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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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鐘の音

1567年夏

 夏の陽光が、興福寺の五重塔を鋭く照らし出していた。その静寂を破ったのは、寺の内側から湧き上がった怒号であった。


「俗世の垢にまみれ、仏法を汚す腐敗の徒に、これ以上この地を任せるわけにはいかぬ!」


 一乗院の若き門跡・尊金を旗頭に掲げ、順慶率いる若手僧侶の一団が、ついに決起したのである。彼らが手にしていたのは、数珠ではなく、槍と刀、そして長年積み重ねられた老僧たちの不正を記した膨大な告発状であった。


 それに応呼するように、寺の周囲を隙間なく包囲したのは、竹中半兵衛が率いる今川直轄軍である。


「興福寺の不正、腐敗を正す正義の軍である。民を欺き、私腹を肥やす愚の骨頂を、今こそ一掃せぬばならぬ!」


 今川軍の宣言は、大和の民衆の心に深く刺さった。もはや、そこに信仰への畏怖はない。あるのは、長年の収奪に対する怒りと、今川がもたらすであろう理への期待であった。


 大軍がなだれ込むと、寺内は一気に阿鼻叫喚の地獄と化した。尊金が厳かに老僧たちの破門を宣言し、その直後、武装した今川の兵たちが、震え上がる老僧たちを次々と引きずり出していく。


「放せ! 我らを誰と心得る! 天罰が下るぞ!」


「天罰を下しているのは、我らの方だ」


 兵たちは冷淡に答え、彼らを縄で縛り上げた。


 かつての延暦寺の際と同様、捕らえられた僧たちは飛騨の山奥へと幽閉されることとなった。まるで延暦寺が予行演習であったかのように、手続きは迅速かつ無駄なく進んでいく。だが、大和という地は、琵琶湖の畔の一つの山を抑えれば済む話ではなかった。この事態に、利権を共有していた大和の国衆たちが、ついに牙を剥いたのである。



「興福寺の権威を汚す今川を許すな!」


 箸尾氏と越智氏。今川への臣従を拒み続けていた両家は、連行される僧たちを奪還すべく、一本道に兵を展開して立ち塞がった。


 彼らにとって、これは大和の誇りをかけた戦いのはずであった。だが、そこに立ち塞がったのは、今川軍ではなかった。


「我が主君、中将様への道を塞ぐ無作法、この筒井藤次郎が許さぬ」


 先陣を切ったのは、筒井順慶率いる筒井の精鋭たちであった。大和最強の武を誇る彼らは、普段は険しい山中でのゲリラ戦を得意としていたが、この日は違った。順慶の指揮の下、彼らは一糸乱れぬ統率で、開けた野戦の場においても圧倒的な破壊力を見せつけたのである。


 本来、ゲリラ戦に慣れた箸尾・越智軍にとって、不慣れな野戦は自滅に等しかった。武力に勝る筒井の兵が突撃すると、両家の陣形は一刻も持たずに崩壊した。


「…こんなはずでは! 踏み止まれ!」


 叫びも虚しく、兵たちは蜘蛛の子を散らすように敗走した。


 そこからの順慶の動きは、恐ろしいほどに早かった。敗走する敵を追撃しながら、箸尾氏、越智氏の居城へと次々に火を放ち、棄却させていったのである。夕刻には、大和の空は立ち上る黒煙で覆われた。数日後には、有力な国衆であった両家は事実上消滅し、残る有力者は今川に恭順した筒井氏と十市氏のみとなった。


 興福寺の新たな別当には、親今川派の尊金が就任。 こうして、古き宗教権威と割拠する国衆の国であった大和は、わずか数日のうちに、今川の完璧な支配下へと組み込まれたのである。



 戦火の収まった大和の陣所。氏真は、目の前で端座する少年、筒井順慶を静かに見つめていた。その整った顔立ちからは想像もつかぬほど、この少年が仕掛けた策は陰惨で、かつ合理的であった。


