水の王女からの招き
王都の西門には、商人の荷馬車や補給の荷車、近隣の農村から来た者たちが列を作っていた。避難民も案内に従い、荷物を抱えて並んでいる。
門の上では水の結界が滑らかな流れへ変わり、出入りする者を通していた。
リナは登録所でもらった札を兵士へ見せた。
門でも荷物を確認され、弓と剣の記録を照合された。アルトは指示される前に長い包みを下ろし、鞘へ掛けられた紐を見せた。
「区画の中では抜くな。呼び出しがあれば、この札を持って出頭すること」
「分かりました」
リナが答えた。
兵士は三人の顔を順に見た後、避難区画への道を示した。
何も気づかれていないとは、もう思えなかった。それでも、その場で槍を向けられることはなく、三人は門を通ることを許された。
城内の指定区画には、大きな木造の建物が並んでいた。
共同の寝床や炊き出し所、治療所、仕事を割り振る受付があり、疲れた人々がそれぞれの列へ並んでいる。場所は違っても、初めてルミナスへ来たときの暮らしを思い出させる光景だった。
炊き出しの鍋からは、薄い麦粥が配られていた。
十分に豊かなわけではない。配られる量を見れば、避難してきた者すべてを満足させる余裕がないことは分かった。
それでも、水だけは豊富だった。
区画の中央には何本もの水汲み場があり、石造りの注ぎ口から清水が流れ続けている。人々は必要な分を汲み、残った水は排水路へ流していた。
「もったいない」
思わずつぶやくと、水瓶を抱えていた女性が振り返った。
「水が?」
「はい」
「来たばかりなのね。私も、最初はそう思ったわ」
女性は少し笑った。
「故郷では、井戸が枯れかけていたから」
「今は、そう思わないんですか?」
「王都では、聖剣が水を守ってくださると聞いたの。飲む水に困らなくなっただけでも、子どもを連れてきてよかったと思うわ」
女性は、水汲み場の奥にある小さな祠へ目を向けた。
青い石の中央に、水の剣を持った女性の像が置かれていた。
「アクアレギアがある限り、この国の水は守られるのですって」
「国の外で、困っている人がいても?」
口にしてから、強すぎる言い方だったと気づいた。
女性の表情が曇った。
「ガルディアのこと?」
「……はい。軍人ではない人たちも、水がなくて困っています」
「向こうにも、普通の人がいることは分かっているわ」
女性は水瓶を抱き直した。
「でも、あの国は何度も攻めてきた。私の夫も国境へ行っているの。水を戻して帝国軍が進んできたら、今度はこの町が焼かれるかもしれない」
「だからといって、子どもまで――」
「分かっている」
女性の声が苦しそうになった。
「それでも、自分の子どもが危険になるかもしれないと思ったら、簡単に助けてあげてとは言えないの」
リナは黙った。
女性は何か言いかけたが、結局、小さく頭を下げて建物の方へ去っていった。
流れ続ける水へ目を落としながら、リナは唇を噛んだ。
もしフェルナがまだ残っていて、水を止めなければグレンの軍が攻め込むと言われたら、自分は敵国の村へ水を流してほしいと願えただろうか。
昨日の少女の顔も、荷車に食料を積んだ帝国の子どもの顔も思い浮かんだ。
分かっているつもりになっていたことが、立つ場所を変えるたびに揺らいだ。
「リナ」
フィオナが隣へ来た。
「少し座る?」
「……うん」
彼女は答えを求めず、空いている長椅子を示してくれた。
そこへ腰を下ろした頃、アルトが麦粥の椀を持って戻ってきた。
「何かあったのか?」
「アクアレギアの話をしていたの」
「そうか」
「その前に、食べて」
リナが椀を指すと、アルトは言いかけた言葉をのみ込んだ。
「まだ、何も言っていないだろ」
「言わなくても、手が止まっている」
フィオナも隣へ座った。
「朝から歩いているのよ。感覚が曖昧でも、必要な分は食べて」
「分かった」
アルトは椀を膝で支え、匙を動かした。
ゆっくり食べる顔には、味を楽しむ表情がなかった。リナはその右手を見た。昨日、輪郭が透けた手が、今は匙を持っている。
普通に見えることが、無事の証明にはならない。
もう一本聖剣を壊したら、何が起きるのだろう。
「リナ?」
呼ばれて顔を上げると、アルトがこちらを見ていた。
「何でもない。急がなくていいから、全部食べて」
