憧れた勇者へ向ける刃
斥候から報告が入ったのは、前線司令部を発ってからのことだった。
「将軍、発見しました。フェルナ北部へ向かう街道を、例の三人が進んでいます」
グレンは手綱を引き、馬を止めた。
「護衛はいるか?」
「見当たりません。ルミナス軍との接触についても、今のところ確認されておりません」
連れてきたのは、精鋭から選んだ三十人だった。
大部隊で包囲すれば、周辺の村や食料の集積所まで戦いに巻き込む恐れがある。それに、あの青年が本物であるなら、兵をいたずらに増やしても犠牲が増えるだけだろう。
「前方の街道を封鎖する。ただし、私が命じるまで攻撃するな」
「抵抗した場合も、でしょうか」
副官が確認した。
「拘束の命令は出ているが、戦闘を始めろとは言っていない。私の指示を待て」
「承知しました」
帝国兵たちが街道へ展開した。
左右には焼け残った麦畑が広がり、少し離れた場所には、接収した食料を保管する石造りの倉庫がある。その前から、配給を受けた村人たちが荷車を引いて北へ向かっていた。
グレンは兵へ合図し、村人たちを先に通した。
荷車の後ろから、幼い少年がこちらを見ていた。その手には、小さな干しパンが握られている。
少年がパンを両手で大切そうに持っているのを見て、グレンの胸へわずかな安堵が広がった。食料が村へ届けば、少なくともあの子が今夜、空腹のまま眠ることはない。
その事実が、自分の選択を支えてくれるように思えた。
村人たちが通り過ぎて間もなく、街道の向こうに三つの人影が現れた。
黒髪の青年の隣を、銀白色の髪をした少女が歩き、その少し後ろに赤茶色の髪の少女が続いている。青年の左腕には包帯が巻かれていたが、帝国兵の隊列へ気づいても逃げようとはしなかった。
「また会ったな」
グレンは馬から降りた。
アルトも数歩手前で足を止め、こちらを見た。
「探していた」
「私をか?」
「ああ。フレイムベルグを返してもらっていないからな」
周囲の兵士たちがざわめいた。グレンは彼らを一瞥して黙らせると、剣の柄へ手を置いた。
「前にも言ったはずだ。この剣は帝国のものだ」
「百年前に封印したときは、どの国のものでもなかった」
「百年前の話だ。今は違う」
「だから、その今の使い方を見て、返してほしいと言っている」
グレンは北へ遠ざかっていく荷車を示した。
「我々は、この剣で帝国の民を救っている。あの食料がなければ、山の村では子どもたちが死ぬ」
「あれは、フェルナから奪った食糧よ」
後ろにいた少女が、抑えきれない怒りをにじませて口を開いた。
「そうだ。帝国が勝ち、手に入れた」
「そのために、私の国を焼いた」
「戦争とは、そういうものだ」
少女の指が腰の短剣へ触れた。
アルトがわずかに腕を上げ、彼女の前へ一歩出る。少女は唇を噛んだが、それ以上近づいてはこなかった。
「フェルナの民が飢えても、帝国の民が助かればいいのか?」
「まず自国の民を守る。それが国の役目だ」
「そのためなら、他国の人間を殺しても?」
「あなたも殺したはずだ」
自分の声が低くなったことに、グレンは気づいた。
「百年前、魔王軍の砦を落とし、軍を打ち破り、最後には魔王を殺した。圧倒的な力で敵を倒し、人間を救ったのではないのか」
「……ああ」
アルトは否定しなかった。
その短い返事が、グレンの中にあったためらいを押し退けた。
「ならば、私と何が違う?」
返事はすぐには返ってこなかった。
グレンは青年の顔を見据えた。答えられないのなら、自分の問いは間違っていない。
勇者も戦った。敵を倒すことで、守るべき者を救った。
自分がしようとしていることも、その延長にあるはずだった。
「あなたが魔王軍を倒したように、私は敵国を倒す。帝国の下に三国を統一すれば、国境を挟んで争い続ける必要はなくなる」
グレンはフレイムベルグを抜いた。
赤い刀身へ魔力が流れ、刃に沿って細い炎が立ち上がる。
「土地を得れば、食料も得られる。いつ終わるとも知れない戦争を続けるより、一度の勝利で終わらせた方が、救われる者は多い」
「その勝利までに、どれだけの人が死ぬの?」
銀白色の髪の少女が静かに尋ねた。
「戦わずに飢える者もいる」
「だから、自分が勇者の後継者として戦うというのね」