「…藤次郎よ。一つ問いたい。なぜ、箸尾と越智はあれほど無謀な野戦に挑んだのだ? 山に籠もれば、今川といえど攻め落とすには月日を要したはずだが」


 氏真の問いに、順慶はふっと口角を上げた。その笑みには、同年代の若者が持つ純真さは微塵もなかった。


「…実は、私が裏で唆したのです」


「唆した?」


「はい。私はあの方々に、こう持ちかけました。『私は表向き今川に従っているが、実は隙を伺っている。興福寺に手を出せば、今川の傲慢さを天下に知らしめ、大和の団結を強める好機だ。連行の際、前方をお門違いの箸尾・越智軍が塞ぎ、後方を我が筒井と十市の兵で塞ぐ。挟撃すれば、今川軍など退けられる』…と。彼らはその言葉を信じ、勝利を確信して山を下り、野戦の場に出てきたのです」


 氏真は背筋に冷たいものが走るのを感じた。順慶は最初から、自らの手で大和の反対勢力を一掃するために、彼らに勝てるという幻想を見せて引きずり出したのだ。


「もし、そなたの言った通りの挟撃を、誠に遂行していれば…確かに今川軍は一度は退いていただろうな。なぜ、そうしなかった?」


「意味がないからです」


 順慶は淡々と答えた。


「今回一度、今川軍を追い払ったところで、周囲はすべて今川の領土。天下を動かす中将様を相手に、山の中に立て籠もって何になりますか? 待っているのは干殺しと、より苛烈な報復だけです。遅かれ早かれ、大和の旧き形は終わる。であれば、大和が生き残る道はただ一つ…中将様にとって、私がどれほど役に立つかを見せつけること。大和に筒井あり、と骨の髄まで刻んでいただくことでした。いかがです? 私を高く評してくださいますか?」


 順慶の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光った。


「私は、この狭い大和の山の中に収まるつもりはございませぬ。所詮は山猿の小競り合い。もう、そんな醜い真似はご免です。私は、中将様の下で、この世界の果てを、天下の景色を望みたいのです。どうか、お側に仕えさせてください」


 氏真は、長く息を吐いた。その知略、その覚悟。まさに末恐ろしい怪物であった。当初、氏真は彼に寺社勢力との外交を任せようと考えていたが、その考えを改めた。


「藤次郎。そなたの才、大和に埋もれさせておくにはあまりに惜しい。…だが、その若さでこれほどの知略を弄ぶのは、危うくもある」


 氏真は隣に控える竹中半兵衛を指差した。


「私の側近である半兵衛の下に付け。半兵衛は我が今川の至宝、軍師だ。誰よりも私の理を知り、この乱世をどう終わらせるべきかを理解している男だ。藤次郎、そなたは未だ若く、そして日ノ本は広い。半兵衛の下で学び、その才を真に世のために使う術を覚えよ。天下の景色は、そこから見えるはずだ」


 順慶の瞳に、初めて少年らしい純粋な驚きが宿った。


「…半兵衛様の下に?」


 半兵衛は穏やかに微笑み、少年の肩に手を置いた。


「殿の命だ。藤次郎殿、共に行こう。私に教えられることがどれほどあるかは分からぬが…藤次郎殿のその渇き、悪くない」


「…ありがたき幸せにございます! 中将様、半兵衛様! この筒井順慶、全身全霊をもって、今川の未来を切り拓く刃となりましょう!」


 順慶は深く、深く平伏した。


 かくして、稀代の若き知略家たちの手によって、大和の攻略は完了した。興福寺の鐘の音は、旧き時代の弔鐘ではなく、今川という新たな秩序の始まりを告げる鐘の音として、奈良の都に響き渡ったのである。


 氏真は、半兵衛と順慶の二人が並んで歩く姿を見送りながら、自らの組織が、もはや個人の武勇を超えた知の集合体へと進化しつつあることを確信していた。


 大和は平定され、今川の覇道はいよいよ揺るぎないものとなっていった。

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