噂の勇者と、乾いた国境
フレイムベルグが砕けてから、三日が過ぎた。
ノーゼンを離れたアルトたちは、ルミナス王国との国境へ向かっていた。しかし、正規の街道を進むことはできなかった。ガルディア軍はアルトを追い、ルミナス軍も国境で三人の行方を警戒しているという。
人通りの少ない林道や、農民しか使わない細道を選んでも、噂までは避けられなかった。三人が歩いている間に、聖剣を壊した男の話は、行く先々へ届いていた。
昼を過ぎた頃、山裾に小さな宿場が見えた。数軒の家と食堂、厩舎が並んでいるだけだったが、屋根から上がる煮炊きの煙に、リナは少し気持ちが緩んだ。
「食料を買ったら、すぐに出ましょう」
フィオナが銀白色の髪を頭巾へ収めながら言った。隣ではアルトも黒髪を隠し直している。無銘の剣には布が巻かれ、遠目には長い荷物にしか見えなかった。
「私が行ってくる。二人は林で待っていて」
「一人で大丈夫か?」
「アルトが行く方が危ないでしょ。顔を隠していても、声でばれるかもしれない」
「俺の声まで知られているのか?」
「噂では、雷みたいな声で敵を倒したことになっているかも」
「それは便利だな」
「試そうとしないでね」
リナが念を押すと、アルトは少し笑った。その顔を見ていると、国を挙げて捜されている人間には思えない。こちらまで気を緩めないよう、リナは外套で弓を隠し、宿場へ向かった。
食堂の前には、十人ほどの旅人が集まっていた。商人や荷運び人に混じり、幼い子どもを連れた家族もいる。皆が見上げている掲示板をのぞき込み、リナは足を止めた。
貼られていた三枚の紙は、正式な布告ではなかった。商人や伝令が持ち込んだ知らせを、宿場の主人が書き写したものらしい。それでも、そこにある名前は見間違えようがなかった。
ガルディアは、アルト・レイヴァンを名乗る黒髪の青年を国家の敵に指定していた。第一聖剣を破壊した危険人物として、発見した者に通報を求め、協力者も処罰すると記している。
ルミナスの警戒情報には、青年と同行する銀白色の髪の女性、弓を携えた十代半ばの少女という特徴まで挙げられていた。リナは思わず外套を引き寄せた。
セルディア聖教国の通達では、勇者の名を騙り、神と英雄を冒瀆する異端者とされている。
どこかの国へ入れば、少しは安全になるのではないか。心の隅にあった期待を、三枚の紙が否定していた。
「聖剣を壊した男だってよ。帝国の将軍を一撃で倒したらしい」
「俺は、素手で剣を折ったと聞いたぞ」
「身の丈ほどもある黒い剣を使ったんじゃないのか?」
近くの商人たちが話すたびに、アルトの姿が変わっていく。
リナは口を開きかけ、慌てて閉じた。実際には膝をつくほど消耗し、無銘の剣も壊れる寸前だった。平然と炎へ飛び込んだのではない。傷を負いながら、それでも逃げ遅れた人を助けようとしていた。
だが、それを知っていると言えば、自分が誰なのかまで知られてしまう。
「本当に勇者なのか?」
「百年前の人間が生きているわけがないだろう」
「だが、ほかに聖剣を壊せる人間がいるか?」
一人が掲示板を指さした。
「ルミナスまで警戒しているんだ。水の剣も壊すつもりなのかもしれん」
その言葉で、周囲の声が少し静まった。
「炎の剣は、壊して正解だったかもしれない。フェルナを焼いた剣だからな。だが、アクアレギアは王都を守っている」
「結界が消えたら、今度は帝国やセルディアが攻め込むぞ」
「本物の勇者が、そんなことをするか?」
リナは掲示板から目を離せなかった。
人々は英雄か危険人物かを決めようとしている。けれど、敵兵にも手当てをし、復讐の矢を放とうとした自分の前へ立った男のことは、誰も話さない。
言い返したい気持ちを抑えていると、食堂の主人が声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、何か買うのか?」
「あ、はい。黒パンを三つと、干し肉を少し」