アルトは少し不思議そうな顔をした後、再び匙を口へ運んだ。
◇
指定された生存者登録を済ませ、アルトも治療所で打撲の状態を確認してもらった。寝床を割り当てられた三人は、そこでしばらく休んでから、市場へ向かった。
聖剣と、その使い手について知る必要があった。
中央通りには石造りの建物が並び、その両側を水路が通っていた。一定の間隔で噴水が設けられ、飛び散る水が日の光を受けている。
露店には川魚や水草、青い殻を持つ小さな貝が並んでいた。
国境で乾いた川底を見たばかりのリナには、その豊かさが少し遠いものに思えた。
「号外だ!」
市場の入口で、少年が紙束を掲げた。
「聖剣破壊者が国境へ接近! 王国軍が警戒を強化!」
通行人たちが足を止めた。
「帝国の剣を壊した男だろう?」
「よくやったと思っていたが、次はうちの剣を狙っているらしい」
「勇者アルトを名乗っているそうだ」
「守りの聖剣を壊す者が、勇者であるものか」
「帝国でもセルディアでも、追われているという話だぞ」
「結局、何者なんだ?」
「何者でもいい。アクアレギアを壊そうとしているなら敵だ」
その言葉へ、近くの者たちが頷いた。
リナは反射的にアルトを見た。
頭巾の下から、彼も話す者たちへ顔を向けている。足を止めかけたのを見て、リナは袖を引いた。
「行こう」
「少し、話を聞きたい」
「聞くだけで終わる?」
アルトが答える前に、フィオナが反対側へ立った。
「ここで説明を始めたら、誰なのか尋ねられるわよ」
「誤解されているところもあるだろう」
「まだ、私たち自身も何をするか決めていないでしょ」
リナは声を抑えた。
「今出ていっても、下流へ水を戻したいとしか言えない。その先をどうするのか聞かれたら、答えられる?」
アルトは人々へ目を向けた後、ゆっくり息を吐いた。
「……そうだな」
三人は市場の端へ移った。
人通りが少し減っても、リナの肩から力は抜けなかった。誰もがアクアレギアを守りたいと思っている場所で、その剣を疑うことは、彼らの暮らしを脅かすことと同じに受け取られる。
その恐れを、誤解だと片づけることもできなかった。
◇
市場の外れには、小さな水の神殿があった。
白い石の入口では、水瓶を抱えた女性の像が参拝者を迎えていた。中へ入る人々は、聖剣と王家へ祈りを捧げている。
正面の祭壇には、青い石で飾られた剣の模型が置かれていた。
その背後の壁画を見て、アルトが足を止めた。
岩山の中に古い神殿が描かれ、そこから流れ出した水が平原と街を潤している。中央には、剣を掲げた騎士の姿があった。
「知っている場所なの?」
リナが小声で尋ねると、アルトは岩山を見つめたまま答えた。
「あの山の形に、見覚えがある」
「封印した場所?」
「似ている。描き方が変わっているから、確かめなければ分からないけどな」
神殿の隅にいた老司祭が、三人へ近づいてきた。
「旅の方ですか?」
「はい。この壁画は、何を描いているんですか?」
リナが尋ねると、司祭は穏やかに笑った。
「聖剣が、この国へ安定した水をもたらした由来です。かつてのこの地は、水害と干ばつを繰り返していました」
「今は、違うんですね」
「アクアレギアと、それを受け継ぐ王家のおかげです」
司祭は壁画を見上げた。
「百年前、勇者アルト様が源流の神殿へ聖剣を残されました。その後、王家の祖先が剣を見いだし、国を救うために力を解放したのです」
アルトの肩が、わずかに動いた。
「見いだした、というのは、封印を解いたということですか?」
司祭が彼を見た。
「古い記録の言い方をご存じなのですね」
「旅の途中で聞きました」
「確かに、封印と記す資料もあります。ただ、永遠に使わせないために隠されたのではなく、必要なとき、正しい者へ託すためだったと伝えられています」
アルトは何も言わなかった。
それは、彼が聖剣を残した理由と、まったく違う話ではないのだろう。だからこそ、簡単に否定できないように見えた。
「源流の神殿は、今も残っているんですか?」
リナは尋ねた。
「水没神殿のことですね。建物は残っていますが、聖剣の力が解放された後、周辺の水位が上がり、下層は水の中へ沈みました」
「中へ入ることはできますか?」
「一般の方には難しいでしょう。源流一帯は王家の管理地で、兵も配置されています」
