百年後、再び歩き出す
「あなたが亡くなってから、百年が経っているわ」
アルトはフィオナを見つめた。
言葉の意味は分かる。だが、自分には、森で目を閉じてから少しの時間しか経っていないように思えた。彼女の顔も声も記憶のままで、その間にあったはずの歳月を、すぐには受け止められなかった。
「……百年も?」
「ええ」
カインやエレナ、ミリアの顔が浮かんだ。
最後に会ったときの声は思い出せる。それなのに、自分の知らないところで、彼らの人生まで終わっているのだろう。何から尋ねればよいか分からず、アルトは石台へ視線を落とした。
そのとき、手の甲に残っていたはずの傷がないことに気づいた。
腕も記憶より若い。最期の頃には痩せて動かしにくくなっていた指が、今は力こそ入らないものの、意識したとおりに曲がった。
「この身体は、俺が死んだときのものじゃないな」
「魔王を倒した、二十三歳の頃に近い姿よ。呼び戻す手掛かりにした魔力が、その頃のものだったからだと思う」
「記憶は、三十歳まである」
「何を覚えていて、何が変わっているのか、少しずつ確かめたいわ。私にも、分からないことが多いの」
フィオナの声は疲れていた。青年が目覚めたことに安堵しても、彼女自身の身体が楽になったわけではないらしい。
アルトは石台へつかれた手を見てから、その顔へ目を戻した。
「皆のことは、後で聞かせてくれ。今は、どうして俺を起こしたのか教えてほしい」
外で重いものが崩れ、天井から土が落ちた。入口の方から薄い煙が流れ込み、フィオナがそちらへ目を向ける。
「三本の聖剣が、戦争に使われているの」
アルトは彼女の手を見つめたまま、動きを止めた。
「封印を解かれたのか」
「三本とも。百年の間に、三つの国がそれぞれ手に入れた」
封印した場所を、一つずつ思い返した。術式を整えるために仲間たちと交わした言葉まで浮かんだが、フィオナは説明を続けていた。
「フレイムベルグは、ガルディア軍事帝国が持っているわ。グレンという将軍がフェルナの砦と町を焼き、その炎が森まで入り込んだの。三日前から、燃え続けている」
「水を浴びせても、消えないのか」
「含まれている精霊力を奪って、かえって強くなる。防壁も、長くは保たないわ」
彼女がそこで言葉を切った。握られた手へ力が入り、それから、痛めつけることを恐れたように緩んだ。
「私に力を貸してくれた精霊たちまで、炎に吸い込まれた。戻そうとしたけれど、間に合わなかった」
アルトは入口へ目を向けた。
自分があの剣を握っていたときにも、周囲へ大きな被害を出す危険はあった。だからこそ、使う場所も力の量も、仲間と確かめていた。
今は、その炎が人の住む町へ向けられている。
「残りの二本は?」
「アクアレギアとエアリアルも、別の国が持っている。ただ、今どこで、どのように使われているかまでは分からないわ」
「俺たちが残したものが、こうなったのか」
口にすると、百年後へ戻ってきたという事実よりも、そちらの方が重く感じられた。
剣を壊すべきだという意見もあった。だが、安全な方法は見つからず、再び魔王のような脅威が現れる可能性も恐れていた。封印を選んだのは、そのとき自分たちにできる方法だと考えたからだった。
その判断を、今すぐ何もかも否定することはできない。
けれど、願ったとおりに残らなかったことは、石室へ届く煙からも分かった。
「あなた一人の責任ではないわ」
「分かっている。五人で決めたことだ」
アルトは石台から足を下ろした。
「それでも、あの剣を止めたい」
立ち上がろうとした途端、膝から力が抜けた。フィオナが肩を支え、アルトも石台へ手をついて、どうにか踏みとどまる。
床へ足が触れているのに、自分の重さをうまく支えられなかった。
「今すぐ飛び出せる身体ではないわ」
「……そうらしいな」
アルトは腰を戻した。支えてくれたフィオナも苦しそうに息をつき、そばへ座り込んだ。
彼女を見て、急ぐほど助けられるわけではないのだと認めるしかなかった。
◇
足の感覚が落ち着くのを待ちながら、アルトは左手首へ目を向けた。
