守りの聖剣に隠れた犠牲
「あなたは?」
「フィオナ。森に根づいた精霊よ」
女性が頭巾を外した。銀白色の髪が肩へ流れ、人間とは異なる精霊力の気配が室内へ広がる。
セレスは椅子の背から身体を離した。上位精霊について記された書物は読んだことがあったが、これほど近くで相対するのは初めてだった。
「アクアレギアは、水脈や川に宿る精霊から力を吸い上げている。応じた者からだけではないわ」
フィオナの声は静かだった。
「拒もうとする精霊の力も、剣へ集めているの。あなたが流れを動かす間、彼らは自分の意思で離れることができない」
「水の精霊は、王国へ恵みを与えてくださっていると教わりました」
「そのすべてが、望んでしていることではないのよ」
セレスは窓の外へ目を向けかけ、途中で止めた。剣の力が安定して働いていることと、精霊が協力を望んでいることは、同じではない。
それでも、目の前の相手の説明だけで認めることはできなかった。
「その仕組みを、証明できますか」
「源流の神殿に、封印当時の記録が残っているはずよ。私たちも、それを調べたい」
「水没神殿へ入るつもりだったのですね」
アルトが頷いた。
「剣を失ったとき、水脈や川がどう変わるのかも知りたい。封印を解いてから、どこへ力を使うようになったのか。その記録を見せてほしい」
「破壊する方法を探すために?」
「それもある。だが、王都や農地から水まで奪うつもりはない。せき止められた川が、一度に流れ出す危険もあるだろう」
セレスは机の縁へ手を置いた。
彼が被害を考えずに剣へ斬りかかるつもりではないことは分かった。しかし、今ここで安全な方法を持っているわけでもない。
「許可できません。神殿には、アクアレギアの構造と封印の記録があります。他国へ渡れば、防衛を崩す手掛かりになり得ます」
「王国の術師と一緒でも構わない。見せられるものだけでも――」
「あなたが知った内容を、外へ出さないと保証できますか」
アルトはすぐには答えなかった。
セレスも、自分の問いに十分な保証などないと分かっていた。相手が本物の勇者であっても、聖剣を壊すという目的まで変わるわけではない。
「剣を奪うために、国を攻めたいわけじゃない」
「ですが、王国が残すと決めた場合でも、あなたは破壊を諦めないのでしょう」
「今の使われ方を、放っておくつもりはない」
セレスは頷いた。話を聞いて、分かったことはあった。彼らが単に剣の所有権を求めているわけではないことも、目の前の被害を本気で止めたいと思っていることも。
だからこそ、退去を命じるだけでは神殿へ向かうと考えざるを得なかった。
「剣も、水源封鎖も、今は手放せません。神殿の閲覧も認められません」
アルトの目が、わずかに細くなった。
「なら、別の道で調べる」
「許可なく近づけば、侵入者として扱います。それでも、向かうのですか」
「ああ」
短い返答を聞き、セレスは扉へ顔を向けた。
「近衛隊長。入ってください」
扉が開くと、赤茶色の髪の少女が立ち上がった。
「話をするために、連れてきたんじゃないの?」
「そのために、お迎えしました。ですが、王家の管理地へ侵入する意思を示された以上、そのままお帰しすることはできません」
セレスは近衛隊長へ命じた。
「三名を、監視下の客室へ。武器は預かったままにしてください」
近衛兵たちが机の両側へ回った。腕を取れる距離まで近づくと、アルトも椅子から立ち上がった。
「拘束には応じられない」
「ここで抵抗すれば、兵との争いになります」
「分かっている。だから、近づかせないでくれ」
その声に威嚇する強さはなかった。それでも、近衛隊長が一歩前へ出て、セレスとの間を塞いだ。
アルトがフィオナへ目を向けた。少女も二人の顔を見て、机から静かに離れている。
