千代丸
1566年冬
堺の館。冬の澄んだ空気が漂う中、氏真は長旅の疲れも忘れて廊下を駆けていた。向かう先は、愛する妻・早川殿が待つ奥の間である。
「御前、すまない!遅くなった。身体は変わりないか?冷やしてはおらぬか?子は…子は無事か?健やかか?」
部屋へ飛び込むなり、矢継ぎ早に問いかける氏真。その様子は、日ノ本の半分を動かそうとする冷静な大名とは思えぬほどに狼狽えていた。早川殿は、生まれたばかりの赤子を抱きながら、くすくすと鈴を転がすような声で笑った。
「殿、どうか落ち着いてくださいませ。まぁ、着の身着のままで…。私もこの子も、どこへも逃げはいたしませんから。まずは湯あみをされて、身なりを整えてからでも遅くはございませんよ」
「…あ、ああ、そうだな。すまぬ、すぐ戻る!」
氏真は顔を赤くし、再び足早に去っていった。半刻ほどして、身を清め、香を焚き染めた氏真がようやく静かに戻ってきた。早川殿から、まだ赤みを帯びた小さな命を震える手で受け取る。
「おお、この子が…。御前、感謝する。よくやってくれた。大儀であった」
氏真は、愛おしげに赤子の頬を指でなぞった。
「この子の名は、千代丸としよう。健やかに、長く、この平和な世を生きてほしいとの願いを込めてな」
「千代丸、ですか。ええ、とても良い名でございますね」
「そうであろう。龍王丸、五郎丸、そして千代丸。皆、私の無二の宝だ」
氏真は感極まった様子で頷いた。しかし、ふと我に返り、心配そうに妻の顔を覗き込む。
「して、身体は本当に問題ないか?子を産むのは女にとって命懸けの一大事であろう。此度は傍にいてやれず、立ち会えなかったこと、本当に申し訳なく思う」
早川殿は、氏真の優しさに瞳を潤ませながら首を振った。
「いえいえ、殿。それよりも北条の実家を助けてくださり、誠にありがとうございました。父や兄からも、感謝の文が届いております。殿は今川のみならず、日ノ本のために素晴らしき働きをされたお方だと。私も、殿の妻であることを心より誇らしく思います」
「妻の実家を助けるのは当然のことだ。いつか、この子たちが大きくなったら、皆を連れて駿府や相模に旅にでも行きたいものだな」
「それは素晴らしいですね。では、私はその時までに、家族をもう少し増やしておかないといけませんね」
早川殿は、早くも次の子を授かることを望むかのように、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。氏真もまた、その言葉に温かな幸福を感じ、しばしの間、戦国大名であることを忘れて家族との穏やかな時間を噛みしめた。
翌日、氏真は気持ちを切り替え、館の執務室へと入った。留守を守っていた側近たちの労をねぎらいつつ、各地からの報告を聞き、迅速に指示を飛ばしていく。山積する案件の中でも、最も氏真の関心を引いたのは、やはり大和の情勢であった。
報告によれば、筒井順慶の働きは凄まじいの一言であった。弱冠十代の若さでありながら、順慶はすでに大和四家の一つである十市氏を説得し、今川に降ることを確約させていた。さらに、大和の支配権を握る興福寺の内部にも鋭く切り込み、旧態依然とした老僧たちに不満を持つ若手僧侶らを完全に取りまとめていたのである。
「殿、これが藤次郎殿が集めた、興福寺の老僧たちの不正を暴く証拠にございます。もはや片手では持てぬほどの分厚さです」
半兵衛が差し出した書状には、寺領の横領、贅沢三昧な私生活、さらには女色に関わる禁忌の数々が詳細に記されていた。箸尾氏や越智氏も、この圧倒的な状況を前にしては、公然と反対する力は残されていない。大和で最大の武力を誇る筒井氏が今川と結んだ以上、彼らは渋々ながらも流れに従う他ないというのが、現地に潜む半兵衛と昌幸の共通した見解であった。
