第10話 50年越しの青春
「行ってきま~っす!」
カウンターに突っ伏してくたばっている私とカツラギを尻目に、カプルスは元気いっぱいに外へ出ると、愛する男のもとへ飛び立っていく。八時間ぶっ続けで接客をこなし、何十杯もエスプレッソの抽出をした後とはとても思えない......まさに、底なしの体力だ。
彼女とユウキはなかなかうまくやっているらしい。ユウキが理容師を目指して新潟から上京してきたこと、専門学校の学費をまかなうためにホストをしていること、かわいい妹がいること、ジムに通っていること、犬が好きなこと、そばアレルギーなこと……聞いてもいないのに話してくるせいで、会ったこともない男のプロフィールについてやたら詳しくなってしまった。なんでも来週の月曜日には同伴の約束まで取り付けたらしい。
率直に言って、ホストとの恋愛が成就する可能性など、瓢箪から駒が出ることと同じだと思っていたが......あるいはあの天使ならば、不可能を可能にしてしまえるのかもしれない。
まあ私にできることと言えば……彼女の軍資金を少し増やしてやるくらいのことしかない。カツラギの提案に乗って、私はカプルスがエスプレッソの抽出をするたび、100円を支払うことにした。いんせんてぃぶ……とかいうらしい。彼もたまにはいいことを言うものだ。
「カツラギ……もう帰れ。後は私がやっておく」
シンクに積み上がった皿を洗い始めた彼は、横顔に色濃い疲労を見せながら、小さく首を振って微笑む。
「大丈夫ですよ。原稿の締め切りには、まだ余裕がありますので」
彼が何を考えているのか……私はたまに分からなくなる。平穏に執筆できる環境を奪われ、一日中学生バイトのように働かされているというのに……彼は不平一つ言わない。それどころかカプルスがこの店を訪れてからずっと……この男はとても愉快そうにしている。
「カツラギ、お主の目的はなんなんじゃ……?」
皿洗いの手を止めずに横目でこちらを一瞥すると、彼は静かに言う。
「愛するものを、より輝かせたいと願うのは……男として当然のことです」
「そんなにこの店が好きなんか?」
それは少し正確ではありませんね、と笑って、彼はスポンジに洗剤を足す。
「僕はあなたのいるこの店が好きなのです」
私は少なからず動揺し、鼓動の高鳴りを感じながら、わざと茶化すように言う。
「なんじゃ、口説いとるのかじじい?」
「はい。……いいえ」
「ど、どっちかはっきりせい......」
コーヒーカップを泡だらけにしながら、穏やかに彼は言う。
「僕があと50歳若ければ……いえ、あと500年生きられたなら……といったところです。
ラクリモーサさん、僕はあなたと同じ時間を歩めない。あなたの人生が映画なら、私はほんのワンシーンだけのエキストラだ」
ソーサーとカップを几帳面に分けて積み上げながら、彼は私を見ないまま、歌うように言った。
「けれどね、マスター。今僕は、あなたの人生が永遠に変わってしまうかもしれない瞬間に立ち会えている。これは僥倖というほかにありません」
カプルスのことか、と私が呟くと、彼は蛇口を開けながら頷いた。
「あの愛らしくパワフルな天使はあなたを変えている。それも......いい方向へ。二人の関係の、ささやかな支えとなれるのであれば......僕は喜んで、一日中皿を洗いましょう」
手際よく食器を水切りラックに立てかけていく彼を見つめながら、私は彼がこの店でバイトしていた時のことを思い出した。
「若い頃のお主はイケメンじゃったのー。随分女性客にモテとったじゃねーか」
「ははは、今となってはもう、昔の話です」
「なーんで浮いた話の一つもねーのか不思議に思っとったが......今になってようやっと理由がわかったわい」
あっという間に洗い物を片付けてしまった彼は、蛇口を閉め、タオルで手を拭くと、少しだけ恨みがましそうに言った。
「あと50年ほど早く、気付いて欲しかったものですね」
「あほう、ハッキリ言わんお主が悪いんじゃ。私の好みは知ってるじゃろ」
彼はハッとしたように私を見ると、苦笑いした。
「ストレート、ですね」
そう......恋もコーヒーも、私は単純明快なのが好きなのだ。
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