セレスは手を上げた。
「待ちなさい。誰も、剣を――」
言い終える前に、机の上の書類が舞い上がった。
◇
フィオナが集めた風は、人を吹き飛ばすほど強くなかった。
紙とカーテンが視界を遮り、兵士たちが顔をかばう。その間に扉が押し開かれ、少女が身を低くして廊下へ走った。
「保管室だ!」
近衛隊長の声に、セレスは横へ動いた。
戸口では、見張りの一人が少女へ腕を伸ばしていた。少女は壁際へ身を寄せ、つかまれる直前に身体を沈める。もう一人の兵が回り込もうとしたが、会議室から流れ出したカーテンがその肩へ絡んだ。
フィオナが風の向きを変えている。
もたついた兵士の脇を抜けた少女の手に、鍵束が見えた。
「鍵を取られた! 扉を押さえろ!」
保管室へ戻ろうとした兵の前へ、アルトが入った。伸びてきた腕を取り、その勢いのまま壁際へ向きを変えさせる。相手が踏みとどまる間に、背後で錠の外れる音がした。
少女が短弓を肩へかけ、長い包みを抱えて出てくる。
「アルト!」
投げられた包みを風が支え、青年の手元へ運んだ。アルトは膝をついてそれを受け、縄の結び目へ指をかける。
セレスには、彼の手がわずかに震えて見えた。
近衛隊長が間合いを詰めたとき、ようやく古布が外れた。現れた剣は装飾もなく、刀身さえまだ鞘に隠れていた。
「剣を置け!」
近衛隊長がアルトの手首を取りにいった。
アルトは立ち上がりながら鞘を間へ入れ、手を払った。背後へ回った兵には身体の向きを変えて肩を当て、二人を同じ側へ押し戻す。
動きは速かったが、追い打ちはしなかった。兵が体勢を立て直す前に、フィオナと少女の方へ退いている。
「斬ってはなりません。退路を塞いで!」
セレスの命令を受け、兵士が扉の前へ集まった。
フィオナはそちらを見ず、窓へ向かっていた。外へ手を伸ばし、庭園に立つ大樹へ呼びかける。
「お願い。あの窓まで、道を貸して」
枝葉がざわめいた。
三階の窓へ向かって太い枝がゆっくり曲がり、窓枠のすぐ下へ葉が届く。風に押された動きだけではない。大樹そのものが応じているのだと気づき、セレスは息をのんだ。
「リナ、先へ」
フィオナに促され、少女が窓枠へ上がった。枝の太さと足を置く場所を見てから、外へ身体を移す。
兵士が駆け寄ろうとすると、アルトが進路へ入った。
セレスは青年の名を呼んだ。
「アルト・レイヴァン。逃げれば、あなたたちを追わせます」
「そうなるだろうな」
「アクアレギアを狙う限り、私は止めます」
アルトはセレスを見た。剣を構えるでもなく、言い返す言葉を探しているようだった。
「ここで暮らしている人間まで、敵にしたいわけじゃない」
「あなたが剣を壊せば、その人たちが危険になるのです」
「そのことは聞いた。だから、被害を出さずに止める方法を調べたい」
セレスは唇を結んだ。
彼は先ほどと同じ目的を口にしている。だが、もう一方には、その方法が見つかるまで国を守らなければならない自分がいる。
「私に、それを待てと言うのですか」
「今ここで信じろとは言えない。だが、調べることまで諦めるわけにはいかない」
フィオナが枝の上から手を伸ばした。
アルトは窓枠へ足をかけ、最後にセレスへ向き直った。
「ルミナスの人間がどうなってもいいとは、思っていない。それだけは、覚えていてほしい」
返事をする前に、青年は外へ身体を移した。
その右手が、窓から差す光の中で薄れた。
枝へかけた指の輪郭が曖昧になり、向こう側の樹皮が透けて見えた。アルト自身も気づいたのか、一瞬動きを止めた後、左手で枝をつかみ直した。
「アルト!」
フィオナが腕を取り、風が下から身体を支えた。枝は三人の重さを受けて沈んだが、折れずに踏みとどまった。
「右手の感覚が、抜けた」
「こちらへ体重をかけて。今は、枝を見て」