グレンの目が彼女へ向いた。
少女は動じず、フレイムベルグの核へ視線を注いでいた。
「私は、この剣に選ばれた」
「皇帝に、そう言われたのではなくて?」
胸の奥へ、不意に冷たいものが触れた。
「剣は私の手に残った。他の者が耐えられなかった力を、私は引き受けた」
「手にできたことと、正しく使えることは別よ」
「少なくとも、力を持つ責任は果たしている」
「町を焼いて、制御できない炎を残すことが?」
グレンの手へ力が入った。
フェルナの砦を落とした炎は、町まで広がった。先日の戦場では、自分の部下の外套にも燃え移った。
それを思い出したくなかった。目の前の少女に言われなくても、その光景は消えていなかった。
「フレイムベルグがなければ、砦を落とすために帝国兵がさらに多く死んでいた」
「それで、町にいた人たちを焼いてよかったことにはならないわ」
「犠牲を出さずに勝てる戦争などない」
言い返す声に熱がこもり、握る柄へ無意識に魔力が流れ込んだ。細かった炎が刀身の上で膨らむ。
アルトは無銘の剣へ手を置いたが、まだ抜こうとはしなかった。
「帝国の民を救いたいという気持ちは、否定しない」
「ならば、この剣を渡せとは言わないはずだ」
「だが、今のままフレイムベルグを使い続ければ、守ろうとしている相手まで巻き込む」
「何を根拠に言う?」
「俺は、その剣を使っていた。周囲の精霊力を取り込み、注がれた魔力を増幅する性質も知っている」
「力を得るために必要な機能だ」
「だからこそ、制御を誤れば被害が広がる。怒りで魔力の流れが乱れれば、核はその乱れまで増幅するんだ」
「私が感情に任せて剣を振るっていると?」
「先日の炎は、あんたが狙ったところだけを焼いたのか?」
言葉を返すより先に、グレンの腕が動いた。
街道脇の焼け残った麦へ向けて剣を振ると、刀身から走った炎が乾いた茎を一瞬で包んだ。狙った一角だけを焼くつもりだったが、炎は想定した範囲を越えて横へ広がり、熱風が隊列の端まで押し寄せた。
帝国兵たちが身構え、フェルナ人の少女が肩から弓を外した。銀白色の少女の周囲では、土埃が風に持ち上げられる。
アルトだけは、剣を抜かなかった。
「今の炎は、誰へ向けた?」
「警告だ」
「俺たちへの警告なら、後ろの兵士を巻き込む必要はなかったはずだ」
グレンは振り返った。
熱風を浴びた兵士たちが顔をかばい、一人の外套の端からは細い煙が上がっていた。副官が駆け寄り、兵士を伏せさせて火を消している。
胸の奥で、何かが軋んだ。
また同じことが起きた。
敵へ力を示そうとしただけで、味方を危険にさらすつもりなどなかった。それなのに、炎は自分の意図した範囲を越えて広がっていた。
「今のは、加減を誤っただけだ」
「その誤りが、次には誰かを殺すかもしれない」
「黙れ」
自分でも驚くほど、険しい声が出た。
柄を握り直すと、乱れた呼吸に合わせるように魔力の流れが脈打ち、核の輝きも不規則になった。
それを見ているはずなのに、手を緩められなかった。
ここで認めてしまえば、これまで自分が下してきた命令まで崩れ落ちる気がした。部下を死地へ送り、他国の町を焼いてまで守ろうとしたものを、何と言えばいいのか分からなくなる。
「私が間違っているというなら、答えてみろ」
グレンはアルトへ剣先を向けた。
「魔王軍と、我々の敵国は何が違う?」
アルトは黙ってこちらを見ていた。
「魔王軍のすべてが、自分の意思で戦っていたわけではないだろう。命令に従った者も、戦う以外の道を持たなかった者もいたはずだ」
「ああ」
「それでも、お前は戦った」
「ああ」
「なら、私も同じだ。敵国の兵を倒し、帝国の民を救う。そのために戦うことの、何が違う!」
街道へ響いた自分の声を聞きながら、グレンは必死にアルトの返事を待っていた。
言い負かしたいだけではなかった。
幼い頃から憧れた勇者に、自分のしてきたことを否定されたくなかった。たとえ目の前の男が偽物であっても、その名を持つ者から間違いだと言われることが、ひどく耐え難かった。
アルトは一度目を伏せた後、静かに顔を上げた。
「魔王軍は、この世界を滅ぼそうとしていた。止めるために戦わなければ、多くの命が失われた」
