百年をつなぐ水路
山道を下り始めると、風の乾いた匂いがさらに強くなった。
草木の青い匂いも、川辺に近づけば感じられるはずの湿り気もない。日に焼かれた土と枯れ草の匂いが、吹き上がってくる砂埃に混じっていた。
アルトは斜面の途中で立ち止まり、眼下に広がる国境地帯を見渡した。
山の麓には、一本の川が通っている。百年前にも存在した大河の支流で、ルミナス側の山々からガルディア方面へ流れ、国境沿いの村や農地を潤していたはずだった。
しかし、今は広い川底の中央を細い流れがたどるだけだった。水の退いた泥にはひびが入り、岸辺の草も茶色く枯れている。
「雨が降っていないの?」
リナが尋ねた。
「それだけではないわ」
フィオナは目を閉じ、しばらく黙っていた。周囲を確かめるように顔を動かした後、眉を寄せる。
「水の精霊たちが、上流へ引かれている」
「引かれている?」
「本来なら川に沿って巡るはずの力が、途中で留められているの。この辺りへ届く流れが、ひどく細い」
アルトは川の上流へ目を向けた。山間を抜けた先は、ルミナス領だった。
「自然に干上がったわけではないんだな」
「ええ。水と精霊力の両方へ、強い干渉がある」
「アクアレギアなの?」
リナの声が小さくなった。
「可能性は高いわ。ただ、近くで確かめる必要がある」
三人は斜面を下りた。
この一帯は地図の上ではガルディア領だったが、前線が何度も移動したことで、今はどちらの国も完全には押さえられていないらしい。ガルディア軍とルミナス軍の双方が巡回する、緊張の続く土地だった。
川へ近づくほど、乾いた風景が人々の暮らしへ及ぼした被害も見えてきた。
岸辺には、水を失って動かなくなった水車が残されていた。羽根の一部が外れ、下の泥へ倒れている。川から畑へ伸びる細い水路にも、乾いた泥と枯葉が詰まっていた。
畑では数人が土を掘り返していたが、鍬の先から出てくるのは乾いた土ばかりだった。一人の老人が鍬へ体重を預け、そのまま畑の端へ座り込む。近くでは痩せた牛が伏せ、首を上げることもせずにいた。
「村がある」
リナが指さした先に、土壁の家が十数軒ほど並んでいた。
中央の井戸には人々が集まっていたが、水を運ぶ姿はほとんど見えない。三人が近づくと、皆が警戒するように振り返った。
老人と女性、子どもの姿が多く、働き盛りの男は少なかった。兵に取られたのか、別の土地へ働きに出たのか。それを尋ねる前に、一人の男が前へ出てきた。
「旅人か?」
四十歳ぐらいに見えた。頬はこけ、片腕へ巻いた布も汚れている。
「ああ。少し話を聞きたい」
「水を分けてほしいなら無理だ」
男は井戸へ目を向けた。
「もう、底が見えている」
「水をもらいに来たわけじゃない。川がどうなったのか知りたいんだ」
男の表情が硬くなった。
「見れば分かるだろう」
「いつから、これほど減った?」
「二か月前から少しずつだ。最初は雨が少ないせいだと思っていた」
「違ったの?」
リナが尋ねると、男は声を低くした。
「上流へ行った者が見た。ルミナス側で、川が止められている」
「堰を造ったのか?」
「普通の堰ではないらしい。岩も木も積まれていないのに、水だけが壁へぶつかったように止まっていると」
アルトはフィオナと目を合わせた。
男はその様子を見て、苦い顔をした。
「ルミナスは帝国軍を進ませないためだと言っている。水運を使えなくし、兵や馬の飲み水も断つつもりなのだろう」
「でも、村まで水が来なくなる」
リナが言った。
「そんなこと、向こうも分かっているはずでしょ」
「分かっているさ」
男の声には、怒りよりも疲れがにじんでいた。
「ここはガルディア領だからな」
その言葉に、アルトは返事を見つけられなかった。
敵国の土地に暮らしているというだけで、農民も子どもも、軍を止めるための犠牲へ含められている。
「帝国は、何もしてくれないの?」
「戦える者と食料を持っていった。水を取り戻すと言ってな」
男は乾いた畑へ顔を向けた。
「だが、水が戻るより先にフレイムベルグが壊れた」
周囲の村人たちが、小さく声を交わした。
「帝国の聖剣を壊した男がいるそうだ。村では、そいつを恨む者もいる」
アルトは黙って聞いていた。
「剣が残っていれば、ルミナスへ攻め込み、水を取り戻せたかもしれないからな」
隣でリナが口を開きかけたが、アルトはわずかに首を振った。
