炎が迫る町
ノーゼンの南門が見えたとき、北の空はすでに赤く染まり始めていた。
夕焼けには早すぎる光だった。街道の向こうから迫るフレイムベルグの輝きが、薄い雲の底を照らしている。
「まだ町には着いていない」
リナが息を切らしながら言った。
「北門の方に、グレンたちの旗が見えない」
細い農道を抜けた三人は、南門へ向かって走り続けていた。足元へ送られる風が踏み出す身体を支えてくれていたが、その力も先ほどから弱くなっている。
隣を見ると、フィオナの銀白色の髪が汗で頬へ張りついていた。浅い呼吸を繰り返す横顔に、アルトは胸を締めつけられた。
「フィオナ、もう風を弱めていい」
「門まで、あと少しでしょう」
「顔色が悪い」
「あなたも、人の顔色を気にしている場合ではないわ」
フィオナはアルトの左腕へ目を向けた。
「その腕を使わないで。さっきから、かばう余裕もなくなっている」
「気をつける」
「今度こそ、気をつけて」
言い返そうとしたアルトより先に、リナが門を指さした。
「閉まっている!」
ノーゼンは、もともと交易によって栄えた町だった。城壁は盗賊や魔物の侵入を防ぐためのもので、軍の攻撃に長く耐えられるほど高くも厚くもない。
その低い城壁の上で、フェルナの紋章をつけた兵士たちが弓を構えていた。
「止まれ! 何者だ!」
「フェルナ出身よ!」
リナが門の前で足を止め、声を張った。
「北の街道からガルディア軍が来る! この町を焼くつもりなの!」
兵士たちの間に動揺が走ったが、門は開かなかった。
「ガルディア軍の接近なら、すでに斥候が確認している!」
「なら、どうして町の人を避難させていないの!」
「ここを明け渡せば、ルミナス軍を迎え入れられなくなる!」
リナは言葉を失った。
門上の兵士は、彼女の反応を振り切るように続けた。
「ノーゼンは補給拠点になる。先遣隊も東の街道まで来ているのだ。あと少し持ちこたえれば、合流できる!」
「その前に町が焼かれたら、どうするの?」
「ルミナス軍が来れば守ってもらえる!」
「間に合わなかったら?」
返事はなかった。
アルトは城壁の上を見上げた。弓を握る兵士たちの顔にも、恐れが浮かんでいる。彼らも助けが来るという知らせに縋っているのだろう。
「責任者と話したい」
「誰だ、お前は」
「アルト・レイヴァン」
一瞬、門の上が静まり返った。
やがて別の兵士が、吐き捨てるように言った。
「勇者を名乗っている偽物か」
「本物かどうかを調べるのは、後でいい。ガルディア軍には、フレイムベルグで町を焼く命令が出ている」
「だからこそ、援軍を待つのだ!」
「待つ間に避難を始めろ。先に人を逃がしてくれ」
「ここを失えば、フェルナを取り戻す機会が消える!」
リナが門へ詰め寄った。
「取り戻すって、誰のために?」
「フェルナの民のためだ!」
「その民を、炎が来る場所へ残したままで?」
「黙れ!」
兵士の一人が弓を引き絞った。
「お前たちがガルディアの回し者ではないという保証もない!」
アルトは北の空へ目を向けた。赤い光は、先ほどよりも強くなっていた。
力ずくで入れば、町の兵士たちから敵と見なされる。それでも、門の外で説明を続けている間にグレンが着けば、住民を逃がす時間そのものが失われる。
弓を向ける相手を恐れるより、その判断を自分が下さなければならないことの方が重かった。
「門を開けてくれ」
もう一度だけ呼びかけたが、兵士は答えなかった。
アルトは無銘の剣へ手をかけた。
「壊すつもり?」
リナに尋ねられ、門の合わせ目へ目を向ける。
「扉は残す。閂を外せれば、それでいい」
「外からできるの?」
「フィオナ、内側を調べられるか?」
フィオナは短く頷き、細い風を木板の隙間へ送り込んだ。
「閂を支えている金具がある。右側の受けを壊せば、傾けられるはずよ」
「そこだけでいい。力を貸してくれ」
剣を抜くと、城壁の上で号令が飛んだ。
「構えろ!」
アルトは門へ走った。
放たれた矢を剣と風で横へ払い、門の直前で踏み込む。木板の合わせ目へ切っ先を差し込み、フィオナに示された位置へ力を集中させた。
内側で金具の砕ける音がした。
しかし、閂はまだ落ちなかった。アルトは刃を深く差し直し、残った支えを突き崩した。
