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同じ川、隔てられた暮らし

 夜明け前、三人は山間に残る古い道を通ってルミナス領へ入った。


 国境を示す石柱は、すでに背後にあった。人の通らない斜面を慎重に越え、正規の検問を避けることはできたが、それで安心できるわけではない。


 国境沿いの街道では、軍が避難民の登録を進めていた。登録を受けずに領内を歩けば、巡回兵に呼び止められる。村や町で食料や寝床を得るにも、身元を記した札が必要になるらしかった。


 その臨時登録所の前には、朝の冷気の中、長い列ができていた。


 荷物を背負った老人の後ろで、母親が眠そうな子どもの手を引いている。壊れかけた荷車を押す家族や、足へ布を巻き、誰かの肩を借りて歩く負傷者もいた。


 皆、ガルディア側の村や、戦場に近い土地から逃れてきた人々だった。


 リナたちも、その列へ紛れた。


 短弓は布で包み、荷物に重ねて持っていた。フィオナは銀白色の髪を頭巾へ収め、顔の下半分を布で覆っている。アルトも深く頭巾をかぶり、古布で包んだ無銘の剣を背負っていた。


「なるべく、私に話させて」


 リナは前を向いたまま、小声で言った。


「分かった」


「名前も、さっき決めたものを使ってね」


「覚えてる」


「話を合わせる必要があるところでは、余計なことを言わないで」


 アルトがこちらを見た気配がした。


「ずいぶん心配されているな」


「しているよ」


 即座に答えると、彼はようやく黙った。


 隣でフィオナが小さく息を吐いた。その音が笑いなのか、ため息なのか、リナには分からなかった。


 前方には、木製の柵と数張りの天幕が見えていた。青と白の旗には水鳥の紋章が描かれ、受付の兵士が名前と出身地を記録している。その横では、持ち込まれた荷物や武器の確認が行われていた。