フレイムベルグは町を焼き、多くの命を奪った。その事実は変わらない。
それでも、あの剣を希望と信じていた者たちがいることを、グレンの言い訳としてだけ受け止めるわけにはいかなかった。剣の破壊によって救われた者がいる一方で、助かる道を失ったと感じている者もいる。
「あなたも、その男を恨んでいるのか?」
アルトが尋ねると、男はしばらく考えた。
「知らん」
「知らない?」
「会ったこともない人間を、噂だけで決められるか」
男はアルトを見た。
「ただ、剣が壊れたところで、ここの水は戻らなかった。今は誰が正しいかより、水が欲しい」
井戸のそばから、子どもの泣く声が聞こえた。
幼い少女が空の木椀を片手に持ち、もう片方の手で母親らしい女性の袖を引いていた。
「喉が渇いた」
「今日の分は、もう配られたの。少し待って」
「いつまで?」
母親は答えず、少女の背中をさすった。
アルトは川から村へ続く水路へ目を向けた。
上流側の一部が崩れ、土砂と石で塞がれている。川にはわずかな水が残っているのに、取水口から先へ入れなくなっていた。
「この水路は、前から使えなかったのか?」
「先月の土砂崩れで壊れた。直す人手も足りないし、直したところで畑へ回すほどの水はない」
「畑までは無理でも、飲み水をためることはできる。水路の先に、水を集める場所はあるか?」
「古い貯水槽がある。井戸の水位が下がってからは、そちらにも水をためて使っていた 」
アルトは川の流れを確かめた。
この村へ入る分を少し導ければ、今日を越えるための水にはなるかもしれない。下流へ残す量も考えなければならないが、今のように入口が塞がれたままよりはよい。
「直せるか、調べてみる」
「アルト」
フィオナが呼んだ。
「身体のことを忘れていないでしょうね」
「忘れていない。まず、道具でできるところを直す」
「少しでも異変が出たら、すぐに話すこと」
「分かった」
「私が休めと言ったら?」
アルトは崩れた水路を見た後、彼女へ向き直った。
「休む。残りは、ほかの人に頼む」
フィオナはようやく頷いた。
「私も手伝う」
リナが荷物を下ろした。
村人たちは顔を見合わせ、先ほどの男が鍬を取りに戻った。
「動ける者を集める。道具も貸そう」
「無理はしないでくれ」
「それは、こっちの台詞だ」
男の視線が、アルトの左腕へ向いた。作業のために袖を上げたところから、包帯がのぞいていた。
「怪我人にまで無理をさせたら、村の者が黙っていない」
「それなら、互いに気をつけよう」
アルトが答えると、男は初めて少しだけ表情を和らげた。
◇
水路の修復は、すぐには終わらなかった。
乾いて固まった土へ鍬を入れても簡単には崩れず、その下には大きな石がいくつも埋まっていた。村人たちは数人ずつ交代し、掘り出した土と石を籠へ入れて運び出した。
アルトも借りた道具で作業に加わった。左腕へ負担をかけないよう気をつけていても、固い土を崩すには身体全体へ力を入れなければならない。
フィオナは周囲の土の精霊へ呼びかけ、崩れやすい場所を確かめていた。無理に大きな力を使うのではなく、掘ってよい場所と支えを残す場所を村人へ伝え、二度目の崩落を防いでいる。
「この岩は、動かせそうにない」
村人の一人が声を上げた。
水路を塞ぐ岩は人の背丈ほどもあり、その半分近くが土へ埋まっていた。避けて新たな溝を掘れば、残った石組みまで使えなくなる。
アルトはしゃがみ、棒を使って下の隙間を探った。
「ここへ木材を差し込める。周りの土を少し取れば、持ち上げられるかもしれない」
「右側を先に掘って」
フィオナが岩の横を示した。
「下の土が緩んでいるわ。傾いた先へ人が立たないようにして」
村人たちが家畜用の太い縄と、梃子に使えそうな木材を運んできた。
岩へ縄を回し、倒れる方向を確かめてから、全員で引いた。最初は動かなかったが、周囲の土をさらに取り除くと、わずかに揺れた。
アルトとリナが木材を押し下げ、縄を引く者たちと力を合わせた。
「そのまま、ゆっくり!」
岩が持ち上がった。
支えていた土が崩れ、低い音を立てて横へ転がる。十分離れた場所で止まったのを確かめると、村人たちから歓声が上がった。
岩の下には、古い石組みが残っていた。
アルトは道具を置き、その並びへ目を向けた。
新しい石も混じっている。何度も補修されてきたのだろう。それでも、水を受ける角度や、流れが急になりすぎないよう段差をつけた形に、見覚えがあった。