皮膚に、蔦のような翠色の紋様が浮かんでいる。触れると、かすかな温かさを感じた。
「腕輪の印か?」
「ええ。あなたを呼び戻す触媒に使ったの。金属は失われたけれど、契約は身体へ移ったわ」
フィオナが左手首を見せると、そこにも同じ紋様があった。
「今の身体は、残っていた骨をもとに、精霊力で形作ったものよ。契約を通して力を補っているけれど、普通の人間と同じように動けるとは限らない」
「どれくらい保つ?」
「分からないわ。死者を蘇らせたのは初めてなの。契約が失われた場合に、何が起きるかも……」
言葉を探すフィオナを見て、アルトは手首から指を離した。
分からないまま、自分を呼び戻すほかなかった。その事情を聞いたばかりで、確かな答えまで求めることはできなかった。
「身体がおかしくなったら、伝えるよ」
「少しでも気になったら、黙っていないで」
「ああ」
頷いてから、石台の端へ並べられた品に気づいた。
木彫りの騎士の駒と、傷のある銀貨、色あせた布のお守り。その隣には、聖剣を得る前から使っていた鉄剣が置かれている。
一つずつ目を向けると、くれた者の顔が浮かんだ。カインが駒を机へ置いた手つきも、お守りを渡したミリアの声も覚えている。思い出せることがあるほど、その先の時間を知らないことが寂しかった。
「全部、残してくれていたのか」
「あなたの遺品だもの。捨てる理由はなかったわ」
フィオナは石室の隅から旅装を取り、アルトへ差し出した。保存の術がかけられているらしく、布は朽ちていない。上着を受け取ると、袖口に古い繕い跡が残っていた。
「また着ることになるとは、思わなかったな」
「私も、着せるつもりで残したわけではないわ」
彼女が皺を伸ばす手を見ながら、アルトはようやく、百年という時間の一部へ触れた気がした。自分には一瞬だった間も、フィオナはこの品々と墓を守っていたのだ。
「大事にしてくれて、ありがとう」
フィオナは目を伏せ、小さく頷いた。
アルトは石台に座ったまま衣服を身につけ、長靴を履いた。使い慣れた外套を肩へかけると、知らない時代へ来たという心細さが、わずかに和らいだ。
最後に、古い鉄剣へ手を伸ばした。
柄を握って持ち上げると、刃の半ばで乾いた音がした。折れた先が石台へ落ち、アルトは手元に残った部分を見つめた。
「保存の術をかける前から、傷んでいたの。刃の傷までは直せなかったわ」
「そうか。最後まで、よく使った剣だったからな」
残った刃だけでは、武器として頼ることはできなかった。かといって、置いていくことにもためらいがあった。
そのとき、入口の方で枝の折れる音がした。
淡い光を帯びた一本の枝が階段を下り、石室へ滑り込んでくる。アルトが顔を上げると、低く穏やかな声が響いた。
『それを持っていきなさい』
墓のそばに立つ、大樹の精霊だった。
「久しぶりだな。君も、守ってくれていたのか」
『フィオナとともに、あなたの眠りを見守っていました』
アルトは枝へ向かって頭を下げた。
フィオナがそれを受け取り、折れた剣と並べる。木目へ指を沿わせてから、彼女は大樹へ呼びかけた。
「剣をつなぐために、力を借りてもいい?」
枝に宿る光が強くなった。
フィオナが両手をかざすと、折れた鉄と枝が翠色の光に包まれた。木の繊維が柄から刃の内側へ伸び、脆くなった鉄を支えるように芯を作っていく。
アルトは彼女の呼吸へ耳を澄ませていた。途中で一度息が乱れたが、光が弱まる頃には、一本の剣が石台へ残されていた。
フィオナは手を下ろし、そのまま座って息を整えた。アルトも急いで剣を取ろうとはせず、彼女が顔を上げるのを待った。
「急ごしらえだから、強い力には長く耐えられないわ。周囲の精霊に応じてもらえれば、その力を借りる助けにはなるけれど、聖剣と同じには考えないで」
差し出された剣を受け取り、アルトは重さを確かめた。
古い鉄の刃に、木目の残る柄。宝石も装飾もないが、握る手には、大樹とフィオナが預けてくれた力を感じられた。
「助かる。ありがとう」
「名前は、どうするの?」
「まだ、思いつかないな」