氏真は地図を指でなぞりながら、策を練る。
「よし。まずは大和の周囲を包囲し、徹底した経済封鎖を行う。物流を止め、孤立させた上で、内部の若手らによる告発を受理する形を取る。我らはあくまで宗教界の腐敗を正す。という清廉な大義名分を持って興福寺に介入し、悪徳な老僧たちを連行するのだ」
これによって、興福寺は今川の手によって清浄化されたという事実を民衆に植え付ける。筒井と十市が真っ先に今川に臣従したとなれば、大和の国は事実上、今川の掌中に収まる。万が一、これに抗う不届き者がいれば、それこそ清められた興福寺に歯向かう仏敵として、容赦なく処断すればよい。完璧な算段であった。
しかし、問題は興福寺の内部構造である。 順慶は、自らの属する一乗院から、門跡である尊金という若者を新たな別当に立てようと画策していた。尊金は摂関家の血筋を引く最高級の貴種であるが、これまでは実権を老僧たちに握られ、飾り物同然の扱いを受けていた。この機に頂点へ上り詰められるのであれば、喜んで今川に手を貸すだろう。
「だが、一乗院だけを立てれば、必ず角が立つな」
氏真は冷静に分析した。興福寺という巨大勢力は、近衛家と繋がりの深い一乗院と、二条家や九条家と縁のある大乗院という二つの派閥によって均衡が保たれてきた。一乗院出身の順慶が尊金を担げば、対立する大乗院派である越智氏などが反発するのは火を見るより明らかであった。これが、大和の国衆がこれまで一枚岩になれなかった元凶でもある。
「別当は一乗院から出すが、次席の要職は大乗院に用意させよ。両派を連立させ、互いに監視し合わせることで、反今川という一点でまとまる暇を与えぬようにするのだ」
氏真の指示は冷徹であった。同時に、興福寺が長年握り続けてきた地検の権利、年貢の徴収権、そして自警団という名の軍事・警察権をすべて取り上げることを命じた。
「その代わり、今川が集めた銭を寄進として興福寺に安定的に流す。寺も国衆も、自ら汗をかかぬまま、以前よりも豊かな暮らしができるようにしてやるのだ」
面倒な実務から解放され、豊かさを与えられる。一見すれば慈悲深い処遇だが、それは自ら支配する力を奪うという、最も残酷で確実な去勢術であった。こうして少しずつ、しかし確実に、興福寺の影響力を歴史の闇へと溶かしていく。
最後に、氏真は筒井順慶という男の処遇について言及した。
「大和の調整が終わり、完全に今川の支配下に入ったならば、藤次郎は栄転として堺へ呼び寄せる。役職は今川宗教外交官だ。日ノ本各地の寺社勢力との交渉を任せることとする」
大和という地をまとめ上げた若きカリスマを、そのまま大和に留めておくのは危険が大きすぎる。大和攻略の緻密な草案を出してきたのが、まだ十代の少年だというのだ。
「味方としてこれほど頼もしい者はおらぬが、野放しにすれば何をしでかすか分からぬ。私の目の届くところで、その有り余る才を今川のために使ってもらう」
氏真は半兵衛に向き直り、力強く告げた。
「この大和攻略の指揮は、半兵衛、お主に一任する。私は後方から必要な物資と銭をいくらでも回そう。大和の土地そのものに執着する必要はない。今川の理に従わせることだけを考え、気負わずにやってくれ」
「…はっ。この竹中半兵衛、殿の御期待に必ずや応えてみせましょう」
半兵衛が静かに頭を下げた。愛する家族との穏やかな再会から一夜。氏真は再び、未来を見据える冷徹な支配者の顔に戻っていた。大和という古き権威の象徴が、今川の圧倒的な合理性の前に、音を立てて崩れようとしていた。