 国境の砦ほど厳重ではない。


 それでも、受付脇へ貼られた人相書きを見つけた瞬間、リナの足が重くなった。


 絵は三人にあまり似ていなかったが、添えられた特徴はそのままだった。黒髪の青年と銀白色の髪の女性、弓を持つ十代半ばの少女が、一緒にいるところを捜されている。


「通れそう?」


 フィオナが小さく尋ねた。


「分からない。でも、登録なしで街道へ出るよりはいいと思う」


「頼りにしているわ」


 その言葉に、リナは外套の内側へ手を入れた。


 指先に触れたのは、補助部隊で支給された木札だった。名前と年齢、出身地、所属部隊が刻まれている。


 フェルナを逃れて初めてルミナスへ入ったときにも、同じような列に並んだ。その頃は、家族がどこかで生きているかもしれないと信じていた。


 兵士の制服も、疲れ切った人々の顔も、あのときと変わらない。


 変わったのは、自分が守られるだけの難民ではなく、捜される者になっていることだった。


「次!」


 前にいた母親と少年が、荷車を押して受付へ進んだ。


 出身地を問われ、母親は南のカレド村だと答えた。夫は徴兵され、領内に親族はいないという。


 兵士は書き込みを終えると、二人へ札を渡した。


「指定された避難区画へ行け。三日分の食料を受け取れる。働ける者は、到着後に職業登録を受けること」


 母親は深く頭を下げた。


 その背中を見ながら、リナは木札を握り直した。


 この札を見せれば、一度はルミナスへ受け入れられた者だと証明できる。だが同時に、襲撃された補助隊から帰還報告をしていないことも知られる。


 嘘で通すには、知っていることが少なすぎた。


 使えるものを使い、聞かれたことへ答えるしかない。


「次!」


 三人の番になった。


     ◇


 受付に座っていたのは、四十歳ほどの女性兵士だった。


 髪は短く切りそろえられ、片頬には古い傷が斜めに残っていた。机の後ろには槍を持った若い兵士が二人立ち、リナたちの荷物へ目を向けている。


「出身は?」


「フェルナです」


 女性兵士の筆が止まった。


「今まで、どこにいた?」


「ルミナス軍の補助部隊にいました」


「所属札を」


 リナは木札を差し出した。


 女性兵士は刻まれた文字を読み、手元の記録をめくった。


「リナ・フェルゼン。第七補助隊か」


「はい」


「国境で襲撃を受け、多数が行方不明になったと報告されている。生き残ったのか?」


「はい」


「なぜ、帰還報告をしなかった?」


「指揮する人がいなくなり、どこへ戻ればいいのか分かりませんでした」


 それは、嘘ではなかった。


 負傷者と補助兵が取り残され、自分も何をすればよいのか分からなかった。あの混乱を思い出すと、机へ置いた手が少し冷たくなった。


 女性兵士はしばらく顔を見た後、書き込みを続けた。


「後ろの二人は?」


「一緒に逃げてきた親族です。彼女はフィア、彼はアレン」


 フィオナがわずかに頭を下げ、アルトもその名前に応じた。


「男は、顔を見せろ」


 リナの背筋が強張った。


 アルトはゆっくり頭巾を持ち上げた。黒髪が額へ垂れ、疲れた顔が朝の光へさらされる。


 女性兵士は人相書きと見比べた後、眉を寄せた。


「顔色が悪いな」


「避難の途中で足を滑らせて、脇腹を打ったんです」


 リナが答えると、アルトが何か言いかけた。


 外套の陰で、その袖を引く。


 アルトは一度こちらを見てから、口を閉じた。


「歩けるのか?」


「ゆっくりなら」


「熱や咳は?」


「咳や発疹はありません。打撲と、長く歩いた疲労です」


 フィオナが答えた。


「治療の心得があるのか?」


「少しは」


 女性兵士はアルトの呼吸と顔色を確かめた後、背中の包みへ目を移した。


「それは何だ?」


「古い護身用の剣です」


 アルトが答えた。


 リナは息を詰めたが、慌てて説明を足すことは避けた。布を開けば剣だと分かる以上、隠そうとする方が疑いを深めるかもしれない。


 女性兵士が部下へ合図した、その時だった。


「誰か、来てくれ!」


 列の後方で声が上がった。


 振り向くと、老人が荷物のそばへ崩れ落ちていた。近くにいた者たちが慌てて囲み、呼びかけている。


 リナは考えるより先に走り出した。


「待て!」


 兵士の声がしたが、足は止まらなかった。


 老人のそばへ膝をつき、顔と呼吸を確かめる。目は閉じられ、息が浅い。呼びかけると、わずかに瞼が動いた。


 補助隊で見た者たちと似ていた。長く歩き、水を飲む余裕もないまま力を使い切った人々だった。


「日陰へ移すのを手伝ってください」


 リナは周囲へ声をかけた。


 数人が荷物をどけ、老人を道端の陰へ運んだ。母から受け継いだ袋から清潔な布を出すと、一人の女性が水筒を差し出してくれた。


 リナはそれを受け取り、布を湿らせた。


 老人へ呼びかけ続けていると、やがて目が開いた。


「水……」


「あります。慌てなくていいから」


 顔を向けられることを確かめ、そばの女性とともに支えた。老人は少量の水を口にし、しばらくして長く息を吐いた。


 足音が近づいてきた。


 受付の女性兵士だった。


「手当ての経験があるのか?」


「補助隊で、負傷者の世話をしていました」


 彼女は老人の様子を見て、部下へ命じた。


「治療所へ知らせろ。担架も持ってこい」


 若い兵士が走り出した。


 リナはその背中を見て、ようやく、自分が受付を抜け出してきたことを思い出した。


「すみません。途中で――」


「そちらの話は、まだ終わっていない」


 厳しい返事だった。


 それでも、女性兵士はリナを叱りつけることなく、老人が担架へ移されるのを待った。


 受付へ戻ると、アルトとフィオナはその場にいた。逃げようともせずに待っていたことへ、リナは遅れて安堵した。


 女性兵士は木札を返した。


「第七補助隊の生存者として記録する。現時点で、報告の遅れだけを脱走とは扱わない。ただし、指定区画で詳しい状況を届け出ること」


「ありがとうございます」


「親族という二人も、仮登録にする」


 女性兵士はアルトを見た。


「剣を下ろせ。確認する」


 布がほどかれ、傷んだ鞘と装飾のない柄が現れた。