二人の声が聞こえた。
演技には見えなかった。アルトの右手は形を取り戻しつつあったが、彼はもう、それを支えに使おうとはしていない。
セレスが窓へ着くと、大樹の枝はゆっくり外壁側へ戻り始めていた。リナが低い屋根へ移り、フィオナがアルトを支えながら続く。
「階段から庭園へ回れ!」
近衛隊長が兵を走らせた。
セレスは、窓から飛び出そうとした一人を制した。枝はすでに遠ざかり、同じ場所へ足を伸ばしても届かなかった。
三人が屋根を越え、外壁の向こうへ降りていく。フィオナの風が落下を弱めた後、姿は見えなくなった。
室内へ目を戻すと、倒れた椅子のそばで兵士が腕をさすっていた。別の兵がカーテンを外し、近衛隊長は人数と負傷の確認を始めている。
誰も血を流してはいなかった。
だから危険がないとは言えない。王宮の警護を抜け、預けた武器を取り戻して逃げたのだ。しかし、剣を手にしても刃を抜かなかったことまで、無視することはできなかった。
◇
「城門を閉鎖し、捜索を始めます」
近衛隊長の報告に、セレスは窓から離れた。
「城門は閉じません。避難民の受け入れと、補給馬車を止めることになります」
「逃走を許すおつもりですか」
「神殿へ向かうなら、北東街道を使う可能性が高いでしょう。追跡隊を出してください。王都内の捜索も続けますが、無用な戦闘は避けるように」
隊長が頭を下げたところで、セレスは言い添えた。
「殺してはなりません。可能な限り、三人とも生きて連れ戻してください」
「承知しました」
扉が閉まると、紙を拾う音だけが残った。
侍女長が机へ戻した書類の中に、国境報告があった。セレスはそれを取り上げ、水源封鎖の効果を記した頁を開いた。
敵軍の進軍速度は落ち、補給の輸送も滞っている。ルミナス側の負傷者は減っていた。
その下に、小さな追記があった。
下流域の複数の村で、住民の避難を確認。水不足による死者数は不明。
セレスは「不明」の文字へ指を置いた。
何も書かれていないのではなかった。報告は届いていた。自分が、国境の戦況を確かめることを優先し、その先を尋ねなかったのだ。
「この追記をした者へ、確認してください」
侍女長が顔を上げた。
「どの村で、どれほどの避難が起きているのか。分かっていることだけでも、次の報告へ入れるように」
「水源封鎖は、変更なさいますか」
セレスは窓の外を見た。
水の結界の下では、今日も人が歩いている。今朝命じた倉庫の開放が進めば、村から逃れてきた家族も、その下で夜を迎えることになる。
敵軍が退いたという報告はない。剣を失っても彼らを守れるという見通しもなかった。
「今は、維持します」
答えると、侍女長は静かに頷いた。
セレスは書類を閉じかけ、もう一度開いたまま机へ置いた。次の報告が届いたとき、同じ追記を見落とさない場所へ残しておきたかった。
父が言いかけた国境の向こうには、この紙に名のない人々が暮らしている。彼らのことを調べたからといって、すぐに封鎖を解けるわけではない。
それでも、知らないまま責任を負っていると言い続けることは、もうできなかった。
腰のアクアレギアへ手を添えると、いつもと同じ力が返ってきた。王都を守り、水路を動かし、国民から希望と呼ばれる力だった。
その力へ応じる精霊たちは、自ら望んでいるのではない。
フィオナの言葉を思い出し、セレスは柄から手を離した。確かめる必要はある。しかし、そのための記録を見せてほしいと言った者たちを、自分は追わせている。
扉の外から、追跡隊の準備が整ったという報告が届いた。
セレスは顔を上げた。
「出発させてください。そして、水没神殿の警備へ連絡を。侵入を防ぎ、記録を守るように」
命令を受けた兵が去ると、セレスは机へ座った。下流の被害を記した頁は、閉じずに残していた。