「三人旅か。今はどこの軍も人を捜しているから、気をつけな」
主人はパンを包みながら、声を落とした。
「特に、弓を持った若い娘には気をつけろとさ」
視線が、外套の端からのぞいた弓へ向いた。リナは息を詰めたが、主人は人を呼ぼうとはしなかった。差し出した包みには、小さな水袋も添えられている。
「この先は水場が少ない。持っていきな」
「でも、その分のお金は……」
「いい。ノーゼンには、妹夫婦が住んでいる」
リナが顔を上げると、主人は周囲を確かめてから続けた。
「昨夜、町を出た商人が来た。二人とも無事だそうだ。聖剣を壊した男が本当に勇者かは知らないが、妹たちを助けたのが誰かは聞いている」
リナは包みを受け取り、胸へ抱えた。何と答えればよいのか分からずにいると、主人は顎で林の方を示した。
「早く行きな。兵が来る前に」
「……ありがとう」
声が震えたのは、気づかれた恐ろしさだけではなかった。
主人はそれ以上尋ねず、次の客へ顔を向けた。リナも振り返らずに食堂を離れ、人々の視線を避けながら林へ戻った。
◇
アルトは木の幹へ背を預け、フィオナは隣で無銘の剣を調べていた。
リナが掲示の内容を伝えると、アルトは困ったように頭巾へ触れた。
「顔を隠すだけでは足りないか」
「武器も目立たせない方がいい。それから、人前では三人一緒に動かないようにしよう」
「分かった。買い物は大丈夫だったか?」
主人に気づかれたことと、ノーゼンの妹夫婦の話をすると、アルトの表情が緩んだ。
「無事だったんだな」
「うん。水袋は、お礼のつもりみたい」
「次に会えたら、こちらからも礼を言いたいな」
またここへ戻れるかも分からないのに、アルトは自然にそう言った。リナはその声を聞き、ようやく少し落ち着いた。
黒パンを配って腰を下ろすと、歩き続けてきた疲れが足に戻ってきた。パンは硬く、少し酸味があったが、空腹にはそれだけでもありがたい。
フィオナも食べ始めたのに、アルトの手は動かなかった。
「味、まだ戻らないの?」
尋ねると、アルトはパンへ目を落とした。
「今のところはな」
「昨日も、その前も残していたでしょ。お腹は空かない?」
「空いている気はする。ただ、食べた後もあまり変わらないんだ。どのくらい食べればいいのか、前より分かりにくい」
無銘の剣を包んでいたフィオナの手が止まった。
「それは、いつから?」
「味が分からなくなってからだと思う。食べ物のせいかと考えていた」
「そういう変化も教えて。味覚だけの問題とは限らないわ」
フィオナは剣を脇へ置き、アルトへ手を差し出した。彼も左腕を伸ばし、手首の契約印を見せる。
翠色の光が強まるにつれ、白かった指先へわずかに赤みが戻った。リナは身を乗り出したが、フィオナが送る力を弱めると、その色は再び薄れていった。
「今のは、治ったわけではないの?」
「外から力を補って、身体の働きを助けているだけよ。原因を取り除けたわけではない」
リナはアルトの手を見た。よくなる兆しに思えた変化が消えていくのは、最初から何も起きないよりつらかった。
「フレイムベルグを壊したことと、関係があるんだね」
「その可能性を調べているわ。蘇生術と、聖剣に残るアルトの魔力が、どう関わっているのかを確かめたい」
「アクアレギアにも、俺の痕跡が残っているはずだ」
アルトが言うと、フィオナは頷いた。
「調べられれば、今の状態を知る手掛かりになるかもしれない。ただ、まだ分かっていないことの方が多いの」
リナには、彼女が口にしていない不安もあるように見えた。呼び戻した本人でさえ、アルトの身体に何が起きているのか言い切れない。そのことが、急に恐ろしくなった。
「分かったことは、私にも教えて。アルトも、歩けるから大丈夫だと思わないで」
アルトは返事をしかけたが、一度口を閉じ、手首へ目を向けた。
「分かった。食べた後のことも、先に話すべきだったな」