「古い記録も、そこにあるのでしょうか」
フィオナが尋ねた。
「封印当時の記録が、書庫に残っていると聞いています。王宮の記録庫にも、写しがあるかもしれません」
「王都で、誰でも読めるものではないのですね」
「ええ。水の管理にも関わる資料ですから」
司祭は三人を見比べた。
「ずいぶん、お詳しく調べておられる」
「勇者の伝説に興味があるんです」
リナは答えた。
「最近、勇者を名乗る人がいると聞いたので」
司祭の表情が曇った。
「嘆かわしいことです」
「偽物だと思いますか?」
「本物の勇者様は、百年前に人々を救い、静かに眠りにつかれました。今さら蘇り、自ら残した聖剣を壊そうとなさるとは思えません」
アルトが顔を上げた。
「残した判断を、後から考え直すことはないでしょうか」
司祭の目が頭巾の奥へ向いた。
「勇者様の判断が、間違っていたと?」
「状況が変われば、選び直すこともあるのでは」
「私たちより、遠くまで見通しておられたはずです」
司祭は静かに言った。
「魔王を倒し、世界を救った方なのです。その判断を、今を生きる私たちが軽々しく疑うべきではないでしょう」
アルトは少しだけ顔を伏せた。
リナは、以前の自分を思い出した。
勇者なら、何でも分かると思っていた。迷わず、間違わず、誰かを救うための答えを持っている人間なのだと。
けれど、実際のアルトは、分からないことを認め、決めたことさえ考え直しながら、目の前の人を助けようとしていた。その姿を知った今は、迷いのない完璧な英雄を語る言葉の方が、ひどく遠く聞こえた。
「今のアクアレギアは、王家のどなたがお使いなのですか?」
フィオナが尋ねた。
「第一王女セレス殿下です。源流の管理と王都の守りに、心を砕いておられます」
リナはその名前を覚えた。
下流の人々のことも、王女は知っているのだろうか。知ったうえで、水を止めているのだろうか。
ここで司祭へ問い続けても、答えは出ない気がした。
リナは礼を言って頭を下げ、アルトとフィオナを促して神殿を出た。
◇
日が傾き始め、水の結界が夕日を反射していた。
薄い青と橙色の光が建物の壁へ揺れ、道沿いの水路にも同じ色が映っている。三人は人通りの少ない道を選び、避難区画へ戻ろうとしていた。
「水没神殿には、調べる価値がありそうね」
フィオナが言った。
「封印当時の記録が残っていれば、アクアレギアの構造や、アルトの魔力がどう残っているのかを確かめられるかもしれない」
「王宮にも写しがあるかもしれないんだよね」
リナが言うと、彼女は頷いた。
「ただ、どちらも簡単には入れないでしょうね」
「使い手とも話す必要がある」
アルトは結界を見上げた。
「セレス王女が何を考えているのか、本人に聞きたい」
「正体を明かして、王宮へ行くつもり?」
「方法の一つではある」
「捕まるかもしれないよ」
「だから、今すぐ行くとは言っていない」
アルトが付け加えたので、リナは言いかけた言葉を止めた。
フィオナも少しだけ肩の力を抜いた。
「避難区画へ戻ってから考えましょう。まず、身体を休めて」
「分かった」
「本当に、そのまま戻ってね」
「二人とも、念を押すのが早くなったな」
そう答えたアルトへ、背後から声がかかった。
「旅のお方」
三人が振り返ると、青銀色の鎧を着た騎士が立っていた。
胸には水鳥の紋章があり、その後ろには数人の警備兵が並んでいる。道の反対側にも兵士の姿が見えた。
少し離れた場所には、先ほどの老司祭がいた。
リナの手が、布で包んだ弓へ伸びかけた。
「動かないで」
フィオナが小さく言った。
騎士は距離を保ったまま、一礼した。
「王都警備隊の者です。少し、お話を伺います」
「何の話だ?」
アルトが尋ねた。
「仮登録の内容と、王都での行動についてです」
リナは息を詰めた。
騎士はその反応を見ても、すぐに武器へ手をかけなかった。
「特徴の重なる三人が入都したと連絡を受け、確認を続けていました。市場では聖剣破壊者の話に反応し、その後、こちらの神殿で封印の記録について尋ねられた」
「調べ物をしただけだよ」
リナが言った。
「それだけで、何か決まるわけではないでしょう」
「そのとおりです。ですから、いきなり拘束せず、まずお話をしています」