「ならば、やはり力で倒すしかなかったのだろう」
「だが、それで俺のしたことがすべて正しくなるわけじゃない」
グレンは言葉を止めた。
「救えなかった者もいた。戦う以外の道を見つけられなかったことも、今でも後悔している」
「自分の戦いを否定するのか?」
「戦わなければ世界が滅びていた。それは事実だ。けれど、勝ったからといって、失われた命をなかったことにはできない」
アルトの声には、自分を正しく見せようとする強さがなかった。
そのことが、かえってグレンを苛立たせた。世界を救ったのなら、正しかったと言い切ればいい。その勝利に憧れて剣を取った者の前で、今さら迷いを口にしないでほしかった。
「後悔を語ったところで、奪った命が戻るわけではない 」
「戻らない。だから、忘れずに背負うしかない」
「言葉だけだ」
「ああ。言葉だけでは済まないから、俺はここにいる」
アルトは、グレンから目を逸らさなかった。
「俺の戦いを理由に、今の侵略を正しいことにするな」
「自分だけは特別だったと言うつもりか?」
「違う。俺が間違えたことがあるなら、それを理由に、あんたまで同じことをしていいとは思えない」
グレンはフレイムベルグの柄を握り締めた。
納得できなかった。
自分の過ちを認めるような言葉を口にしながら、こちらの進む道だけは止めようとする。その態度を受け入れれば、何のために力を求めてきたのか分からなくなる。
「ならば、私を止めてみろ」
「その前に、もう一度だけ言う」
アルトが無銘の剣を抜いた。
装飾のない鈍い刃は、フレイムベルグとは比べものにならないほど粗末だった。それでも青年が構えを取ると、街道を流れていた風がわずかに刃の周囲へ集まっていった。
「フレイムベルグを返してくれ」
「断る」
「なら、力ずくで奪うことになる」
「ようやく勇者らしくなったな」
「勇者だからじゃない。百年前に、その剣を残した者として止める」
グレンも剣を構えた。
刀身を覆う炎を見て、副官が背後で声を上げた。
「全員、戦闘配置!」
「動くな!」
グレンは振り返らずに命じた。
「しかし、将軍――」
「私が相手をする。お前たちは周囲の警戒を続けろ」
兵士たちはためらいながらも足を止めた。
アルトの後ろでは、フェルナ人の少女が弓へ矢をつがえていた。切っ先はまっすぐグレンへ向けられ、弓を引く手がかすかに震えている。
それでも少女は飛び出してこなかった。憎しみを隠そうともせずにこちらを睨みながら、青年の背後へ踏みとどまっている。
その目を見て、グレンは不意に、妹を埋めた日のことを思い出した。
失ったものを取り戻せず、何かを憎まなければ立っていられなかった幼い自分。その姿が、目の前の少女と重なった。
今、彼女が憎んでいるのは自分だった。
分かっていても、剣を下ろすことはできなかった。
ここで敗れれば、帝国はフレイムベルグを失う。前線を支える力が弱まれば、手に入れた土地も食料も守れなくなるかもしれない。北へ向かった荷車が途絶え、再び山村で子どもが死ぬ。
その可能性を思うだけで、握る手が固くなった。
「私は、この剣で帝国を救う」
グレンは、自分自身へ誓い直すように言った。
「そのために他国から奪わなければならないとしても、民を見捨てることはできん」
「奪われる側も、同じように家族を生かそうとしている」
アルトの視線が、わずかに背後の少女へ動いた。
「それでも、続けるのか?」
グレンも少女を見た。
今さら答えを変えたところで、少女から奪ったものを取り戻せるわけではない。そう考えた瞬間、取り返しがつかないことと、これ以上奪い続けてよいかどうかは別なのだと、胸のどこかでは分かっていた。
それでも、ほかに道を示すことができなかった。
「……帝国の民が生きるなら、私は続ける」
言い終えると同時に、フレイムベルグへ魔力を注いだ。
赤い炎が刀身から噴き上がり、周囲の空気を震わせた。アルトの無銘の剣には薄い風がまとわりつき、二人の間で乾いた土が舞い上がる。
グレンは、自分こそが勇者の意志を正しく継ぐ者なのだと証明するため、かつて憧れた男へ向かって踏み込んだ。そうでなければ、これまで奪ってきたものの重さに、耐えられなくなりそうだった。




