勇者を名乗る男
襲撃がひとまず途切れた野営地には、ルミナス兵や補助兵だけでなく、ガルディア兵も大勢倒れていた。
リナたちを救った黒髪の青年は、剣を鞘へ収めると、先ほど馬から落とした敵兵のそばへしゃがみ込んだ。その行動に、負傷兵を支えていたリナの手が止まった。兜を外して呼吸と脈を確かめ、意識がないことを確認すると、慎重に身体を横向きにする。
「生きている。頭を強く打っているから、むやみに動かさない方がいい」
「何をしているの?」
思わずリナが問いかけると、青年は当然のことをしているという顔を上げた。
「見れば分かるだろう。息ができるようにした」
「そいつは敵だよ。今、私たちを殺そうとした」
「そうだな。見ていた」
銀白色の少女も別の負傷兵へ歩み寄り、裂けた額へ指先を向けた。そこからごく弱い翠色の光が流れ、出血がゆっくりと止まっていく。
傷を完全に治したのではなく、これ以上血を失わないよう、一時的に塞いだだけのようだった。
「やめて」
自分でも驚くほど低い声が、リナの口からこぼれた。
銀白色の少女が振り返る。
「何を?」
「そいつらを助けるのをやめて」
「放置すれば死ぬわ」
「死なせればいい」
言葉にした瞬間、胸の奥へ鈍い痛みが走った。それでも、リナは言葉を取り消そうとは思わなかった。
「ガルディアの兵士だよ。あの国の軍がフェルナを焼いた。私の家族だって――」
最後まで口にすることはできなかった。
家族が死んだと決まったわけではない。どこかで生きている可能性を捨てたら、自分は立っていられなくなる。
青年はしばらくリナを見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。
「この兵士が、君の町へ火を放ったのか?」
「同じ軍の人間でしょう」
「そうだな」
「だったら同じだよ。殺さずに放っておいたら、また追ってくる。今度は、こっちが殺されるかもしれない」
「そうなるかもしれない」
「だったら、どうして助けるの?」
青年は倒れている敵兵へ目を向けた。
「それでも、殺さずに済むのなら、その方がいいと思った」
あまりにも静かな答えに、リナは腹の底から怒りが込み上げるのを感じた。
「あなたは戦争を知らないの?」
「知っているつもりだ」
「本当に知っていたら、そんなことは言えない」
「そうかもしれないな」
「何なの、それ」
リナはてっきり言い返されると思っていた。自分の方が正しいと説教され、憎しみに任せているだけだと責められることを覚悟していた。
しかし、青年は自分の正しさを押しつけようとはしなかった。
「殺さなかったことが正しいのかは、俺にも分からない。ただ、今は誰も殺さずに止めることができた。だから、そうした」
「次も止められるとは限らない」
「そのとおりだ」
「次に誰かが死んだら?」
「きっと後悔する」
「それでも殺さないつもり?」
青年はすぐには答えず、少しだけ考えた。
「そのときに何を選ぶかは、その場にならないと分からない」
何も答えていないようにも聞こえたが、嘘やごまかしを口にしているようには見えなかった。
自分が常に正しいとは言わない一方で、一度選んだことの結果から逃げようともしない。その態度が、リナにはどうしても理解できなかった。
「リナ!」
後方から補助兵の少女が駆け寄ってきた。
「無事だったんだね!」
「そっちも無事でよかった」
「正規兵が戻ってくるって。今のうちに負傷者を集めるように言われたの」
リナはうなずき、周囲を見回した。
先ほど助けた兵士のほかにも、倒れた補助兵や、自力では動けないガルディア兵がいる。ここでもまた、連れていける人数には限りがあった。
その間に、青年はガルディア兵が落とした剣や槍、短弓を一か所へ集めていた。短弓の弦を切り、槍の柄だけを折ると、剣は離れた場所へ積み重ねていく。
