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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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流通

1566年冬

 一月も終わろうとする冬の日、氏真は木下藤吉郎を堺の屋敷へと呼び出した。 紀伊の難解な地侍たちを鮮やかな手腕でまとめ上げたこの男に、氏真はさらなる飛躍の場を与えようとしていた。


「藤吉郎、そなたには今よりも愉快で壮大な仕事を与えることにした。備中守、次郎三郎と共に、下野へ行け。そして、その先の陸奥を望むのだ」


 氏真の言葉に、藤吉郎は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐにいつものような人懐っこい、しかし鋭い光を宿した笑みを浮かべた。


「あちらの国衆や大名らは、一筋縄ではいかぬ手強い連中ぞ。紀伊の者どもを瞬く間に手なずけたそなたをしても、あるいは苦戦するやもしれぬ。だがな、藤吉郎。私は知っている。そなたがそんな困難など、微塵もものともせぬ男だということをな」


 氏真は藤吉郎の前に歩み寄り、その細い肩に手を置いた。


「今川譜代の備中守、松平の若き当主・次郎三郎。そして、木下藤吉郎だ。この三人にはそれぞれの役割がある。そなたにしか分からぬ、民の心があるだろう。代々人の上に立つことしか知らぬ者には決して負けぬ、泥の中から這い上がってきた者の反骨心があるはずだ。藤吉郎、この乱世を生き残るには力だけでは足りぬ。知恵、そして人の心を操る術が必要だ。そなたはそれを誰よりも承知している。今川の者どもに、そして下野の連中に、木下藤吉郎という男の存在を骨の髄まで知らしめてやるのだ」


 藤吉郎の体が、微かに武者震いした。


「私は家柄や身分などという古臭いものにはこだわらぬ。そなたの出世を阻む壁など、この今川には存在せぬのだ。存分に暴れ、働いてこい。この下野・陸奥への道筋を切り拓いた先には、そなたの想像もつかぬ輝かしい未来が待っていよう」


「…殿。この猿、そのお言葉、肝に銘じましてございます。下野の連中も陸奥の雪も、この藤吉郎の知恵で黄金の野に変えてみせましょう!」


 藤吉郎は地面に額をこすりつけるようにして平伏した。その背中には、新たな時代を切り拓こうとする野心と、自分を見出した主君への絶対的な忠誠が渦巻いていた。



1567年春

 季節は巡り、春が訪れた。大和の地では、竹中半兵衛が筒井順慶と密に連携し、緻密に練り上げられた作戦が開始されていた。


 まずは外堀から埋める。半兵衛は、大和四家の中でも動向が不透明だった箸尾氏と越智氏への懐柔を並行して進めた。今川に付くことで得られる経済的利点と、逆らった際の破滅を、昌幸が得意の弁舌で説いて回る。


 同時に、順慶は興福寺内部の若手僧侶たちの足並みを揃え、腐敗した老僧たちを突き上げる準備を整えていた。正義はこちらにある。そう民衆に思わせるための演出は完璧だった。夏には本格的に軍を動かし、聖域と呼ばれた興福寺の膿をかき出すための正義の侵攻が始まろうとしていた。


 一方、藤吉郎たちが向かった下野からも、着々と報告が届き始めていた。現在の下野は、今川、蘆名、佐竹の三勢力が、国衆を自陣営に引き込もうと激しい外交戦を繰り広げている。


 もともと、下野の国衆は、生き残りの達人たちであった。宇都宮氏が常陸の佐竹と結べば、それと敵対する那須氏は会津の蘆名と結ぶ。上杉が来れば即座に頭を下げ、冬になって越後へ帰れば今度は北条になびく。大きな勢力の影に寄り添い、常に有利な条件を引き出すのが彼らの生存戦略だった。だが、氏真はそんな不確かな均衡を許すつもりはなかった。


「今後もその振る舞いが通用すると思われては困るのだ」


 氏真は書状を読みながら呟いた。北の蘆名や伊達は、すでに軍神・輝虎の不興を買って追い詰められている。東の佐竹は、北条との生存競争に必死だ。今川という巨大な日傘の下に入らねば未来はないと、下野の連中に叩き込む必要がある。


 だが、氏真はさらにその先、奥州の深部までを直轄支配しようとは考えていなかった。 下野までは、蘆名や佐竹の脅威を避ける受け皿として今川が機能するだろう。しかし、その北には広大な奥羽が広がり、蘆名、伊達の北には葛西、安東、南部といった大勢力が割拠している。遠く離れた今川が、それらすべてを武力で征服するのは非効率極まりない。


「日ノ本すべてを隅々まで支配下に置く必要はない。下野、あるいは陸奥の入口までを今川の勢力圏とし、彼らを保護してやる。そうすれば、蘆名はそれ以上南下できず、伊達は北へ押し込められる。そこで彼らの野心は打ち止めとなるだろう」


 大義名分だけで奥羽は動かぬ。今川が北の防波堤となることで、奥羽の諸大名が、今川と争うよりも、その秩序の中で生きる方が得だ。と思わせること。それが氏真の描く、血を流さぬ北の静謐であった。



 そしてもう一つ、今川の見えざる支配が着実に進行していた。 今川領内で発行されている紙幣、富士札である。駿河から始まったこの試みは、今や畿内の商人たちの間でも頻繁に見かけるようになっていた。


「富士札の発行、順調のようですな。民の受け入れも悪くありません」


 富士札造幣所の所長を務める富士信忠からの報告は心強いものだった。諜報班の側近をしていた経験もあり、各地に張り巡らされた経済の情報を慎重に読み解き、運用に関しては極めて緻密な計算のうえ確かな流通を成功させていた。


 富士札がこれほど受け入れられたのは、その利便性もさることながら、札に施された緻密な絵柄や、独特の手触りといった質の高さが、民に一種の信頼と親しみを与えたためだという。


「発行量を厳密に管理し、紙幣の信用を絶対に落としてはならぬ。左京亮、このまま慎重に進めてくれ」


 氏真の狙いは明確だった。いずれ、日ノ本の経済を富士札という紙の鎖で繋いでしまうこと。


「今川の札なくして、商いは成り立たぬ」


 その状況を作り上げれば、わざわざ兵を動かさずとも、今川は日ノ本の心臓部を握ることになる。春の柔らかな日差しの中、氏真は手元の富士札を見つめ、経済という新たな武器がもたらす未来の景色を静かに見つめていた。

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