 アルトは兵士の指示に従い、刃の一部も見せた。補修された部分と古い鉄が混じる剣は、噂にある巨大な黒い剣にも、聖剣のような華やかな武器にも見えなかった。


「護身用にしても、ずいぶん傷んでいるな」


「長く使っています」


 女性兵士は武器の特徴を札へ記し、鞘と柄へ細い紐を掛けた。


「街道で持つことは認めるが、避難区画では抜くな。町の門でも、この札と一緒に申告しろ」


 視線がリナの荷物へ移り、弓も同じように確認された。


 特徴が重なることに、彼女が気づいていないとは思えなかった。人相書きへ向く目を見て、リナは背中へ汗がにじむのを感じた。


 しかし、女性兵士は二人の名と荷物を記録し終えると、三枚の札を差し出した。


「これで照合を受ける。男は、到着先の治療所でも診てもらえ。次に呼ばれたら、今度は勝手にいなくなるな」


「はい」


 リナは札を受け取り、深く頭を下げた。


 三人は登録所を抜け、指定された道へ進んだ。


 すぐに走り出したい気持ちを抑え、ほかの避難民と同じ速さで歩いた。声が届かないほど離れてから、リナはようやく息を吐いた。


「途中で、何を言おうとしたの?」


「足を滑らせたわけではないと思って」


「全部を正直に説明したら、昨日の巡回隊の話になるでしょ」


「そうだな」


「そうだな、じゃなくて」


 アルトは少しだけ困った顔をした。


 フィオナがその横で言った。


「今度は、先に決めた説明を覚えていてね」


「分かった」


 リナは登録所の方へ一度だけ目を向けた。老人を載せた担架が、天幕の奥へ運ばれていくのが見えた。


 助けに走ったことが、正体を疑わせるきっかけになったかもしれない。


 それでも、あの場で動かずにいることはできなかった。


 アルトも同じように振り返っていた。何か言われる前に、リナは前へ向き直った。


「行こう。登録したから安全になったわけではないんだから」


     ◇


 街道の先には、昨日までとは別の世界が広がっていた。


 道の両側では作物が青々と育ち、細い水路に透き通った水が流れている。水車は止まることなく回り、畑へ向かう牛や馬も、骨が浮くほど痩せてはいなかった。


 そこで働く人々の頬には、国境の村で見た者たちより血色があった。


 昨日、壁の反対側では、少女が空の椀を抱えていた。乾いた川底へ目を落とす男の声には、怒るだけの力さえ残っていないように聞こえた。


 それなのに、こちらでは水が当たり前のように流れている。


「こんなに違うんだ」


 リナは水路を見つめた。


「同じ川の水なのに」


「流す先を選んでいるのね」


 フィオナが答えた。


「ルミナス側の流れを保ちながら、ガルディアへ向かう分を留めている」


「そんな細かいことまで、アクアレギアでできるの?」


「今の使い手は、広い範囲の水をかなり精密に制御しているのでしょう」


 フィオナは水面へ手を近づけたが、触れる前に止めた。


「精霊力の流れが、とても均一だわ。自然に流れている場所とは違う」


「均一なら、悪いことではないんじゃない?」


「田畑へ安定して水を送る役には立つでしょうね。ただ、そのためにどこから力を集め、どの流れを止めているかも見なければならない」


 水路は美しかった。


 濁りがなく、一定の深さと速さを保って、石で造られた道を進んでいく。リナが見ている間も、水面が途切れることはなかった。


「精霊たちは、苦しんでいるの?」


「今すぐ消えそうな状態ではないわ。でも、本来の流れに沿って巡っているわけでもない。術で決められた場所へ留められている」


 リナは水路の先を見た。


 子どもたちが水を掛け合い、笑いながら逃げ回っていた。濡れた服を見た母親が声をかけていたが、その顔には笑みが残っている。


 昨日の少女がこの光景を見たら、どう思うだろう。


「リナ」


 アルトに呼ばれ、顔を上げた。


「ずっと、水路を見ているな」


「考えていたの」


「何を?」


「まだ、うまく言えない」


 水を独占してよいとは思えなかった。


 けれど、こちら側の暮らしまで壊せばよいわけでもない。水が失われれば、この畑が枯れ、今笑っている子どもたちが同じように渇くかもしれなかった。


 フレイムベルグを壊すことには、迷いがなかった。


 あの剣は故郷を焼き、家族を奪った。誰かにとって希望だったと言われても、自分には災厄でしかなかった。


 今、目の前にある水は違って見えた。


 その違いが剣の性質によるものなのか、自分が立っている側によるものなのか、リナにはまだ分からなかった。


     ◇


 昼を過ぎ、丘を越えた先に王都が見えた。


 最初に目を奪われたのは、城壁でも王城でもなかった。


 薄い水の層が、街全体を半球状に包んでいた。表面には絶えず流れが走り、日の光を受けて青白く輝いている。


 城壁の内側に並ぶ家々や、その奥の王城、外縁の農地の一部までが、水の膜の下に収まっていた。


 一羽の鳥が近づいた。


 水面のような境界がわずかに波打ったが、鳥は弾かれずに内側へ入った。


「結界なの?」


 リナは足を止めた。


「ええ。水の精霊力で作られた、大きな防壁ね」


「鳥は通れたぞ」


 アルトの言葉に、フィオナは流れを見上げた。


「強い衝撃や、凝縮された魔力へ反応するのでしょう。ゆっくり通るものまで、すべて遮るわけではなさそうね。出入口には、別の調整もあると思うわ」


「アクアレギアが、ずっと支えているの?」


「この規模なら、ほかの力だけで維持するのは難しいでしょうね」


 リナは水の膜の向こうに見える街を眺めた。


 ここには、数えきれないほどの人が暮らしている。剣がなくなれば結界も消え、敵の攻撃から守られなくなるのかもしれない。


「壊すの?」


 アルトへ尋ねた。


「このまま壊してよいとは思っていない」


「三本とも壊すと決めたんでしょ」


「ああ。でも、確かめたことを無視して、その決意だけ守るつもりもない」


 アルトは王都へ続く道を見た。


「下流で見たことも、ここで見たことも、両方考える」


 リナはもう一度、頭上の結界へ目を向けた。


 美しかった。


 だからこそ、これを見ている間だけは、干上がった川のことを忘れてしまいそうだった。


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