敵国の少年と、母が遺した薬
王都を脱出した翌日も、三人は街道を避けて進んでいた。
水没神殿へ向かう北東の道には、追跡隊が出ているらしかった。石橋の向こうを青銀色の鎧を着た騎兵が通るのを見て、フィオナは農道へ進路を変えた。
「一度、南東へ回りましょう。下流へ出てから、川沿いの斜面を上る方がよさそうね」
遠回りになるが、街道で何度も身を隠すよりは進めるだろう。アルトも地図を確かめ、二人と同じ道へ入った。
その右手は、今は透けていなかった。それでも、王宮の窓辺で指の輪郭が薄れ、左手で枝をつかみ直した姿を、リナは忘れられずにいた。
「手の感覚は、戻っている?」
「ああ。今は握れる。ただ、力を使った後にどうなるかは分からない」
「何か変わったら、すぐ教えてね」
アルトが頷いたので、リナも前へ向き直った。隠さずに答えてくれたことはありがたかったが、それで次の異変を防げるわけではない。自分に何ができるのか分からないことが、もどかしかった。
王都から離れるにつれ、水路の岸は石から土へ変わり、水門も古い木製のものが目立つようになった。畑には水が届いていたが、離れた街道では、軍の荷車が休まず物資を運んでいる。
リナも少し前までは、その仕事をしていた。故郷を焼いたガルディアと戦うためだと思い、重い荷を押して歩いた。その部隊が、誰かの水を止める作戦にも関わっていたのかと考えると、知らなかったから関係ないとは思えなかった。
風に混じる細い声に気づき、リナは足を止めた。
「今、誰か呼ばなかった?」
三人で耳を澄ませると、草の擦れる音の向こうから、もう一度声が届いた。
農道を外れた場所に、屋根の一部が落ちた小屋があった。周囲に兵が潜んでいる様子がないことを確かめ、リナが声をかけると、入口から少年が顔を出した。
十歳ほどに見えた。土に汚れた服を着て、痩せた腕で短い棒を握っている。
「近づくな。母さんに触ったら、殺す」
声は震えていたが、少年は目をそらさなかった。その顔に、不意に弟の姿が重なった。木の枝を剣に見立て、強くなったら姉を守ると言っていた声まで思い出され、リナは一度息を整えた。
「お母さん、具合が悪いの?」
「答えない。ルミナスの人間なんかに、教えない」
少年が見ていたのは、外套の合わせ目からのぞく通行札だった。リナは水鳥の紋章へ目を落とし、それから両手を見せた。
「難民として受け入れられたときに、もらったものだよ。あなたを捕まえるために来たんじゃない」
「嘘だ。ルミナスが水を止めたから、母さんは倒れたんだ!」
棒を振ろうとした少年の身体が揺れ、リナはとっさに腕を支えた。少年が嫌がって身をよじったため、自分の足で立てていることを確かめてから、そっと手を離した。
小屋の奥から、弱い咳が聞こえた。
「ルカ……逃げなさい」
少年が振り返った隙に、リナは中を見た。古い布の上へ横たわった女性は顔色が悪く、唇も乾いていた。呼びかけるだけで力を使い果たしたように、目を閉じている。
「お水があるの。お母さんの様子だけ、見せてもらえない?」
リナが尋ねても、少年は入口を塞いだままだった。後ろにいるアルトへも気づき、棒を握り直す。
「その剣を置け」
「分かった。俺は、ここで待つ」
アルトは布に包んだ剣を地面へ下ろし、身体から離して座った。フィオナも急に近づかず、リナの隣で膝をついた。
女性が再び目を開いたのを見て、リナは顔を向けた。
「手当てを手伝わせてください。お水も、お子さんと分けられるだけあります」
女性は長くこちらを見つめ、それから小さく頷いた。
少年は母親の顔を確かめ、迷いながら脇へ寄った。
◇
女性の身体には熱があり、腕に残る傷には土が付着していた。水を飲んで休ませるだけでよいのか、リナには判断できなかったが、まず傷の汚れを落とす必要がありそうだった。
最後に水を飲んだのはいつかと尋ねると、少年は革袋を持ってきた。口を開いて見せてもらうと、底にわずかに残っているだけだった。
