王女が手放せないもの
「カレド村からの避難民は、昨夜までに二百十三名です。登録所の天幕が足りず、今朝も外で待たせています」
報告を聞いたセレスは、王都の地図へ目を落とした。避難区画として空けた土地は埋まり、次の収容場所を決めるための印が、昨日から同じ場所に置かれている。
「東区画の織物倉庫を二棟、開放してください。保管している縄と布は南倉庫へ移します。今夜までに、屋根のある場所へ入れるように」
官吏が書き留める間に、将軍が別の報告書を差し出した。
「北部の農村からも要請があります。徴集によって人手が減り、収穫が遅れています」
「農村から来た兵を、一部戻せませんか」
「国境の兵力が減ります。ガルディア軍は、フレイムベルグを失っても撤退していません」
セレスは窓の外を見た。王都を覆う水の結界が、陽光を受けて青白く輝いている。
「王都守備隊から補充します。こちらには結界がありますが、村にはありません。避難の時間を稼ぐ兵も、残った麦を刈る人も必要です」
将軍はしばらく地図を見てから、配置を組み直すと答えた。
食料も、兵も、住む場所も、余っているものはなかった。どこかへ回せば、別の場所で不足する。セレスが署名するたびに人は動くが、その命令で生じる負担まで消せるわけではない。
次の書類へ手を伸ばしたところで、会議室へ近衛兵が入ってきた。
「殿下。アルト・レイヴァンを名乗る男が、王宮へ到着しました。同行者は二名。武器を預けることにも応じています」
官吏たちの手が止まった。
「地下牢へ移すべきです」
将軍が声を低くした。
「第一聖剣を破壊した男です。王都へ入った以上、アクアレギアを狙っている可能性があります」
「だからこそ、目的を聞きます。拘束を急いで抵抗された場合、王宮の兵だけで被害を抑えられますか」
将軍は答えず、腰の剣から手を離した。
ノーゼンからの報告には、敵兵を殺さず、聖剣だけを破壊したとあった。誇張が含まれているとしても、ただ力の強い相手として扱うのは危険だった。何を知り、何を求めているのかを確かめなければならない。
「小会議室へ案内してください。近衛は室外で待機を。私の命令があるまで、武器を抜かないように」
セレスは書類を閉じ、席を立った。会議は終わっていない。男を帰した後も、今夜の寝床と明日の食料を決める仕事が残っていた。
◇
小会議室へ向かう途中、セレスは父王の寝室へ立ち寄った。
医師に短い面会を許されて入ると、薬草の匂いがした。寝台の上のエドガルドは目を開けていたが、娘へ顔を向けるだけでも息を整える必要があった。
「聖剣を壊した男が、来たそうだな」
「はい。これから会います」
「本物だと、思うか」
「まだ分かりません」
セレスが寝台のそばへ座ると、父は毛布の上へ手を出した。その細さを見るたびに、病に倒れる前の大きな背中を思い出した。
「剣を求められたら?」
「渡しません。王都の結界も、国境の防衛も、あの力に頼っています」
父はすぐには答えなかった。セレスがその手を握ると、弱い力で握り返された。
「国を守らねばならん。だが、国境の向こうを……見なくてよいわけではない」
言葉の途中で咳が込み上げ、医師が寝台へ近づいた。セレスは手を離し、父が水を飲むのを待ったが、呼吸が落ち着いた頃には、その目は閉じかけていた。
「行ってまいります」
小さく告げて、寝室を出た。
国境の向こうにも人がいる。そのことを、知らないわけではない。だが、水を戻せば、その流れを利用してガルディア軍も進んでくる。
どうすれば両方を守れるのか、父に尋ねたかった。けれど、廊下には近衛兵が待っており、セレスは足を止めずに歩いた。
◇
会議室の前にいた黒髪の青年は、人相書きより若く見えた。
使い込んだ外套をまとい、左腕には包帯が巻かれている。その隣で銀白色の髪を隠した女性が立ち、赤茶色の髪をした少女は、武器の保管室へ一度目を向けてから、セレスへ頭を下げた。
「第一王女、セレス・ルミナスです」
「アルト・レイヴァンです」
青年も礼をした。名乗りは簡素で、英雄の名を口にしたという気負いは感じられなかった。
三人を会議室へ通す前に、セレスは保管室を確認した。青年の剣と少女の弓は預けられ、扉には鍵がかかっている。中で話す間も、近衛兵が見張ることになっていた。
長机を挟んで席に着くと、セレスは青年へ向き直った。
「百年前に魔王を倒した勇者だと、証明できますか」
「今ここで、誰もが納得する方法は思いつかない」
「聖剣の知識だけでは、本人の証明になりません」
「ああ。簡単に信じてもらえるとは思っていない」
