ!」
グレンが感情のままに魔力を注ぎ込んだ瞬間、フレイムベルグの核が再び過剰反応を起こした。
刀身から噴き上がった炎が兵士たちの目前を横切り、隊列の端にいた一人の外套へ燃え移る。悲鳴を上げた兵士へ仲間たちが駆け寄り、慌てて火を消した。
グレンの顔にも動揺が浮かんだが、それはすぐに押し殺された。
「それでも、完全に制御できていると言うつもりか」
「この程度の力も制御できずに、帝国を守れるものか」
「今、味方を焼きかけた」
「黙れ!」
グレンはフレイムベルグを両手で握り、大量の魔力を注ぎ込んだ。刀身の核が急激に輝きを増していく。
その光を見たアルトは息を止めた。
目の前にいる一人へ向けるような出力ではない。
「全員、伏せろ!」
アルトが叫ぶのと同時に、フレイムベルグが振り下ろされた。
巨大な炎の斬撃が地面を削りながら迫る。アルトは無銘の剣を構えたが、周囲に借りられる水の力は、もうほとんど残っていなかった。
正面から受け止めることはできない。しかし横へ避ければ、後方で避難している負傷者と補助兵へ直撃する。
「フィオナ!」
「風を集めるわ!」
二人の契約印が強く輝き、フィオナが両手を前へ突き出した。
戦場を流れる空気の中から、小さな光がいくつも姿を現す。炎を恐れて隠れていた風の精霊たちが、それでも逃げられない者たちを守るため、わずかな力を貸してくれたのだ。
集まった風が無銘の剣を包む。
アルトは炎から逃げず、正面へ踏み込んだ。刃を下から斜めに振り上げると、風が巨大な炎の底へ入り込む。
炎を消すのではなく、流れる方向を上へ変えるための一撃だった。
「上がれ!」
迫っていた炎の斬撃がアルトの目前で二つに分かれ、赤い奔流となって空へ巻き上がった。
凄まじい熱が身体の両側を通過し、アルトの外套へ火がつく。左腕の皮膚にも赤い火傷が走り、残っていた感覚がさらに薄れていった。
「アルト!」
「大丈夫だ!」
そう答えたものの、大丈夫であるはずがなかった。
左腕はほとんど言うことを聞かず、契約印の光も不規則に揺れている。それでも、後方にいる負傷者たちへ炎は届かなかった。
空へ押し上げられた炎は、赤い雲のように上空へ広がる。
グレンは驚愕したように目を見開いた。
「今の動きは……」
アルトは答えず、残された力で地面を蹴った。
フレイムベルグは最大出力を放った直後であり、核の輝きが一時的に弱まっている。剣を奪うのなら、今しかなかった。
アルトは右手で無銘の剣を握り直し、痺れた左手を添えながらグレンとの距離を詰める。グレンもその意図を悟り、フレイムベルグを引き戻して防御へ回そうとした。
しかし、炎の出力はまだ安定せず、核の輝きが戻りきっていない。
届く。
アルトがそう確信したとき、後方から切迫した叫び声が響いた。
「火事だ!」
アルトは反射的に視線を動かした。
巨大な炎を正面から受け止めていれば、後方の負傷者たちはのみ込まれていた。上へ流す以外に選べる方法はなかった。
しかし、空へ押し上げた炎の一部が上空で砕け、巨大な火の塊となって東へ流されている。
その先にあるのは、戦火から逃れてきた避難民たちが一時的に身を寄せている、小さな宿場町だった。
火の塊は町外れに建つ木造の家へ落ち、屋根を一瞬で炎に包んだ。折悪しく乾いた風が吹き、火は隣の建物へも燃え移ろうとしている。
「中に人がいる!」
「子どもが、まだ出ていない!」
避難民たちの悲鳴を聞き、アルトの足が止まった。
グレンはあと数歩の位置にいる。このまま踏み込めば、フレイムベルグを奪えるかもしれない。ここで剣を取り上げれば、新たな炎が放たれることもない。
しかし、今まさに燃えている家の中にいる者たちは、その数歩を待つことができなかった。
「行って!」
フィオナが叫んだ。
「でも、あいつが――」
リナの声が重なる。
アルトは一瞬だけグレンを見た後、無銘の剣を下げ、目前の勝機へ背を向けた。
「何をしているの!」
リナの悲鳴にも似た声が響く。
「今なら、あいつを討てるのに!」
アルトは燃える町へ走り出した。
「今は、燃えている家の中にいる人を助ける方が先だ!」
「逃げるのか!」
グレンの声が背中を追ってきたが、アルトは振り返らなかった。
「そう見えるなら、それでいい!」
フィオナもすぐにアルトを追い、その途中でリナへ声をかける。
「リナ、あなたは負傷者を安全な場所へ運んで!」
「私は……」
「早く!」
リナはグレンと燃える町を交互に見た。
故郷を焼いた男が目の前にいる。手にした短弓へ矢をつがえれば、届くかもしれない。今すぐ射たいという衝動に突き動かされ、弓を握る手へ力が入る。
それでも、彼女の肩には傷ついた兵士の重みがあった。ここで手を放せば、この兵士は逃げることもできず、次の攻撃に巻き込まれる。
グレンを憎む気持ちと、目の前の命を見捨てたくない気持ちが、胸の中で激しくぶつかった。
やがてリナは唇を噛み、短弓から手を離した。
「……分かった!」
負傷兵の身体をしっかりと支え直し、悔しさを押し殺しながら後退を始めた。




