第15話 借りた金で信号機を買う天使
始まりは、小さな綻びだった。
「......いや、カフェラテはいいって。アイスコーヒー一つって言ってんじゃん」
苛立ったような男の声に、シンクの前に立っていた私は顔を上げる。
「そ、そーですか......でもでも、目の前で私がエスプレッソを抽出するサービス付きなんですよ!」
男はスマホの画面から目を離さないまま、興味ない、俺はコーヒーを飲みに来てんの、と言う。カプルスはがっくりと肩を落とし、かしこまりました、と言って私のところまで来ると、アイスコーヒー一つです、と注文を伝えてきた。
カップを洗う手を止め、手についた泡をすすぎ、タオルで拭く。製氷機からサーバーに氷を詰めながら、彼女に尋ねる。
「どうした、カプルス?パフォーマンスがしたくてうずうずしとるのか?」
「うん。もっとお小遣い欲しいんだ」
ハンドドリッパーにペーパーフィルタを乗せ、ドリップポットに入れた湯を回しかけながら聞く。
「なにか買いたいもんでもあるのか?」
「うん、信号機」
グラインダーでグアテマラを挽いていた私は、粉を受け止めるセラミックのドージングカップを持ったまま、彼女の方を向いた。
「......交通整理でも始めるつもりか?」
「あ、道路にあるやつじゃないよ!シャンパンの三本セットのことをそう言うんだって!」
「シャンパンじゃと......?カプルス、.ホスト遊び三箇条を復唱してみい」
「飲みすぎない、延長は一回まで、ボトルとシャンパンは頼まない!......あ」
「守れないならスターダストへは行くな」
「えー!?ラクちゃんのケチ!」
軽くグラインダーを叩いて中に残った粉を落とした後、私はサーバーの上に置いたドリッパーにカップの中身を移しながら言う。
「ああそうだとも。私はケチでつまらん女だよ。……じゃが、これはお主のためを思って言っとるんじゃ。身の丈に合わない遊び方なんてするもんじゃねーぞ」
ユウキ君にもっとわたしを好きになって欲しいんだもん、と、不満げに頬を緩ませたカプルスが呟く。
ポットの湯を中心から回しかけると、豆が膨らみ、ミルクチョコレートとオレンジの混じったような、グアテマラの豊かな香りが立ち昇ってくる。
「なら、金より時間をつぎ込め。いつか言ったかもしれんが......手間をかけずに得られる愛は本物じゃない。一夜誰かと楽しむだけならそれでもいいじゃろうが......お主が欲しいのはそれじゃねえだろ」
珍しく真面目な顔で私の話を聞いていたカプルスは、今まで通りでいいってこと、と、少し不安げに聞いてくる。
「そうじゃ。......焦るな、カプルス。少しずつ信頼を積み重ねていきゃあいいんじゃ」
「......うん。ありがとう、ラクちゃん」
抽出を続ける私を、カプルスは微笑みながら見つめている。それは穏やかで、愛おしいひと時だった。
・・・・・・
月曜の昼下がり、やることの無くなった私は、カウンターに頬杖をついて、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
ふと、プリンでも作ってみるかと思い立ち、材料を買い出しに行くことにする。......一人で店を回すようになってから、長いことコーヒーとトーストだけでやってきたが......カプルスがいてくれるなら、少しメニューを増やしてみてもいいだろう。試作を繰り返して、ナポリタンはだいぶ形になってきた。それを第一弾として、第二弾はプリンにしよう。喫茶店の甘味と言えば、やはりプリンが王道だ......。
「カプルス、買い出しにゆくぞ。プリンを作ってやる」
そう言った私は、彼女がいないことを思い出し、一人で照れて頬をかく。......最近彼女は月曜になると、朝一でどこかに出かけ、夜遅くに帰ってくる。晩飯までに帰れと言っても馬耳東風で、どこへ行っていたのかと尋ねても、変なところじゃないから安心して、としか答えない。かなり気がかりではあるが......週に一度の休日だ、カプルスも羽根を伸ばしたいだろう。彼女を信じて、あまり干渉はしないでおこうと思っている。
「ぬっふっふ......プリンを食いそびれたと知ったら、悔しがるじゃろうなぁ、カプルス。
ま、一つくらいは残しておいてやるか......味の感想も聞きたいしの」
唐突に、店の電話が鳴った。高い声の男が、媚びたような口調で話しかけてきた。
「ニコちゃんローンのサイトウですぅ。この度はご利用いただきぃ、ありがとうございます」
「かけ違えてるぞ。じゃあな」
「ま、待ってくださいよぉ。そんなはずないですよぉ。そちら、カプルスさんのお宅ですよねぇ?」
「なに......?」
「やっぱり、合ってましたねぇ。今度とも末永いお付き合いを」「いくらだ?」
「はいぃ?」
「あの馬鹿は、いくら借りたのかと聞いとるんじゃ!」
「さ、三十万円ですぅ」
「よし。お前んとこの住所を教えろ。今すぐ一括で返しに行ってやる」
「あの......この度はお得な長期ローンのキャンペーン情報をお知らせにお電話させていただいておりましてぇ......」
私は深呼吸をして、怒りを鎮めてから言った。
「お主、コボルトじゃろ。そういう声をしてる」
え、と、戸惑ったような声を上げた彼に向かって、私は続ける。
「私は魔人だ。今からお前らのところへ行く。私が犬コロの断末魔を聞きてえ気分になる前に、言われた通り住所を教えろ」
お、怒らないでくださいよぅ、と怯えたように言って、彼は住所を読み上げた。......繁華街の外れだ。カプルスは、スターダストに通う途中で見つけたのだろうか。
私が叩きつけるようにして受話器を置くと、表面のプラスチックにひびが入った。舌打ちを一つして、ふつふつと湧き上がる怒りを奥歯を噛みしめてこらえながら、私は外へ出た。