セレスは用意していた問いを一つ飛ばした。功績を並べて信用を求めてくるなら、その真偽を確かめるつもりだった。だが、青年は疑いを解こうとするより、窓の外にある結界を気にしている。
「フレイムベルグを破壊したことは、認めますね」
「俺たちが壊した」
「その結果、ガルディア軍の進軍は遅くなりました。我が国としては、感謝すべきことです」
「剣を失っても、軍が退いたわけではないんだな」
「はい。国境の村では、今も避難が続いています」
青年は頷いた。その表情を見て、セレスは本題を先延ばしにすることをやめた。
「我が国へ来た目的を、聞かせてください」
「アクアレギアを止めるためだ。破壊する必要があると考えている」
予想していた言葉でも、直接聞けば身構えずにはいられなかった。セレスは机の下で指を握り、声を落ち着かせた。
「王都を覆う結界を、見たでしょう。あの剣を失えば、街は敵の攻撃にさらされます。農地へ水を送る仕組みにも影響が出る」
「ガルディアへ流れる水を止めていることも、知っている」
「敵軍の進軍を遅らせるためです」
「下流の村へ行った。井戸が枯れ、家畜が倒れていた。子どもが、椀に残った水を分け合っていた」
セレスは青年を見返した。責める声ではなかったが、だからこそ、報告書で読んだときのようには聞き流せなかった。
「影響が出ることは、承知しています」
「兵士だけが水を失うわけじゃない」
「敵軍と、川沿いに暮らす住民を分けて止めることはできません。水を戻せば、軍も補給を再開します」
「村の人間が倒れるまで、続けるのか」
「今、封鎖を解けば、今度はルミナスの村が襲われるかもしれません」
隣の少女の肩が強張った。
フェルナ人だという報告は受けていた。彼女へ例を求めるようなことはしたくなかったが、ガルディア軍が何をするかを、セレスだけの恐れとして扱われるわけにもいかなかった。
「国境を越えた軍が、村を焼き、食料を奪うことは、すでに起きています。フレイムベルグがなくなっても、その危険は消えません」
青年は少女へ一度目を向け、それからセレスへ視線を戻した。
「水を戻せと言うだけでは、国境の人間を守れない。そういうことだな」
「はい。守る方法を失うのは、ここで剣を渡した後なのです」
少しの間、返事がなかった。
セレスは息を整えた。相手を黙らせたかったのではない。剣を手放すことが、命令一つで済む話ではないと分かってほしかった。
「私たちも、最初から聖剣だけを頼ったわけではありません。兵を増やし、城壁を築き、使者も送りました。和平の使者が殺され、停戦協定が破られたこともあります」
窓の外で、水の流れる音がした。
「兵を増やせば、畑を耕す人が減ります。城壁の内側へ人を集めれば、外の農地を守りきれなくなる。父が病に倒れてからも、その判断を続けてきました」
「……そこまでの事情は、知らなかった」
「だから、知ってほしいのです。剣を壊した後も、ここには人が暮らしています」
青年は顔を伏せた。
やがて、机に置いた手を開き、セレスを見た。
「それを考えずに壊していいとは思わない。だが、下流で起きていることを、そのままにするわけにもいかない」
「私が、民間人を苦しめることを望んでいると?」
「望んでいるかどうかと、起きていることは違うだろう」
セレスは言い返しかけ、口を閉じた。
国境から届く報告には、敵軍の動きと、ルミナス側の被害が記されている。水を止めた結果、ガルディアの村で何人が倒れたのか。そこまで調べるよう、自分から命じた覚えはなかった。
「被害が出ることは分かっていました。その判断への責任も、私にあります」
「その被害を、どこまで知っている?」
セレスの指が止まった。
今朝、自国の避難民二百十三名の寝床を決めた。下流に暮らす者については、人数さえ知らなかった。
だが、そのことを認めても、敵軍が引き返すわけではない。セレスは背筋を伸ばし、青年へ答えた。
「今、あなたへ示せる報告はありません。それでも、国境の安全が確保されないまま、封鎖を解くことはできません」
青年は責める言葉を重ねなかった。しかし、納得して席を立つ様子もない。
セレスは机の上で手を重ねた。相手の見た村から目をそらさず、自分の国の民も見捨てない。そのために何を変えられるのか、答えはまだ出なかった。
沈黙の中で、青年の隣にいた女性が口を開いた。
「水を止めることのほかにも、確かめてほしいことがあるわ」
頭巾の下から、淡い翠色の瞳がセレスを見つめていた。
「その剣が力を集めるために、何をしているのかを」