重い木材が内側で傾き、扉を押さえていた力が抜けた。
「押してくれ!」
リナが肩を当て、アルトも右手を添えた。フィオナの風が扉を押し、三人が通れるだけの隙間が開く。
「侵入者だ!」
門を抜けた先で、兵士たちが槍を向けてきた。
アルトは剣を構えたまま、足を止めた。
「戦うつもりはない」
「門を壊しておいて、何を言う!」
「閂の受けだけだ。扉は使える」
「捕らえろ!」
数人が近づいたが、その向こうには町の人々が集まっていた。荷物を抱えた女性や杖をついた老人が、何が起きたのか分からないまま門前の騒ぎを見つめている。
アルトは彼らへ向かって声を張った。
「ガルディア軍が、この町を焼くために来る! 南から避難してくれ!」
「嘘だ!」
兵士が叫んだ。
「敵は町を奪うために来る。焼けば使えなくなるではないか!」
「ルミナス軍に使わせないために焼くんだ!」
人々の間へ、ざわめきが広がった。
「今なら、まだ逃げられる。必要なものだけ持って、南門へ向かってくれ」
「家はどうなる!」
「店を置いていけと言うのか!」
「残れば、命を失うかもしれない」
アルトの返事に、人々は黙った。
家を捨てろと言われて、すぐに動ける者などいない。そこには暮らしがあり、仕事があり、家族と過ごした時間がある。
何も持たない自分が、軽々しく言ってよいことではないと分かっていた。
それでも、逃げてほしかった。
「リナ、避難できる場所はあるか?」
「南門から農道を東へ進むと、古い石切り場がある。町の人全員は入れないけれど、子どもや怪我人が身を隠せる場所はある」
「先にそこへ案内してくれ。歩ける人は、さらに町から離れるように」
「分かった」
リナは近くにいた、幼い子を連れた女性へ駆け寄った。
「その子を連れて南門へ。重い荷物は置いていって」
「でも、夫が北側の倉庫にいるの」
リナは一瞬迷った後、そばにいた青年へ顔を向けた。
「倉庫の人たちへ知らせてもらえる? 町の南から逃げるように伝えて!」
青年は兵士たちと北の空を見比べ、やがて頷いて走り出した。
女性も子どもを抱き上げた。その動きをきっかけに、一人、また一人と門へ向かい始める。
フィオナがアルトの隣へ来た。
「町全体を覆う結界は張れないわ。移動に力を使いすぎた」
「分かってる。必要な場所だけ助けてくれ」
「あなたは?」
「北へ行く」
「一人で全部止めるつもりなら、今のうちにやめて」
アルトは彼女を見た。ひどく疲れた顔だったが、その目はまっすぐこちらを捉え、一人で無茶をしないという返事を待っていた。
「力が必要になったら呼ぶ」
「必ずよ」
アルトは頷いた。
そのとき、北の見張り台で鐘が鳴った。
◇
南門の兵士たちが、北壁へ向かって走り始めた。
門前へ駆けつけてきた指揮官も、接近を知らせる鐘を聞くと、アルトへ向けていた怒りをのみ込んだ。
「そいつの拘束は後だ! 弓兵は北壁へ回れ!」
アルトとフィオナは兵士たちに続き、町を縦に抜けた。
北壁へ上がると、街道の向こうに黒地へ赤い獅子を描いた軍旗が見えた。その先頭にいるグレンが、城壁から少し離れた場所で馬を止める。
東へ目を向ければ、ルミナス軍らしい旗も見えた。しかし、町へ到着するには、まだ距離がある。
「先遣隊はいるわ」
フィオナが言った。
「ああ。でも、グレンが攻撃を始めれば間に合わない」
帝国兵たちは城壁の外で陣形を整えた。盾を持つ兵士が前へ出て、その中央でグレンがフレイムベルグを抜く。
赤い炎が上がった瞬間、城壁に並んだフェルナ兵たちの動きが止まった。
白旗を掲げた帝国兵が一人、前へ進み出た。
「ノーゼンに告ぐ!」
拡声の魔道具を通した声が、城壁の内側まで響いた。
「ルミナス軍への協力を直ちに停止せよ! 町の武装を解除し、兵士は城外へ出よ! 従うならば、住民の命は保証する!」
フェルナの指揮官が前へ出た。
「ここはフェルナの町だ! 侵略者の命令に従う理由はない!」
「拒絶する場合、皇帝陛下の命により町を焼却する!」
城壁の下で悲鳴が上がった。
「脅しだ!」
指揮官は兵士たちへ向かって叫んだ。
「敵も使える町を失いたくはない! 援軍が来るまで持ちこたえるぞ!」