「今度は何をしているの?」
「目を覚ましても、すぐには戦えないようにしている」
「その後は?」
「戻ってきたルミナス兵に、捕虜として扱うよう頼んでみる」
「頼んで聞いてくれると思う?」
「聞いてもらえなければ、そのときに別の方法を考える」
銀白色の少女が、わずかに眉を寄せた。
「あなたは、百年前から何でも話し合いで済ませようとするのね」
「最初から無理だと諦めるよりはいいだろう」
リナは地面に転がっていたガルディア兵の短弓を拾い、傷のない弓身と弦を確かめた。
故郷にいた頃、父に教わって小動物を狩ったことがある。人間へ向けて矢を放った経験はないが、身を守るための武器が何もないよりはよい。
「その弓を使えるのか?」
青年に尋ねられ、リナは短く頷いた。
「少しだけなら」
「それなら、持っていた方がいい」
「敵の武器だけど」
「武器そのものに敵も味方もない。使う人間が変われば、誰かを守るための道具にもなる」
リナは肩へかけた短弓を見下ろした。
それなら、故郷を焼いた聖剣も同じなのだろうか。そう考えかけたが、すぐに打ち消した。獲物を射るための弓と、一つの町を焼き払う剣を同じものとして考えることはできなかった。
「あなたたちは、何者なの?」
「そういえば、まだ名乗っていなかったな」
青年は集めた武器から手を離し、リナへ向き直った。
「アルト・レイヴァンだ」
その名前を聞いた瞬間、リナは時間が止まったように感じた。
アルト・レイヴァンの名を知らない者などいない。
百年前、三本の聖剣を手に魔王を倒したと伝えられる勇者。教会の壁画や兵士たちの掲げる旗、子ども向けの物語に至るまで、あらゆる場所で語り継がれている英雄だった。
「……何て?」
「アルト・レイヴァンだ」
「勇者の?」
「昔は、そう呼ばれていた」
リナは青年の姿を改めて見た。
煤に汚れた外套と傷んだ旅装を身につけ、腰に下げているのは、木目の残った柄を持つ古びた剣である。勇者を示す紋章もなければ、三本の聖剣も一本すら持っていない。
「勇者アルトが、そんな剣を持っているわけがない」
「これは今作ったばかりなんだが」
「それなら、余計におかしいでしょう!」
「そう言われても、聖剣は今、別の人間たちが持っている」
リナは言葉に詰まり、青年の顔を見つめた。
その顔立ちは、教会の壁画に描かれている勇者とほとんど似ていない。壁画のアルトは金色の鎧をまとった大柄な男で、光り輝く聖剣を掲げ、その背後には三色の翼まで描かれていた。
百年の間に、勇者の姿は国や教会の都合によって何度も描き直されたと聞いたことはある。それでも、目の前にいる青年ほど頼りなく描かれた勇者を、リナは一度も見たことがなかった。
「絶対に偽物だよ」
「百年後の俺が、どんな姿で描かれているのか知らないからな」
「本物なら証明して」
「どうやって?」
「聖剣を使うとか」
「だから、今は持っていない」
「それなら、魔王を倒した技を見せるとか」
「そんなものをここで使ったら、周囲まで吹き飛ぶ」
「本当はできないんでしょう」
「今の身体では、たぶん無理だな」
「やっぱり偽物じゃない!」
アルトと名乗る青年は、困ったように頭をかいた。その隣では、銀白色の少女が深いため息をついている。
「信じてもらえないのは当然ね」
「フィオナまで、そんなことを言うのか」
「百年ぶりに現れて、本人だと名乗るだけで信じる方が危険でしょう」
「言われてみれば、そのとおりだな」
二人とも、自分たちの言葉を疑われているにもかかわらず、取り繕おうとする様子がない。嘘をついているのなら、もう少し説得力のある話を用意するはずだ。
だからといって、百年前の勇者と精霊が突然現れたなどという話を、簡単に信じることもできなかった。
「そっちの人は誰なの? 」
リナが銀白色の少女へ尋ねると、彼女は表情を変えずに答えた。