アルトは柄へ指を沿わせ、剣を鞘へ収めた。名のない剣だったが、何も持たずに目覚めた手には、その重さが心強かった。
◇
フィオナに腕を添えてもらい、アルトはもう一度立った。
膝は震えたが、今度は支えられた分だけ重さを戻し、自分の足で立っていられた。壁へ手をついて歩き、階段では一段ずつ足の位置を確かめた。
上へ近づくほど、煙の臭いが濃くなった。
入口を抜けたアルトは、そこで足を止めた。
記憶にある森の道へ、焼けた枝が折り重なっていた。葉を失った木々の向こうでは赤い光が揺れ、地面からも細い煙が上がっている。フィオナの説明を聞いて想像したより、ずっと近くまで火が来ていた。
「残っている精霊たちは?」
「森の中心へ避難させたわ。防壁も残してきたけれど、長くは保たない」
フィオナは森の奥へ目を向けた。アルトも、その視線を追った。自分の墓を守ってくれた大樹の周囲に、今は帰る場所を失った精霊たちが集まっている。
「まず、フレイムベルグの使い手に会う」
告げると、フィオナがこちらを見た。
「返してもらうつもり?」
「ああ。これ以上使わせるわけにはいかない」
「国を支える力を、話すだけで手放す相手ではないと思うわ」
「そうだろうな」
アルトは腰の剣へ目を落とした。これを抜けば勝てると考えられるほど、今の身体も相手の事情も分かっていない。
「だが、使い手を止めなければ、また同じ炎が放たれる。会って、何ができるか考えたい」
「取り戻した後のことも、考えなければならないわよ」
アルトは頷いた。
剣を自分の手へ戻しただけで、問題が終わるわけではない。残る二本がどうなっているのかも確かめる必要があった。百年前と同じ方法でよいのかと問われても、まだ答えられなかった。
それでも、知らないまま眠り続けることは、もうできない。
「フィオナ。起こしてくれて、ありがとう」
彼女の目がわずかに見開かれた。
「私は、あなたの眠りを奪ったのよ」
「そうだな。できれば、もう少し穏やかに起きたかった」
アルトは燃える森へ目を向けた。
「だが、何も知らずにいたかったとは思わない。俺たちが残したものに、何が起きたのかを」
フィオナはすぐには答えなかった。礼を言われたことで、迷いが消えたようには見えない。アルトも、彼女が何を背負って呼び戻したのかを、簡単に分かったつもりにはなれなかった。
ただ、今ここに戻ってきたことを、悔やんでいるわけではないと伝えたかった。
「一緒に来てくれるか?」
今度は、彼女の返事を待った。
フィオナは左手首へ目を落とした。アルトと同じ契約印が、淡く光っている。
「私は、この森に根づいた精霊よ。森の外で人の姿と力を長く保つには、人間との契約が必要なの」
「今は、出られるんだな」
「ええ。あなたとのつながりがあるから」
フィオナは手首から顔を上げた。
「私も、あの剣を止めたい。ここで炎を防ぐだけでは、もう守りきれないと分かったから」
「なら、二人で行こう」
「途中で動けなくなったら、必ず言って。以前と同じ身体ではないのだから」
「分かった。君も、倒れる前に頼んでくれ」
フィオナは少し考えてから頷いた。
森の向こうで、ひときわ大きな炎が上がった。アルトは剣を抜き、周囲の風へ呼びかけてみた。
刃のそばに淡い光が寄ったが、力を通そうとすると手首が震えた。集まりかけた風も散り、以前のようには形を保てなかった。
「今は、それ以上使わないで」
「ああ。歩く方から慣らすよ」
剣を収めると、フィオナは道へ倒れていた枝を避け、通れる場所を示した。
将軍がどこにいるのか、素直に話を聞くのか。自分の身体がどこまでもつのかも、分からないことばかりだった。
アルトは示された場所へ足を運び、それから隣へ並んだ彼女を見た。
「まあ、何とかなるさ」
フィオナは懐かしいものを聞いたように目を細め、すぐにため息をついた。
「そう言うときほど、目を離せないのよね」
アルトは返す言葉を探したが、思い当たることが多すぎて、結局笑うしかなかった。
二人は歩調を合わせ、燃える森を抜けていった。向かう先には、かつて世界を救うために振るった剣と、その力で戦争を続ける者たちがいた。