「勇者様が直した水路だと、昔から言われている」
一人の老人がつぶやいた。
アルトは顔を上げた。
「勇者が?」
「ああ。百年前、この辺りを通った勇者一行が、魔王軍に壊された水路を直したそうだ」
石組みを見ているうちに、記憶が少しずつ戻ってきた。
水を奪われ、畑を失いかけていた村があった。仲間たちと川辺へ下り、慣れない道具を借りながら、一日かけて流れをつないだ。
急ごしらえで、長くは使えないかもしれないと思っていた水路が、百年もの間、誰かの手で直されながら残っていた。自分たちが去った後も、人々がこの流れを守り続けていたのだと思うと、アルトはしばらく石組みから目を離せなかった。
「本当に、勇者が作ったのかな」
リナがこちらを見た。
「元からあったものを、直したんだと思う」
「覚えているの?」
「石の置き方に、見覚えがある」
老人が楽しそうに笑った。
「伝説では、大層な剣で岩を真っ二つにしたことになっているぞ」
アルトは動かしたばかりの岩を見た。
「たぶん、あのときも皆で引いた」
リナが小さく笑った。
「噂って、百年経っても変わらないんだね」
「今度は、この山ごと斬ったことになるかもしれないな」
「もう、誰かが話しているかも」
アルトも笑いかけたが、その途中で胸の奥に痛みが走った。
短く息が詰まり、手近な石へ手をつく。
「アルト?」
フィオナがすぐに来た。
何でもないと言いかけ、アルトは口を閉じた。
「胸が少し痛んだ。今は、収まりかけている」
フィオナは胸元へ手を当てた。
「心音が弱い。作業はここまでよ」
アルトは取水口へ目を向けた。
土砂はほとんど取り除かれたが、川から水を入れるための石組みが崩れている。あそこを整えなければ、流れは元の川筋へ逃げてしまう。
「入口が、まだ残っている」
「場所を教えて。私たちで直す」
フィオナの言葉に、リナも頷いた。
アルトはしばらく迷った後、道具を置いた。
「分かった。先に、あの平たい石を少し下げてくれ。全部の水を引き込まずに、細い流れを分けたい」
村人たちが作業へ戻った。
アルトは岸へ腰を下ろし、位置を示した。石の角度が整い、入口へ少しずつ水が入り始める。
しかし、長く乾いていた底が水を吸い、流れは途中で弱まった。
「水、来る?」
空の椀を持っていた少女が、母親に手を引かれて近くまで来ていた。
アルトは頷きかけ、曖昧な約束をしそうになった自分を止めた。
「今、皆で流れるようにしている。もう少し待ってくれ」
少女は水路を見つめた。
その目を見ていると、ただ休んでいることが難しかった。だが、ここで再び倒れれば、作業を止めて自分を運ぶ人手まで必要になる。
アルトは川底の細い流れへ指先を触れた。
「精霊たちへ、呼びかけるだけにする。力を使う前に、フィオナにも確かめてもらう」
フィオナは厳しい顔のまま、隣へしゃがんだ。
「流れを導くためだけよ。水を増やそうとしては駄目」
「ああ」
ぬるい水の中で、小さな青白い光が揺れた。
この土地に残る水の精霊は少なく、その気配も弱かった。彼らから力を奪えば、わずかに残っている流れまで損なってしまう。
「無理はしなくていい。水路へ入る分だけ、流れを整えるのを手伝ってくれないか」
いくつかの光が、指先のそばへ集まった。
アルトは無銘の剣を抜き、切っ先を水面近くへ下ろした。補修された刃へ薄い水の力をまとわせ、石組みの間へ流れを導く。
水を生み出しているのではない。今ある水が自然に入口へ向かうように、わずかな力で向きを整えているだけだった。
水路へ入る量が増え、乾いた底へ細い流れが伸びた。
「流れたぞ!」
村人たちが声を上げた。
水はひびへ染み込みながら、それでも先へ進んだ。途中の漏れやすい場所へ、村人たちが粘土と小石を詰めていく。
アルトは流れが安定するまで力を保とうとした。
そのとき、胸の奥が再び痛んだ。
鼓動が一拍抜けたような感覚に、指から力が抜ける。
「止めて」
フィオナが手首を支えた。
アルトは剣を下げた。
「あと少しで、つながる」
「残りは皆がやっている。もう、あなた一人で支える流れではないわ」
言われて水路を見ると、男たちが入口の石を押さえ、リナが漏れている場所へ土を運んでいた。
剣から力を引いても、水は細く流れ続けていた。
アルトは息を吐き、頷いた。
その直後、村の見張り台で鐘が鳴った。




