世界を救った炎
百年前、勇者アルトとともに封印した聖剣が、人間の町を焼いていた。
森の大樹に立つフィオナは、西の空へ広がる赤黒い炎を見つめていた。小国フェルナの国境砦が燃え、その周囲に築かれた町からも、幾筋もの黒煙が上がっている。乾いた風が吹くたびに焦げた臭いが届き、遠くで石の崩れる音に人々の悲鳴が重なった。
銀白色の髪へ火の粉が触れかけ、フィオナは指先で払い落とした。翠色の光に包まれた火は消えたが、森の南西では、先ほどから精霊の気配が途絶え続けている。
『フィオナ。また、消えた』
幹の陰から、幼い精霊が顔を出した。木の葉を重ねたような髪を持つその子も、普段より光が弱い。大樹を離れまいと、小さな手を樹皮へ押しつけていた。
フィオナは枝へ膝をつき、その目の高さへ顔を近づけた。
「残っている者たちを、森の中心へ集めて。動けない子には、誰かがついていてあげてちょうだい」
『フィオナは?』
「西へ行くわ。まだ、助けを呼んでいる者がいるから」
精霊が頷くのを見届け、枝から身を投げた。身体を受け止めた風へ力を預けると、フィオナは翠色の光となり、木々の間を駆け抜けた。
森の西端へ近づくほど、空気は熱を帯びていった。葉先は乾いて丸まり、草の間では小動物が逃げ惑っている。木に宿る精霊の中には、その場を離れる力さえ失い、幹へ身を寄せたまま光を弱めている者もいた。
フィオナは彼らへ森の中心へ向かうよう呼びかけながら、草原へ出た。
燃える砦の周囲に、黒地に赤い獅子を描いた軍旗が並んでいた。ガルディア軍事帝国の軍勢だった。
その先頭に、深紅の外套をまとった男が立っている。黒鉄の鎧に守られた身体は大きく、右手には炎を固めたような赤い剣が握られていた。
刀身へ刻まれた精霊文字と、その中心で明滅する核を見て、フィオナは息をのんだ。
第一聖剣、フレイムベルグ。
百年が過ぎても、見間違えるはずがなかった。魔王軍から人々を守るため、アルトが何度も振るった剣だった。
「グレン将軍に続け!」
帝国兵の声に応じるように、男が剣を掲げた。
刀身へ魔力が流れ込み、周囲の炎が大きく膨らむ。次の瞬間、赤い奔流が砦へ襲いかかり、残っていた防護結界を引き裂いた。石壁が内側へ崩れ、塔の上から人影が消える。
フィオナは思わず一歩踏み出したが、砦までは遠かった。
崩落の音が草原を渡ってきた。砦を呑み込んだ炎はそこで止まらず、地面を這って町へ向かい、逃げる人々の背後へ迫っていた。
グレンは剣を下ろし、兵を進めていた。火を止める命令は聞こえない。
「水脈に眠る者たちよ、空を渡る者たちよ。どうか、力を貸して」
フィオナが両手を広げると、地中を流れる水が震えた。呼びかけに応じた精霊たちが力を寄せ、噴き上がった水流が町と炎の間に壁を作る。
火がぶつかり、大量の蒸気が草原を覆った。
炎の勢いが弱まった隙に、人々が道を外れて走り出した。子どもを抱く者と、倒れた老人を引き起こす者が見える。間に合ってほしいと願いながら、フィオナは水の壁へ力を注いだ。
だが、その表面へ赤黒い筋が広がった。
水に含まれる精霊力が、炎へ奪われている。フィオナが流れを引き戻そうとしたとき、水の精霊の一体が悲鳴を上げた。
『いや、離して――!』
「戻りなさい!」
伸ばした手の先で、小さな身体が炎へ引かれた。青い輪郭が崩れ、砕けた光が赤い奔流へ吸い込まれていく。
その光で炎が膨れ上がるのを、フィオナは見てしまった。
何度も声を交わした精霊だった。雨の季節には川を巡り、晴れた日には浅瀬で幼い精霊たちを遊ばせていた。その命が今、人を焼く力へ変えられている。
「これ以上は、渡さない」
水流を退かせ、代わりに自分の精霊力で防壁を張った。
翠色の膜へ炎が衝突し、足元の土へ亀裂が走った。胸の奥にある精霊核が軋んだが、フィオナは両腕を下ろさなかった。背後では、人々がまだ逃げ続けていた。
同じ剣を握っていたアルトは、逃げ遅れた者がいれば戻ろうとした。仲間に止められ、言い争っても、助ける方法を探すことをやめなかった。
あの背中を知っているからこそ、目の前の炎を受け入れることができなかった。
◇
三日が過ぎても、炎は消えなかった。
フィオナは町と森の境で防壁を維持し、避難する者たちのために道を残した。だが、地中へ入り込んだ火までは止めきれず、三日目には、守っているはずの森の内側で木々が倒れ始めた。
また一つ、親しい気配が途絶えた。
呼びかけても返事はない。何百年も見守ってきた森から、知っている者たちが失われていく。力を注ぎ続けた両腕は感覚が薄く、もはや防壁を強める余力も残っていなかった。
