置き去りにできない命
荷車の片側の車輪が、ぬかるみの中へ深く沈み込んでいた。
「もう一度、三人で押して!」
リナは声を張り上げると、木製の荷台へ肩を押しつけた。隣にいた二人の補助兵もそれぞれ位置を変え、泥に足を取られないよう踏ん張りながら力を込める。
木箱と麻袋を限界まで積み上げた荷車は、不満を訴えるように軋んだものの、なかなか動こうとはしなかった。正規兵ならともかく、十六歳の少女たちが押すには、あまりにも重すぎる。
肩口で切りそろえたリナの赤茶色の髪は、汗と泥で頬へ張りついていた。支給された灰色の上着も裾まで土に汚れ、肩を押し当てている部分には木材の硬い感触が食い込んでいる。それでも弱音を吐けば、その分だけ野営地への到着が遅れるだけだった。
「せーの!」
三人が呼吸を合わせて押すと、片側の車輪が泥の中からわずかに浮いた。手綱につながれた馬も力を振り絞り、甲高く嘶きながら前へ進もうとする。
次の瞬間、車輪が泥を跳ね上げながら抜け、反動で荷車全体が大きく揺れた。荷台の端に積まれていた木箱が傾き、そのまま地面へ落ちかける。
「危ない!」
リナは反射的に腕を伸ばし、胸元へ倒れてきた木箱を身体で受け止めた。重みと衝撃に息が詰まったが、どうにか地面へ落とさずに済んだ。
箱の隙間から見えた中身は、束ねられた矢だった。薬や食料でなかったことに、リナは少しだけ安堵する。矢も必要な物資には違いないが、負傷者の命をつなぐ薬よりは代わりが効く。
「リナ、大丈夫?」
「平気。箱を戻すのを手伝って」
心配そうに声をかけてきた少女へ答え、二人で木箱を荷台へ押し戻した。受け止めた腕には鈍い痛みが残ったが、それを顔に出せば余計な心配をかけるため、リナは何も言わなかった。
「早く進め!」
街道の先から、ルミナス兵の苛立った声が飛んでくる。
「日が落ちる前に野営地へ物資を運べ! 敵が待ってくれると思うな!」
「分かっています!」
リナが負けないほどの声を返しても、正規兵は振り向きすらせず、自分の隊へ戻っていった。その背中を見送りながら、隣の少女が不満を隠そうともせず舌打ちする。
「自分たちは馬に乗っているくせに、よく言うよ」
「聞こえたら処罰されるよ」
「聞かせるつもりで言ったの。補助兵を一人減らして困るのは、向こうでしょう?」
悔しいが、その言葉は間違っていなかった。
ルミナス王国では戦争の長期化によって兵士だけでなく、物資を運び、食事を作り、負傷者を世話する労働力まで不足している。そのため、フェルナから逃れてきた難民さえ、軍の補助部隊へ組み込まれていた。
表向きは、本人の意思で参加することになっている。補助兵にならなくても難民居住区から追い出されるわけではないが、働かなければ食料の配給を減らされ、寝床も治療も後回しにされる。
選択できるように見せかけているだけで、難民たちに選べる道など、最初からほとんど残されていなかった。
リナも、その一人だった。
正規兵ではないため、剣の扱いも隊列を組んだ戦い方も教えられていない。彼女たちに任されるのは物資の運搬や炊事、負傷者の手当てや伝令、そして戦闘が終わった後に散らばった装備や遺体を回収することだった。
「行こう。ここで止まっていたら、また怒鳴られる」
リナは手綱を握り直し、荷車を進ませた。
街道の左右には焼け焦げた草原が広がり、その向こうでは、黒い煙が何本も空へ立ち上っている。煙が昇っているのは、フェルナがある方角だった。
見ないようにしても、どうしても視界へ入る。
そこはリナの故郷があり、父と母、幼い弟がいるはずだった場所でもある。
家族とは、ガルディア軍の侵攻から逃げる途中ではぐれた。
国境を越えて敵軍が迫った日、町じゅうに避難を知らせる鐘が鳴り響き、人々は荷物を抱えて一斉に東へ逃げ始めた。 押し合う人の波の中で、リナは足を負傷した近所の老人を見つけ、放っておけずに肩を貸した。
家族から離れたのは、ほんのわずかな時間だった。