「ルミナス軍へ渡すより、焼く方がよいと判断された!」
伝令の返答に、指揮官の顔が強張った。
アルトはその横へ立った。
「住民の避難を認めてくれ」
「黙れ。まだ戦いもせず、町を捨てろと言うのか!」
「守るために戦うなら、人が逃げ切るまで守ってくれ」
「ここを失えば、国を取り戻す足場がなくなる!」
「その足場を守って、フェルナの人々がいなくなればどうする」
指揮官が剣へ手をかけた。
「貴様に何が分かる!」
アルトは、彼の握り締めた手を見た。
故郷を奪われ、残った場所まで明け渡せと言われている。引けば何もかも失うのだと思う気持ちを、簡単に否定することはできなかった。
「町を失うのが、軽いことだとは言わない」
アルトは静かに続けた。
「それでも、人が生き残れば、建て直す道を探せる。今は、その人たちを逃がしてくれ」
指揮官は答えなかった。
町の内側から、リナの声が上がった。
「南門から避難を始めている! 北側の人にも知らせて!」
城壁へ続く通りには、少しずつ人の流れができていた。老人を背負った青年たちが歩き、子どもを抱いた女性の後ろを、負傷者を載せた荷車が続いている。
「勝手なことをするな!」
指揮官が怒鳴った。
リナは城壁を見上げた。
「勝手じゃない。この町の人が、自分で逃げると決めたの!」
「援軍が来れば守れる!」
「来る前に焼かれたら、どうするの!」
リナの声が震えた。
「フェルナのためと言うなら、そこにいる人を置いていかないで!」
アルトは指揮官を見た。
彼は町の通りへ視線を落とし、唇を強く結んでいた。やがて、そばにいた兵士へ低い声で命じる。
「……動けない者を優先しろ。運べる者は、避難を手伝え」
兵士が驚いた顔をした。
「だが、北壁の守りは解くな!」
指揮官はそう付け加え、再び城外へ顔を向けた。
帝国側から、返答を求める声が届いた。
グレンがフレイムベルグを構え直すのを見て、アルトは階段へ向かった。
「アルト!」
「外へ出る。フィオナは避難を助けてくれ」
「町を背にして、あの炎を受けるつもり?」
「町へ向けさせないようにする」
アルトは一度だけ振り返った。
「力が必要になったら、呼ぶ」
フィオナは何か言いかけたが、やがて頷いた。
「聞こえるように呼んで。無理をする前に」
北門へ下りると、指揮官の命令を受けた門番が、扉をわずかに開いてくれた。
アルトはその隙間を抜け、一人で帝国軍の前へ歩き出した。
◇
「止まれ!」
槍を向けた兵士たちを、グレンが片手で制した。
開かれた道を進み、アルトは声の届く距離で足を止めた。
「町は明け渡すのか?」
グレンが尋ねた。
「住民を避難させている」
「質問に答えろ」
「ルミナス軍は、まだ町へ入っていない。今いるのは、逃げようとしている人たちだ」
「敵軍はいずれ来る。その時間を与えるわけにはいかん」
「住民が逃げるまで待て」
「断る」
フレイムベルグの切っ先が、アルトへ向いた。
「お前たちの拘束命令も出ている。剣を捨てろ」
「それも断る」
「ならば、力ずくで従わせる」
アルトは無銘の剣を抜いた。
背後の町では、避難が続いている。グレンを倒せれば、それに越したことはない。しかし、今必要なのは勝利よりも時間だった。
一度でも町へ大きな炎を向けられれば、逃げ道ごと失われる。
「一つだけ聞く」
「何だ」
「本当に、住民が残ったまま焼くのか?」
グレンの目がわずかに動いた。
「命令だ」
「皇帝ではなく、あなたの答えを聞いている」
「帝国の民を守るために必要だと判断した」
「剣を振るうのは、あなた自身だ。町を焼いた後で、皇帝の命令だったと言えば済むわけじゃない」
「黙れ」
グレンが柄を握り直した。
「私の選択は、帝国を守ることだ!」
踏み込む足が地面を蹴り、炎の刃が迫った。
アルトは風をまとわせた剣で受け流し、赤い軌跡を人のいない地面へそらした。帝国兵たちが後退し、二人の周囲に空間ができる。
グレンの攻撃は、街道で打ち合ったときより激しかった。
皇帝の命令に従わなければならない焦りなのか、アルトへの怒りなのか。注がれる魔力が不規則に膨らみ、そのたびにフレイムベルグの炎も勢いを変えた。
「退け!」
「退かない」
「ここを守れば、ルミナス軍が進軍する!」