あの剣を誰よりも知る者へ、助けを求めるしかない。
その考えを認めた途端、フィオナは唇を噛んだ。
彼はようやく休めたのだ。魔王を倒した後も傷ついた土地を巡り、三本の聖剣を封じるために力を使った。三十歳で森へ戻ってきたときには、もう長く歩くことさえ難しくなっていた。
今度こそ戦わせないと、墓の前で誓ったはずだった。
背後で木の倒れる音がした。フィオナは振り返りかけ、残っている精霊たちへ声を届けた。
「森の中心へ避難して。今から防壁を重ねるけれど、長くは保たないわ。動ける者は、そばにいる子を助けてちょうだい」
『どこへ行くの?』
あの幼い精霊の声が返ってきた。
フィオナはすぐには答えられなかった。行き先を口にすれば、これからすることを認めなければならない。それでも、何も告げずに離れることはできなかった。
「助けを、頼みに行くの」
最後の防壁を残すと、フィオナは森の奥へ向かった。
木々が深くなるにつれ、炎の音は遠ざかった。しかし、鳥の声も精霊たちのささやきも聞こえない。足を止めて確かめたくなる静けさの中を進み、大樹の根元にある墓へたどり着いた。
石の縁には苔が広がっていたが、手入れを続けてきた碑文は、今も読み取れた。
――アルト・レイヴァン。愛すべき友、ここに眠る。
名を刻んだ日のことを思い出し、フィオナは墓石へ膝をついた。
「あなたは、ようやく眠れたのに」
彼を呼び戻す手掛かりは残っていた。
墓の下の石室には、わずかな遺骨と、生前に使っていた鉄剣、契約の腕輪が納められている。遠く離れた三本の聖剣にも、長い戦いの中で刻まれたアルトの魔力が残っていた。それらを道標にすれば、失われた魂へ届くかもしれない。
ただし、身体を作り直せる保証も、以前と同じ彼が戻る保証もなかった。死者を呼び戻すこと自体、自然とともに生きる精霊が踏み込むべきではない領域だった。
それでも試そうとしている。
森のためだと言えば、許されるのだろうか。助けを求めれば拒めない人だと知っていて、その優しさに頼ろうとしているだけではないのか。
フィオナは墓石へ伸ばした手を止めた。
百年前、初めて会ったアルトは、何度追い返されても森の境へ通ってきた。剣で道を開こうとはせず、座り込んで精霊たちへ話しかけ、日が暮れれば帰っていった。
その男を少しずつ信じ、最後には、もう誰の願いにも応えず眠れる場所を与えたつもりだった。
遠くで、防壁が破られる振動を感じた。
フィオナは顔を上げ、それから墓石へ手を置いた。迷いがなくなったわけではない。けれど、彼を起こさずに森を救う方法を、見つけることができなかった。
「ごめんなさい、アルト。もう一度だけ、私たちに力を貸して」
翠色の光が、大樹の根を伝って地中へ降りていった。
石室に残る古い契約が反応した。フィオナはそのつながりを頼りに力を送り、遠くに残る三本の痕跡へ意識を伸ばした。
触れられそうな気配を見つけても、少し力を緩めれば見失いそうになる。胸の奥が引き裂かれるように痛んだが、もう一度、彼の名を呼んだ。
やがて、こちらへ近づいてくるものがあった。
フィオナは墓の脇にある入口を開き、石室へ下りた。石台の上では、遺骨を中心に淡い光が集まり、人の形を作り始めていた。
見覚えのある黒い髪が現れ、閉じたまぶたと、まだ動かない唇が形を取り戻す。
手元の契約の腕輪に亀裂が走った。崩れる金属から蔦のような紋様が浮かび、青年の左手首へ移っていく。フィオナは石台へ膝を寄せ、残った力を送った。
青年の胸が、わずかに持ち上がった。
◇
息を吸った途端、喉から胸へ痛みが走った。
アルトは咳き込み、身体を起こそうとした。しかし、腕に力が入らず、肩を浮かせただけで石台へ戻ってしまう。鼻の奥に焦げた臭いが残り、重いまぶたを開くと、薄暗い天井が見えた。
「急に動かないで」
すぐそばに、銀白色の髪をした女がいた。
頬は煤で汚れ、石台についた手も震えている。けれど、その瞳を見た瞬間、アルトは名前を思い出した。
「……フィオナ?」
彼女の唇が動いたが、すぐには言葉が出なかった。顔を見つめられるうちに、アルトは自分が最後にどこで目を閉じたのかを思い出した。
森の朝と、そばにいた彼女。もう休んでよいと言われたことも覚えている。
「俺は、死んだはずだよな」
「そうよ」
フィオナがようやく答えた。アルトの左手首へ添えられた指が、離すことを恐れるように握り直された。
「ごめんなさい。あなたに、もう一度力を貸してほしかったの」
アルトは返事を探し、まず彼女の手を握り返そうとした。指はわずかに動いただけだったが、フィオナはそれを見て、俯いたまま息を吐いた。