しかし、次に振り返ったときには父たちの姿が人波に遮られ、どれだけ呼んでも返事は聞こえなかった。その直後、町の後方で空を焼くほどの炎が立ち上った。
あれから、家族の消息は分からない。
きっと生きていて、自分より先に逃げ延びている。そう何度も言い聞かせてきたからこそ、リナはここまで歩いてくることができた。
「リナ?」
名前を呼ばれ、リナは我に返った。
「何?」
「また、ぼんやりしていたよ」
「してない」
「してた。でも……まあ、いいけど」
隣を歩いていた少女は、何かを尋ねかけて口を閉じた。
難民同士では、離れ離れになった家族について深く聞かないという暗黙の了解がある。生きているかもしれず、すでに亡くなっているかもしれない。誰も確かな答えを持っていないからこそ、無責任な慰めも、残酷な予想も口にできなかった。
◇
やがて荷車は、街道沿いに設けられたルミナス軍の前線野営地へ入った。
敷地内には布張りの天幕が所狭しと並び、負傷兵の呻き声が絶え間なく聞こえている。血と泥の臭いに、煮込み料理や馬糞、焼けた革の匂いまで混ざり合い、息をするたびに胸の奥がむかついた。
「矢は北側の倉庫へ運べ! 食料は炊事場だ!」
「手の空いている者は、治療用天幕へ回れ!」
あちこちから飛んでくる命令に従い、リナたちは荷物を降ろした。ようやく休めると思ったのも束の間、今度は人手が足りない治療用の天幕へ送られる。
天幕の中には十人以上の負傷兵が運び込まれていた。寝台はとうに埋まり、地面へ敷いた布の上で治療を待っている者もいる。
「水を持ってきてくれ!」
「包帯が足りない! 使えそうな布なら何でもいい!」
「誰か、この傷を押さえてくれ!」
治療師の声に応じ、リナは血に濡れた布を受け取ると、横たわっていた兵士の脇腹へ強く押し当てた。
「痛いぞ!」
「分かってる。でも、手を離したら血が止まらない。今よりもっと痛い思いをすることになるよ」
「そんな言い方があるか!」
「それだけ怒鳴れるなら、まだ大丈夫」
兵士は言い返そうとしたが、結局は歯を食いしばって痛みに耐えた。
リナは傷口を押さえたまま、近くにいた補助兵へ新しい布と熱湯を頼む。手を動かしている間だけは、家族のことも、外で続いている戦いのことも考えずに済んだ。
治療の基礎は、薬草を扱っていた母から教わっている。小さな傷なら水で洗い、清潔な布で縛る。熱が出れば薬草を煎じ、骨が折れている可能性があるなら無理に動かさない。
専門の治療師には到底及ばないが、何も知らない者よりは役に立つ。その事実だけが、今のリナを支えていた。
脇腹の傷へ新しい包帯を巻き終えたとき、野営地の外で鋭い警笛が鳴った。
最初の音に続いて二度目、さらに三度目が響いた瞬間、治療天幕の中にいた全員が動きを止めた。
「敵襲なのか……?」
誰かが不安げに呟いた直後、外から切迫した叫び声が聞こえた。
「ガルディア軍だ! 西の林から騎兵が来る!」
「後方に本隊も確認した! 総員、戦闘配置につけ!」
動ける正規兵たちが次々と天幕から飛び出していく。寝かされていた負傷兵の一人も身体を起こそうとしたため、リナは慌ててその肩を押さえた。
「動かないで!」
「敵が来ているんだぞ。寝ていられるか!」
「その身体で何ができるの?」
「剣を持つくらいならできる!」
「傷が開いたら、敵と戦う前に死ぬよ!」
兵士が反論するより早く、大地が大きく揺れ始めた。地面を打つ音の重なりからして、近づいている軍馬は数十頭どころではない。
迫る蹄の音に混じり、兵士たちの叫びが急速に近づいてくる。
「補助兵は、負傷者を連れて後方へ退避しろ!」
天幕の入口に現れた部隊長が声を張り上げた。
「自力で動ける者を優先しろ! 物資はすべて捨てて構わん!」
「動けない人たちは、どうするんですか?」
リナが尋ねると、部隊長は一瞬だけ言葉に詰まった。
「後続の者が運ぶ」
「後続って、誰ですか?」
「命令に従え!」
部隊長はそれだけ言い残し、防衛線へ向かって走り去った。