「昨日から、これしかないんだ。母さんは、僕に飲めって」
「あなたは飲んだ?」
首を振った少年を見て、リナは革袋から目を離せなくなった。二人とも、相手に飲ませようとして我慢していたのだろう。
持ってきた水を差し出しても、少年はすぐには受け取らなかった。アルトが先に一口飲んで見せると、ようやく両手を伸ばしたが、それでも母親を気にしている。
「お母さんにも渡すよ。一人で我慢しなくていいから」
リナが言うと、少年は少しだけ水を飲んだ。
リナは女性にも声をかけ、受け答えができることを確かめた。フィオナに上体を支えてもらい、水を注いだ器を手元へ差し出す。女性は器を両手で受け、少しずつ飲んでから、乾いた唇でかすかに礼を言った。
リナは腰の薬草袋へ手を伸ばした。
焼け跡から持ち帰り、焦げた端を切り取った袋だった。母が縫った花の模様も、小袋に記された文字も残っている。開くたび、もう戻れない家の匂いを思い出した。
葉の入った包みを取り出しかけ、指が止まった。
使えば、母の残したものが減る。別の薬草を足しても、母が集め、乾かしてくれたものには戻らない。そのことを惜しいと思った自分が、目の前の女性に申し訳なかった。
「何をするんだ?」
少年がのぞき込んだ。
「薬を用意したいの。私の母さんが、使っていたものだよ」
「お姉ちゃんも、治せるのか?」
リナはすぐに頷くことができなかった。
「母さんほど詳しくはない。でも、教わったことで手伝えるかもしれない。よくならなければ、治療のできる人を探さないといけないと思う」
少年は不安そうに母親を見た。それでも、リナが小袋の文字を確かめ始めると、そばへしゃがみ込んだ。
フィオナが小屋の外で火を用意する間に、リナは少年が持ってきた金属の器を洗った。母の書き付けを確かめながら薬草を選び、持参した水とともに器へ入れ、火にかける。煮出している間に傷の周りを清潔な布で拭きながら、母に教わったことを思い返した。
もっと聞いておけばよかったと思うことばかりだった。弓を持って町の外へ出たいと言い、薬草の話を上の空で聞いていた日もある。今なら尋ねたいことが幾つもあるのに、その相手はもういなかった。
少年はルカと名乗った。ガルディアの農村から逃げてきたが、途中で母親が倒れ、ほかの村人たちは南の古い砦へ向かったという。
煮出した薬を火から下ろし、十分に冷めてから女性へ差し出した。少しずつ飲む様子を見守り、その後も声をかけながら手当てを続けた。すぐに熱が引くことはなかったが、休ませるうちに呼吸が少し落ち着き、自分から水を求めるようになった。
「母さん。まだ、あるよ」
ルカが水袋を持ち、母親の手へ触れた。女性が指を動かして応じると、少年の張り詰めていた顔が、ようやく緩んだ。
その反応に、リナも息をついた。よくなったと言い切れるわけではなかったが、先ほどまでとは違って見えた。
「このまま、ここへ置いてはいけないね」
フィオナへ顔を向けると、彼女も頷いた。
「南の監視砦なら、人が集まれる建物が残っているはずよ。道を選べば、日暮れまでには着けると思う」
リナは女性へ行き先を伝えた。ルカが頷くのを見てから、女性も弱い声で頼みますと答えた。
小屋には、まだ使えそうな木材が残っていた。担架にできるものを探そうと立ち上がると、アルトが外から声をかけた。
「俺は道を見てくる。担架を通せそうか、近くを確かめたい」
「遠くまでは行かないでね」
「ああ。戻ってから、木を運ぶのも手伝う」
リナが頷くと、ルカも立ち上がった。
「僕も探す。長い木なら、奥にあった」
ルカが小屋の奥で木材を探し始めるのを見届け、リナは薬草袋を閉じた。軽くなった寂しさは残っていた。それでも、母親が水を飲めるようになると、少年は自分にもできることを探し始めた。その姿を見ていると、使わずに残しておくことだけが、母の薬を大切にする方法ではないのかもしれないと思えた。