騎士は神殿の方へ目を向けた。
「司祭殿からは、封印の場所を実際に見たかのような会話があったと伺いました」
リナは老司祭を見た。
彼は困ったような顔で、こちらを見つめていた。自分たちを捕らえようとしたのか、それとも、奇妙な旅人のことを尋ねられて答えただけなのかは分からなかった。
「神殿で声をかけなかったのは、なぜだ?」
アルトが尋ねた。
「市場や神殿で騒ぎになれば、周囲の方々を巻き込みます。殿下からも、該当する者を見つけた場合、可能な限り傷つけずに案内するよう命じられています」
「殿下というのは?」
「第一王女セレス殿下です。フレイムベルグを破壊した人物と、直接話すことを望んでおられます」
リナはアルトを見た。
兵士たちは道を押さえているが、槍先を三人へ突きつけてはいない。逃げようとすれば、その状態は変わるだろう。
ここは王都の中だった。
アルトの身体は弱っている。戦って逃げられるかどうかより、また無理をさせること自体が怖かった。
「アルト」
フィオナが呼んだ。
「分かってる」
彼が頭巾へ手をかけたので、リナは思わず袖をつかんだ。
「待って」
アルトは一度こちらを見た。
「話したかった相手へ、会えるかもしれない。戦わずに済むなら、その方がいい」
「罠かもしれないよ」
「ああ。だから、条件を確かめる」
アルトはゆっくり頭巾を下ろした。
黒髪と灰青色の瞳が、夕方の光へさらされた。人相書きとよく似ているわけではない。それでも、隠すことをやめたと分かる態度に、騎士たちの視線が集まった。
「俺が、アルト・レイヴァンだ」
老司祭の口がわずかに開いた。
驚いたのか、まだ偽物だと考えているのか、その顔からは読み取れなかった。
「本人かどうかを、ここで信じろとは言わない。王女は、危険人物として拘束するよう命じているのか?」
「王都で問題を起こさず、こちらの指示に従っていただけるなら、客人としてお連れするようにとのことです」
「三人とも?」
「はい」
「武器は、どうなる?」
「王宮へ入る前に、近衛兵へ預けていただきます」
アルトの手が、背中の包みへ触れた。
「剣は、勝手に調べたり分解したりしないでほしい」
「持ち主の許可なく抜いたり、構造を調べたりすることはしないと、引き渡しの記録へ明記しましょう」
「会談が終われば返す?」
「同行の条件に反する行動がなければ、返却します。保管責任者も、その場でお知らせします」
アルトはフィオナを見た。
彼女はしばらく考えた後、頷いた。
「王宮で武器を預けるよう求められるのは、不自然ではないわ。保管と返却の条件を記録してもらえるなら、従った方がいい 」
騎士が続けた。
「王宮の門までは、剣を持っていただいて構いません。ただし、その場で抜けないよう、こちらの封を加えさせてください」
「分かった」
アルトが布包みを下ろした。
騎士は登録所の紐を確かめ、古布の端を開いて鞘と柄へ新たな縄を掛けた。結び目へ青い封蝋を垂らし、水鳥の紋章を押す。
リナも弓と矢を差し出した。
「こちらは、部下がお預かりします。王宮で、剣と一緒に引き渡しを記録します」
弓を受け取った兵士は、リナの見える位置へ立った。
腰の短剣についても確認され、同じように預けることになった。父の遺品が手を離れた瞬間、リナの胸が強く痛んだ。
「必ず、返してください」
兵士は頷いた。
「記録を残します」
フィオナへは、同行中の精霊術を控えるよう求められた。彼女はアルトへ目を向けてから、静かに答えた。
「身体の状態が急に変わった場合は、先に知らせるわ。必要な処置まで禁じないでほしい」
騎士はその条件を認め、ようやく道を空けた。
「こちらへ」
三人は警備隊に囲まれる形で歩き始めた。
客人と呼ばれていても、自由に行き先を変えられる状況ではない。リナは預けた弓と短剣の位置を確かめ、アルトとフィオナのそばを離れないようにした。
頭上では、水の結界が夕日を映していた。
あの美しい守りと、下流の乾いた村は、同じ聖剣につながっている。その両方を知りながら、何を守り、何を切り捨てているのか。第二聖剣アクアレギアを振るう第一王女セレスに、確かめなければならなかった。
リナは二人のそばを離れず、警備隊に導かれるまま王宮へ向かった。