後続などいない。動ける正規兵はすでに敵を迎え撃つため配置につき、補助兵の数も足りていなかった。ここにいる負傷者全員を運び出すことなど、最初から不可能だったのだ。
「リナ、早く行こう!」
先ほど一緒に荷車を押していた少女が、負傷兵一人へ肩を貸しながら呼びかけてくる。
リナは返事をせず、治療天幕の奥へ目を向けた。
天幕の奥には、意識を失っている者や、脚を負傷して立てない者が残されていた。先ほど脇腹を手当てした兵士も、逃げていく者たちを不安そうに見つめている。
全員を連れていくことはできない。誰を助け、誰を置いていくのかを選ばなければならなかった。
その状況が、リナに故郷を逃げた日のことを思い出させた。
逃げ惑う人々と迫り来る炎、助けを求めて伸ばされた手。あの日、リナは家族のそばを離れ、負傷した老人を支えた。老人は無事に逃げ延びたが、その代わりに、リナは家族とはぐれた。
自分の選択が正しかったのか、今でも分からない。
「リナ!」
「先に行って。私は、この人を連れていく」
リナは脇腹を負傷した兵士の腕を取り、自分の肩へ回した。
「俺のことはいい」
「脚は動くんでしょう?」
「だが、このままでは君まで――」
「だったら歩いて。私一人では運べない」
兵士を立たせると、その顔が痛みに歪んだ。それでも彼は歯を食いしばり、リナへ体重を預けながら一歩を踏み出した。
◇
二人が治療天幕の外へ出たとき、野営地はすでに戦場へ変わっていた。
西側の防柵は破られ、侵入したガルディア兵が馬上から槍を振るい、逃げ遅れた兵士たちへ襲いかかっている。頭上では矢が飛び交い、火を放たれた天幕のそばには、横倒しになった荷車が散乱していた。
ルミナス軍の正規兵は後方へ下がりながら隊列を立て直そうとしているが、補助兵と負傷者はそのさらに後ろへ取り残されている。
「こっちへ!」
リナは兵士を支えながら、東側へ続く細い道を目指した。
わずか二十歩ほど進んだところで、背後から軍馬の嘶きが聞こえた。振り返ったリナの視界いっぱいに、槍を構えた騎兵が迫ってくる。
「伏せて!」
リナは負傷兵を道の脇へ突き飛ばし、自分も地面へ転がった。直後、二人の頭上を鋭い槍の穂先が通り過ぎる。
泥に手をついて顔を上げると、黒い鎧をまとったガルディア兵が、馬上からリナを見下ろしていた。血に汚れた槍を構え直す兵士の目には、怒りも憎しみも浮かんでいない。ただ命令どおり敵を仕留めようとする、冷たい光だけがあった。
今度は外さないつもりだ。
リナは腰へ下げた短剣に手を伸ばした。補助兵へ作業用として支給された粗末な刃であり、騎兵とまともに戦える武器ではない。
それでも、何もせずに殺されるつもりはなかった。
騎兵が槍を突き出そうとした瞬間、横から飛んできた小石が、馬の額を覆う鉄製の馬面へ当たって甲高い音を立てた。驚いた馬が嘶いて前脚を上げたため、狙いの外れた槍がリナの横を通り抜ける。
「今のうちに走れ!」
誰かの声とともに、黒髪の青年が横倒しになった荷車の陰から飛び出してきた。
青年が身につけているのは濃灰色の上着と色あせた外套で、腰には華美な装飾のない古びた剣が差されている。外套には煤と灰が付着し、森を抜けて戦場まで休むことなく歩き続けてきたように見えた。
正規兵には見えないが、傭兵と呼ぶには装備があまりにも貧弱だった。
青年は馬の横へ滑り込むと剣を抜き、鈍い銀色の刃を槍の柄へ叩きつけた。乾いた音とともに木製の柄が中央から折れる。
続いて馬の手綱をつかんで頭を横へ向け、体勢を崩した騎兵の腕をつかむと、その勢いを利用して馬上から引きずり下ろした。 兵士は地面へ叩きつけられ、その衝撃によって動けなくなる。
しかし、青年は倒れた敵へ剣を向けず、代わりにリナへ手を差し出した。
「立てるか?」
リナはその手を取らず、自分の力で立ち上がった。助けてもらったことには感謝していたが、正体の分からない男をすぐに信用する気にはなれなかった。
