第3話 スローライフ、できない。
私の一日は焙煎から始まる。
カウンターの後ろにある焙煎済みの豆の残量とロースト日を確認し、今日焙煎する豆の種類と量を決める。ローストから三週間経ったブラジルの容器を開けると、中は八割がた残っていた。この豆が私の手に届くまでに関わった様々な人々の努力.........そして毎月垂れ流され続ける赤字の額が脳裏をよぎり、胸が痛くなる。.........捨てるのも忍びないし、グラインダーの調整用に回そう。私はラベルを書きかえると、小さくため息をついた。
今日はブラジルを新しくシティ・ローストで1㎏、あとはカツラギの為のゲイシャが減ってきたから、ミディアムで500g用意しておけばいいだろう。
生豆棚に並んだステンレス製の保管箱からトレイに豆を移し、ハンドピックで石や欠点豆を取り除いてから、カウンターの奥にある扉を開け、小さな焙煎室へと向かう。焦げた薄皮と前回焙煎したコロンビアのチェリーのようなかすかな残り香の混じった、独特なにおいが鼻をくすぐった。
小型の焙煎機の電気を入れると、モーターが低いうなりを上げながら回転を始め、空のドラムが回り始める。ドラムの下のバーナーを付け、予熱を始める。
私はいつも通りに店の掃除を始めようとして、苦笑いしながら思い直した。.........今日からは、あの騒々しい従業員がいるのだった。
「どれどれ.........?」
焙煎室には、通行人から見えるように大窓が取り付けてあった。コーヒーの油で少し曇ったそこから精一杯背伸びして入口の方を覗き、カプルスの仕事ぶりを観察する。彼女はうちの制服である濃い緑のエプロンを着け、ほうきとブリキのちりとりを手にし、真剣な表情で店の前を掃除していた。言いつけ通り、通行人には朗らかな笑顔で挨拶をしている。
「よしよし、真面目にやっとるようじゃの......」
外が終わったら、店内もやらせよう。私は焙煎機のそばに置いたスツールに腰かけ、のんびりとドラムの音に耳を傾けた。時代遅れの骨董品ではあるが、長年苦楽を共にしてきた頼もしい相棒だ。私は目を閉じ、今までのことに思いをはせる。
いつもは慌ただしい開店前の時間に、こんな穏やかな時間を取れるのなら.........天井に穴を開けたあの暴走列車のような天使との出会いも、そう悪いものではなかったのかも知れな
『きゃーーっ!!』
パッコーーーーーン!!ベギギィッ!!
「なっ、なんじゃあっ!?」
外から凄まじい音がして、私は思わず飛び上がった。慌てて飛び出ると、へし折れたほうきを手にしたカプルスが、気まずそうな顔で私を見た。
「ラクちゃん、ごめ~ん.........」
嫌な予感がして足元を見ると、歩道の石畳の一つが真っ二つに割れていた。そこには憐れな一匹の地虫が、シミになってへばりついている。
「き、急にカサカサって出できたから!びっくりしちゃったんだよ~~!」
私は深いため息をつくと、倉庫まで行って代わりのほうきを取りだしてカプルスに渡し、役所へ公道を破損してしまったことを連絡するために電話を取った。
・・・・・・
「では、カツラギにこのカップを渡すのじゃ。『お待たせしました、ゲイシャです』と添えるのを忘れずにな」
「はーい!」
笑顔でソーサーを手にしたカプルスは、カツラギのテーブルに勢いよくそれを置いた。カツラギは驚いて肩をびくりと跳ねさせ、カップの中のコーヒーが揺れてソーサーにこぼれる。.........彼女は、恐ろしいほどに不器用だった。
「お待たせしました!ゲイシャです!」
「くぉらーっ!もっと丁寧に扱わんかっ!!」
「ご、ごめんなさ~い.........」
「ははは、初々しくていいじゃないですか」
「......すまん、カツラギ。淹れ直すか?」
構いませんよ、と微笑んだ彼は、ゲイシャを一口すすると、小さく頷いた。
「うん。今日はカプルスさんが運んでくれたから、一段と美味しく感じますね」
彼の見え透いたお世辞にも、カプルスは目を輝かせて喜ぶ。
「本当!?えへへっ、よかった~!」
「ええ、本当ですとも」
これがカツラギだったからよかったが.....他の客であればトラブルになっていてもおかしくないところだった。彼女を使えるようにするには、まだまだ時間がかかりそうだ......。.
・・・・・・
終業後、グラインダーの中に付いた粉をブラシで清掃していると、おずおずとカプルスが近づいてくる。
「あの~、ラクちゃん」
「どうした?また何か壊したか?」
「ち、違うよっ。頼まれてた店内とトイレの掃除は終わったし、カップもちゃんと中身をこぼさないで置けるようになったよ!......だから、その......」
「なんじゃ、珍しく歯切れが悪いのう」
「もし、もう今日のお手伝いが終わりなら.........お小遣い、欲しいなーって」
「断る」
彼女は目を丸くして驚き、両手をぶんぶんと上下させて抗議してきた。
「なんで!?どーして!?」
「うちは月末締め、翌月10日払いじゃ」
と言っても、もう何十年も従業員など雇っていないが。
「お願いだよ~。最初は1000円あればいいって書いてあったから、それだけでも~」
「何故お主の都合のために、私が決まりを変えねばならん?」
「ううっ......そ、そんなぁ.........。じゃあ、お小遣い貰えるのはいつなの?」
「来週の10日じゃから.........あと三週間くらいかの」
「そんなに待てないよ!ユウキ君に会えないのが寂しすぎて死んじゃう!」
「安心せい、お主はそんなことで死ぬようなタマじゃないわい」
「.........うーん、わかった!じゃあわたし、このお店にたっくさんお客さんを呼ぶよ!そうしたら、もっと早くお小遣いくれる?」
「.........無駄じゃ、無駄じゃ。私も新聞にチラシを挟んでもらったり、利きコーヒーのイベントを開いたりしてみたがの、全然ダメじゃ。もううちみたいな純喫茶は時代遅れなんじゃよ.........」
恐らく私の代で、この店はたたむことになるだろう。誰のせいでもない......時代の流れだ。
「そんなことないよ!ここ、すっごく素敵なところだもん!一度来てくれれば、みんな気に入ってくれるはず!だから私が......うーんと、100人くらいお客さんを呼んできてあげる!」
「ほう......?言うではないか。では今週中に100人客を集められたら、給料は週末払いにしてやる」
「ホント!?約束だからね、ラクちゃん!」
「ああ。魔人は決して約束を違えん」
出来るわけがない......そう私はたかをくくっていた。
「やったーっ!!......待っててね、ユウキ君。わたし、もうすぐ会いに行くから……!」
この堕天使がホストにかける情熱を、完全に見くびっていたのだ。
・・・・・・
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