「だからといって、住民を焼くな!」
「敵を止めるためだ!」
「その敵ではない者まで巻き込んでいる!」
「必要な犠牲だ!」
振り抜かれた刃を、アルトは身を沈めてかわした。頭上を通った炎が髪の先を焦がしたが、構わず懐へ入り、剣の柄を胸当てへ叩き込む。
グレンがよろめいた。
さらに踏み込もうとした瞬間、左腕へ激痛が走った。焦げた包帯の下で傷が引きつり、指先から力が抜ける。
その一瞬を逃さず、グレンの拳が頬へ入った。
視界が揺れ、続けて柄を脇腹へ打ち込まれる。アルトは地面へ転がり、右手をついて起き上がった。
「まだ動くか」
グレンも息を切らしていた。
「昔から、しつこい方でな」
「英雄の余裕というわけか」
「余裕があるように見えるか?」
口の中へ血の味が広がっていた。
無銘の剣にも、新たな亀裂が増えている。これ以上、同じように打ち合ってはいられなかった。
アルトはフレイムベルグの核へ目を向けた。
大きな力を放った直後、核の輝きは弱まる。昨日も街道でも見た変化だった。今も攻撃の直後には、核を覆う炎の流れが薄くなるのが分かる。
最大出力を放たせれば、さらに大きな隙ができるかもしれない。
しかし、その炎を町へ向けさせるわけにはいかなかった。
「どうした。怖くなったか?」
「考えていた」
「何を?」
「その剣を壊す方法だ」
グレンの顔が歪んだ。
「フレイムベルグは帝国の希望だ!」
「町を焼くために使わせるわけにはいかない」
「お前に決める権利はない!」
アルトは剣を構え直した。
「俺が決めれば、それで正しいことになるとは思っていない。それでも、今は止める」
グレンが再び斬りかかってきた。
アルトは刃をそらしながら、町を背にした位置から少しずつ横へ移った。相手を回り込むように足を運び、やがて城壁が視界の端へ移る。
そこから後退すれば、戦う場所を町から引き離せる。
「逃げるな!」
グレンが追ってきた。
「なら、打ち返してみろ!」
アルトは答えず、攻撃を流すことへ集中した。
背後に広がるのは、すでに焼けた草地だった。帝国兵たちも二人を追って移動したが、フレイムベルグの炎を警戒し、近づいてはこない。
「アルト!」
フィオナの声が風に運ばれてきた。
「何をするつもり?」
「最大出力の直後なら、核へ届くかもしれない!」
「壊す前に、蓄えられた力を逃がす必要があるわ!」
「分かってる。町から離して、上へ逃がす!」
グレンが足を止めた。
その視線がアルトの背後を確かめ、次いで町へ向く。
「私を、ここまで誘い出したつもりか」
アルトは剣を握り直した。
グレンは追ってこなかった。代わりに身体の向きを変え、フレイムベルグの切っ先をノーゼンへ向ける。
「お前を倒す必要はない」
「グレン」
「町を使えなくすれば、敵は進軍を止める」
周囲の空気が、一気に乾いた。
刀身へ力が集まり、赤い光が白に近づいていく。離れた場所の草まで熱で煙を上げ、核を巡る炎が幾重にも重なった。
「全員、射線から退避しろ!」
副官の号令で、帝国兵たちが左右へ分かれた。
アルトは走った。
しかし、盾兵たちが横から回り込み、行く手を塞いだ。
「将軍を守れ!」
アルトは盾の縁へ剣を当て、風で上へ跳ね上げた。開いた隙間へ入り、突き出された槍を払って進む。
一人を越えれば、その後ろに次の兵士がいた。
グレンまで届かない。
「フィオナ!」
「力を送るわ!」
左手首の契約印が輝き、全身へ精霊力が流れ込んだ。それでも、町へ向けられた炎の膨張は止まらない。
「グレン、やめて!」
風に乗って、リナの声が届いた。
グレンの顔が、わずかに町へ向いた。
北門の内側では、負傷者を乗せた荷車が運ばれている。城壁の階段を駆け下りる兵士や、その下で子どもを抱いて走る人影も見えた。
あの男にも見えているはずだった。
剣先がかすかに揺れ、刀身へ集まる炎の形が乱れた。
「将軍! ルミナス軍の先遣隊が、東方から接近しています!」
副官の声が響いた。
グレンが両足を踏みしめた。
「ここで止める」
低い声が聞こえた。
アルトは最後の盾を押しのけた。
「やめろ!」
グレンが剣を振り下ろした。
巨大な炎の斬撃が、ノーゼンへ向かって放たれた。