「後ろ!」
別のガルディア兵が、青年の背後から剣を振りかぶっている。
ところが、青年は振り返ることなく身体をわずかに沈め、振り下ろされた刃を紙一重で避けた。そのまま相手の腕の内側へ入り込み、剣を握る手へ柄を打ちつける。
ガルディア兵の剣が宙へ舞い、青年は相手の足を払って地面へ転がした。
三人目が繰り出した槍も、青年は古びた剣の腹で受け流した。刃と穂先が擦れて火花が散ったが、青年は不思議な力を使っているようには見えない。
敵が武器を振るうよりも早く動き、刃が通る場所から身体を外している。単に強いというより、相手が次に何をするのかを、最初から知っているような戦い方だった。
それでも、彼の身体は万全ではないらしい。足元はわずかに揺れ、顔からは血の気が失われている。長年身につけた技術だけで、身体の不調を補っているように見えた。
「アルト!」
少し離れた場所から、銀白色の髪を持つ少女が声を上げた。
「身体に負担をかけすぎないで!」
「精霊の力は使っていない!」
「剣を振るだけでも負担になるでしょう!」
「それくらいは戦ったうちに入らないだろう!」
「今のあなたには入るの!」
言い争いながらも、アルトと呼ばれた青年は槍の穂先を斬り落とした。武器を失ったガルディア兵が、怯んだように後ずさる。
「貴様、何者だ!」
「ただの通りすがりだ」
「ふざけるな!」
「それも、よく言われる」
青年は相手との距離を一気に詰め、胸当てへ剣の柄を叩き込んだ。まともに息をできなくなった兵士が、その場へ膝をつく。
その間に銀白色の少女が片手を上げると、地面を這うような風が吹いた。それほど強い風ではなかったが、灰と砂を巻き上げ、周囲にいたガルディア兵たちの視界を奪うには十分だった。
「森を出てすぐに戦うなんて、やはり無茶だったのよ」
「それでも、この人たちを助けるのに間に合ったなら、ここまで来た意味はあった」
青年は荒い息を押し隠すように答えた。
「今のうちに逃げて!」
その声で我に返ったリナは、負傷兵のもとへ駆け戻った。彼は地面へ倒れたまま脇腹の傷を押さえていたが、声をかけると苦しそうにうなずいた。
リナはもう一度肩を貸し、どうにか彼を立ち上がらせた。
その間も青年はガルディア兵たちの前に立ち、追撃を防いでいる。しかし、リナが目を奪われたのは、その強さだけではなかった。
青年は敵の剣を弾き飛ばし、槍を折り、足を払って地面へ倒し、必要なら鎧の隙間へ柄を打ち込んで気絶させている。その一方で、刃によって誰かの命を奪おうとはしていなかった。
「何をしているの……?」
ガルディア兵は、フェルナを焼いた国の兵士であり、つい先ほどまで自分たちを殺そうとしていた。それなのに青年は一人も斬らず、武器を失ってなお向かってくる者さえ、そのたびに殺さず倒している。
やがて戦意を失った兵士たちは、青年から距離を取った。
「化け物め……」
一人が忌々しそうに吐き捨てる。
「化け物なら、もう少し楽に戦っているさ」
青年は荒い呼吸を隠すように笑った。
ガルディア兵たちは倒れた仲間を引きずり、西の林へ退いていく。林の向こうには本隊の姿も見えたが、すぐに攻めてくる様子はない。崩れた野営地と、正体の分からない青年の様子を警戒し、隊列を組み直しているらしい。
わずかな猶予が生まれたことで青年は剣を下ろしたが、次の瞬間、その膝から力が抜けかけた。
銀白色の少女が、すぐに腕を取って支える。
「だから、無理をしないでと言ったでしょう」
「まだ倒れてはいない」
「倒れる直前なら、同じことよ」
二人のやり取りを横目で見ながら、リナは負傷兵を地面へ座らせた。
「助かった。置いていかれると思っていた」
兵士は傷口を押さえながら、かすかに笑った。
リナは何も答えられなかった。故郷から逃げた日に老人を助けたことが正しかったのか、今も分からない。
それでも、目の前にいる兵士が生きていることだけは、疑いようのない事実だった。