「フィオナよ」
「伝承に出てくる精霊のフィオナ?」
「人間の伝承が何を語っているのかは知らないけれど、フィオナは私よ」
「精霊が人間みたいな姿で歩いているの?」
「上位精霊は人の姿を取れるわ」
「そんな話、聞いたことがない」
「これまで人間へ説明する必要がなかったもの」
何を尋ねても、自分の常識から外れた答えしか返ってこない。考えれば考えるほど混乱が深まり、リナは頭が痛くなってきた。
「もういい。信じるかどうかは後で考える」
今すぐ二人の正体を決める必要はない。少なくとも、ガルディア兵から助けられたことだけは事実だった。それ以上は関わらず、負傷者の避難を優先すればよい。
◇
リナがそう考えたとき、周囲の空気が変わった。
吹いていた風が急に止まり、燃えていた複数の天幕の炎が、何かに引き寄せられるように一斉に西へ傾く。
ガルディア兵たちが退いた林の向こうから、地面を伝って異様な熱が這い上がってきた。息を吸うだけで喉が焼けそうになり、リナの身体は恐怖によって動かなくなる。
この熱を、彼女は知っていた。
故郷を包んだ炎、国境砦を消し飛ばした赤い光、人々が逃げ惑う町の上空を焼いた聖剣の力。忘れようとしても忘れられない記憶が、目の前の熱によって鮮明に蘇った。
「来るわ」
フィオナが西へ顔を向ける。
先ほどまで浮かんでいた疲労は、その表情から消えていた。アルトも腰の無銘の剣へ手をかけ、林の奥を見据える。
「ここから下がっていろ」
先ほどまでの穏やかな声とは異なる、低く鋭い声だった。
リナは返事をすることもできず、西の林を見つめた。
退いていった騎兵たちが左右へ分かれ、その奥から黒い鎧をまとった大勢の兵士が姿を現す。槍をそろえた歩兵の後方には弓を構えた射手が並び、先ほど野営地を急襲した部隊とは比べものにならないほどの兵力だった。
そして軍勢の中央を、深紅の外套を揺らした一人の大男が歩いてくる。
黒鉄の鎧に身を包み、短く刈られた暗い赤褐色の髪を持つ男の右手には、炎を固めたような赤い剣が握られていた。刀身に埋め込まれた核が脈打つたび、周囲の草が炎さえ上げずに焦げていく。
第一聖剣、フレイムベルグ。
リナはその男の顔を見たことはなかったが、深紅の外套をまとい、フレイムベルグを振るうガルディア軍の将軍については、フェルナから逃げてきた難民たちから何度も聞いていた。
間違えるはずがない。
あの男こそ、故郷を焼いた軍を率いている将軍だった。
「グレン……」
絞り出した声が震えていた。
胸の中にあるのが怒りなのか、それとも恐怖なのか、自分でも分からない。手にした短弓の弦が、引いてもいないのに細かく鳴っている。それほど強く、指が震えていた。
グレンは周囲を見回し、折られた槍と使えないよう壊された武器、刃で斬られることなく倒された兵士たちへ順に視線を向けた。
最後に、その目がアルトで止まる。
グレンが魔力を注ぐと、右手に握られた赤い聖剣が低い音を立てて燃え上がった。
「我が兵を退けたのは、お前か」
アルトは答える代わりに無銘の剣を抜き、風へ呼びかけるように静かに構えた。
「話をしに来た」
「まずは名を名乗れ」
「アルト・レイヴァン」
その名を聞いた周囲の兵士たちが、一斉にざわめいた。グレンもわずかに目を細めたが、すぐに冷たい表情へ戻る。
「我らの前で、勇者の名を騙るか」
「今日だけで、それを言われるのは二度目だ 」
アルトはグレンではなく、彼の手にあるフレイムベルグを見つめていた。
その眼差しには、かつて自らの手で振るった剣と再会した懐かしさと、その力が人間同士の争いへ使われていることへの悲しみが入り混じっていた。
「その剣を返してもらいたい」
グレンの口元へ、わずかな笑みが浮かんだ。
次の瞬間、フレイムベルグから噴き上がった巨大な炎が、夕暮れの空を血のような赤へ染め上げた。