「私も、確かめられたことから伝えるわ」
フィオナの返事を聞いてから、リナはアルトのパンを指さした。
「それで、食事は必要なんでしょ?」
「ええ。感覚が戻るまでは、量を決めて食べるようにしましょう」
「分かった。今日は残さない」
アルトは一口かじり、ゆっくり飲み込んだ。おいしそうには見えなかったが、次の一口も自分から口へ運んだ。
リナは急かさず、その隣で食べ続けた。宿場では、素手で聖剣を折る男として語られていた。その本人が今、硬いパンを食べることにも時間をかけている。
この姿を見れば、人々はどう思うのだろう。
噂を言い直してもらうことより、今はアルトが無事に食事を終えられることの方が、リナには大切だった。
◇
宿場を離れた三人は、街道を避けて山道を進んだ。その夜は道から離れた林で休み、翌朝、空が明るくなるのを待って出発した。
木の根が露出した坂を越えれば、ガルディアとルミナスが接する国境地帯へ出る。歩きにくい道だったが、リナの足を重くしているのは、疲れだけではなかった。
ルミナスは、フェルナを失った自分を受け入れた国だった。食料と保護を得る代わりに、働ける者は軍の補助部隊へ入るよう求められた。それでも、行き場のなかった自分が生き延びられたことは変わらない。
その国を守るアクアレギアを壊してよいのかと、宿場で聞いた言葉が何度も胸に戻ってきた。
「アルト。水の剣が、本当に国を守るために使われていたら、どうするの?」
前を歩いていたアルトが振り返り、歩調を緩めた。
「結界を失って困る人が、大勢いるんじゃないかと思って。私も、ルミナスには助けてもらったから」
口にしてから、リナは彼の返事を待った。三本とも壊すと決めたからだと言われたら、自分はどうすればよいのだろう。
アルトはしばらく道を見てから答えた。
「まず、実際に何をしている剣なのか確かめたい。誰かを守っているなら、失わせた後のことまで考えなければならない」
「代わりになるものが見つからなかったら?」
「残すことも含めて考え直す。危険な力だとは思っているが、今の考えを押し通すために、守られている人まで危険にさらすつもりはない」
リナは隣へ来たアルトを見た。
聖剣を壊す決意が軽かったとは思わない。だからこそ、答えを変える可能性も認めてくれたことに、少し安堵した。
「王国が調査を認めるかという問題もあるわ」
後ろからフィオナが言った。
「聖剣を壊した相手に、大切な剣を調べさせるとは限らないもの」
「そうだな。どう使われているか聞くことから始めよう」
アルトの返事を聞きながら、リナは坂の先へ目を向けた。
フレイムベルグとは違う答えを選べるかもしれない。そう思いたかった。もう一本壊せば、アルトの身体に何が起きるのかも分からない。
人々を守ることと、アルトを守ることが、同じ道につながっていてほしかった。
そのとき、山道の先から吹いた風に、乾いた土埃が混じった。
リナは口元を覆い、足を止めた。湿った森の空気に慣れた喉へ、ざらつくような感触が残っている。
「どうした?」
「この先、ずいぶん乾いているみたい」
三人は木々の途切れる場所へ進んだ。そこから見下ろしたガルディア側の国境地帯には、むき出しの大地が広がっていた。
川は残っていたが、水は露出した川底の一部を細く流れるだけだった。岸辺の草は茶色く枯れ、遠くの畑にも育った作物が見当たらない。風が吹くたび、畝の上から土埃が上がった。
「ここが、水の国との国境なの?」
リナの問いに、すぐ答える者はいなかった。アルトは川筋を目で追い、フィオナも斜面の向こうを見つめている。
国境を越えれば、この乾いた景色は変わるのだろうか。それなら、同じ川のそばにあるこの土地では、どうして作物も育たないのだろう。
リナは斜面へ一歩近づき、わずかに残った水の流れを探した。国を守るというアクアレギアの力が、この場所には届いていないことだけは、目の前の景色から分かった。




