エピソード2 幽霊は殺人事件の犯人を知っている 第22話
第22話です。
「おかあさん、おなかすいた」
幼い久留和吾郎は化粧中の母に訴えたが、鏡の中の母――奈々は嫌そうに顔を歪め、久留和を無視した。
そして化粧を済ませるとさっさと家を出て行ってしまった。
仕事へと行ったのだ。
そうなると明日の朝まで母は帰ってこない。
一人残された寂しさから久留和は涙が出そうになった。
だが泣いても余計に腹が減る。
だから部屋の隅にある小さな箱へと向かった。
久留和が箱の中から引き出したのは柔らかいティッシュペーパーだった。
手で引っ張ると簡単に千切れて、それを口に含むと優しい味がした。
何度も噛んでいるとやがて味が出てくる。
ほんの少しの甘さ。
それが当時の久留和にとってのご馳走だった。
ティッシュペーパーである程度腹が落ち着くと今度こそ寂しさから涙が出た。
静かな部屋に久留和の涙が落ちた。
――久留和が五歳の頃までは祖母も生きていて世話を手伝ってくれた。
その頃の奈々は落ち着いていて久留和を抱きしめたりして可愛がってくれていた。しかし、祖母の死後は女手一つで久留和を育てなければならず、奈々の負担は大きくなり、やがてネグレクト気味になっていった。
近所では有名で見かねた年配者がよく久留和にご飯を上げていた。
だが、
「また近所の人からご飯をもらってきて! 恥ずかしい!! そんなことをしてるとうちを追い出すよっ!!」
奈々はそれを良く思ってなく、久留和が近所から施しを受ける度に言葉の暴力で久留和を詰った。
小学生に上がるとますます奈々の精神状態は不安定になり、ついに久留和は施設に入ることになった。
施設での生活は自宅での生活より快適ではあったが、学校での生活は比例して劣悪になった。
「――知ってる? ゴローくん、『施設の子』になっちゃったんだって」
「――そうなの? なんで?」
「――ゴローくんのお母さん、頭がおかしいんだって。だから吾郎くんを育てられなくなったって、うちのママが言ってたよ」
「――えー、そうなのー?」
『施設の子』という迷惑な二つ名を周囲から付けられ、陰で噂を立てられた。
その噂は久留和自身に向けられることもあるが母親に向けられることもあった。
「ゴロウ、お前の母ちゃん、お金持ちの人とばっかりエッチするんだってな? うちの祖母ちゃんが『アバズレだ』って言ってたぞ」
同級生の男友達から直接母を侮辱され、少年期の吾郎は腹が立った。
虐待されても幼児期に与えられた母親の愛情を忘れたわけではなかったからだ。
だから侮辱してきた同級生らに歯向かっていったのだが、栄養失調気味で体が小さかった吾郎は何度も返り討ちにあった。
やがて久留和は問題児のレッテルを張られ、小学校時代、学校では遠巻きにされ孤独だった。
「――お前さえ生まれてこなければ、私は今頃、もっといい生活をしていたのにっ!」
それが奈々の口癖だった。
その度に胸に傷が生まれたが、精神的に疲弊しきっていた久留和は母親に反抗ができなかった。
食事を与えられなくても、理不尽に怒られ、睡眠を邪魔されても、それでも久留和は母親を慕った。
だが、傷つかないわけではない。
理性では仕方がないと諦めつつも、本音ではこの生活から逃げ出したいと心の中で嘆き続けていたのだ。
*
「――ようやく母親が死ぬってときに、死に際の母親が言ったんだ。『お前の父親は長澤慎吾だ』って」
久留和は吐き捨てるように言う。
そして憎しみの炎を宿した目で長澤を睨んだ。
「俺がどんな思いで日々を過ごしてたか、アンタには分からないだろうなァ!? 母親から疎まれ、憎まれ、時には首を絞められた日々!! 仕方がないと自分に言い聞かせていたが、あの日々は地獄だった!!」
「だから長澤に近付いたのか? 殺すために」
白石からの問い掛けを久留和は否定した。
「いや、最初はそうじゃなかった……当時の俺は母親より父親の方がまだマシだろうと思っていた。だから就職するとき、顔を見たさに長澤の会社を選んだんだ。俺はそこで順調に出世していき、偶然にも長澤の目に留まり早めに秘書として引き抜かれた。だが、そこで長澤の姿を目にして自分の甘い考えを改めた。やっぱり長澤はクズだった。若い女と見れば手当たり次第に手を出し、その尻ぬぐいをこちらに押し付ける。ヤリ捨てられた女たちの声は今でも耳にこびりついてる」
そう言う久留和の声は震えていた。
「女たちが母親に見えた……また、母親が生まれると思うと、俺は、長澤を止めないといけないと思った……長澤を生かしていたら、俺が増えてしまう、と」
「……そんなことを思っていたのか……」
久留和の告白に長澤は困惑したようにしていた。
長澤にとってはただの日常だったに違いない。
だから、久留和の犯行動機は想像もしていなかったことだっただろう。
「――どうやって殺した?」
白石が尋ねる。
久留和は「普通に刺した」と長澤の殺害を認めた。
「長澤の家のキッチンから包丁を盗み、それを使ってアイツを殺した」
「だが、死亡時刻とお前のアリバイが合わない。長澤のスマートウォッチだと夜中の〇時過ぎまで生きていた形跡がある。だが、お前はその頃、自宅にいるのが確認されている」
「それは長澤瑠梨に協力させたんだ」
「なに?」
「長澤の時計を瑠梨につけさせて、〇時過ぎに部屋に戻すよう指示をしておいたんだよ。だから、死亡時刻とズレが生じた」
「共犯ということか?」
「いいや……脅して無理やり言うことを聞かせたんだ。俺の言う通りにしないとお前を殺す、とな」
白石の質問に久留和は苦笑する。
それから佐渡に向かって声を掛けた。
「ゴーストライター、長澤慎吾はどんな顔をしてる? 俺に教えてくれよ」
「……驚いてる、顔をしてます」
「そうか……そうか……ふふふっ、はははははっ!」
久留和は長澤へ歪んだ笑みを向けた。
「長澤、もう一個驚くことを教えてやるっ! 瑠梨の子は俺の子だ! ざまぁないな、アンタは腹心だと思っていた俺にも、従順だと思っていた妻にも裏切られたんだよっ!」
「っ……!」
「俺はアンタのことをずっと恨み続けてきた! そのまま地獄へ落ちちまえっ!!」
久留和は息を切らしながらそう言い切って、それきり黙ってしまった。
長澤は久留和の告白を聞いて静かに目を閉じた。
そして、
「そんな風に、お前は思ってたんだなぁ……」
長澤はポツリと呟いた。
「……お前ほどの優秀な男……俺に固執しなくてもよかったものを……」
長澤が席を立った。
そして机をすり抜け久留和の正面に立った。
その長澤の姿は足先から光の粒子となってさらさらと崩れていく。
「馬鹿なことをしたな……」
長澤の手が久留和の頭に置かれてそして消えた。
久留和が気が付くはずはない。
だが、ふっと顔を上げ、長澤が消えた方を目で追ったのはどんな偶然だったのだろう。
そう思ったのは部屋の中で佐渡だけだった。




