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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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特等席

1567年冬

 冬の厳しい寒さの中、氏真の一行はまず伊勢の地を踏んだ。そこで待っていたのは、かつての人質生活を経て、今や今川家最強の盾であり矛ともなった松平元信である。伊勢平定を見事に成し遂げた元信の顔つきには、一国を背負う者としての揺るぎない自信が漲っていた。


「次郎三郎、久しいな。伊勢の統治、誠に見事である。父上も喜んでおられたぞ」


「身に余る光栄にございます、殿。伊勢の民もようやく今川の法に慣れ、港の活気も戻ってまいりました」


 氏真は元信の肩を叩き、本題を切り出した。


「さて、そなたには休む間もなく大役を任せることとなる。先日定めた、東国攻略隊の副隊長に、そなたを据えた。隊長は朝比奈備中守だ。だが、実質的な攻略の指揮、とりわけ交渉と統治の設計においては、備中守よりもそなたに経験の分があることは疑いようもない。伊勢で見せたような、粘り強く、かつ大胆な攻略を期待しているぞ」


 元信は驚きに目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。


「私はそなたを、もはや一人の武将としてだけでなく、私の分身として見ている。武力でねじ伏せるのではなく、銭の力と理詰めの統治で人心を掌握する。それを誰よりも理解しているのは、そなただ。若手一の出世頭として、その手腕を存分に発揮してきてくれ」


「…畏まりました。殿の御期待、決して裏切ることはございませぬ。この次郎三郎、今川の理を陸奥の果てまで知らしめてまいりましょう」


 元信の力強い言葉に頷き、氏真は次なる地、近江へと向かった。



 近江では、今川譜代の名門、朝比奈泰朝が待ち構えていた。泰朝は氏真にとって幼少期からの馴染みであり、忠誠心は随一だが、元信のような鮮烈な実績を前にどこか焦りを感じている節があった。氏真はそれを見越し、あえて彼に隊長の重責を与えた。


「備中守、そなたを下野および東国攻略隊の隊長に任命する。そして、副隊長には松平次郎三郎を据えた。…この人選の意味、わかるか」


 泰朝は一瞬言い淀んだが、正直に答えた。


「次郎三郎殿は伊勢を制した英傑。攻略の実績においては、不肖備中守、足元にも及びませぬ。それをあえて私が率いるというのは…」


「そうだ。将来、今川の重鎮として上に立つことが約束されているそなたには、早い内から優秀すぎる家臣をどう動かし、どう制御するかという、指揮官としての真の苦労を経験してもらいたいのだ。自分一人が手柄を立てるのではない。異質な考え方や圧倒的な行動力を持つ人間を使いこなし、一つの目的へ導く。それは、自ら戦うよりも遥かに難しい」


 氏真は泰朝の目を見据え、優しく、しかし厳かに語りかけた。


「そなたは隊長だ。自信を持って、思うように差配せよ。必要な人員も物資も、すべて準備する。だが、ただ与えられるのを待つのではなく、預けた銭を使い、現地で調達し、現地の民を巻き込むことが肝要だ。功を焦るな。時間をかけて、一歩ずつ着実に前へ進め。私はそなたを信じている」


 泰朝の瞳に、新たな決意の火が灯った。


「殿…。この備中守、己の器を広げ、必ずや東国を今川の安息の地としてみせましょう。次郎三郎殿とも、良き競い合い、良き連携をしてまいる所存にございます」


 若き二人の獅子が、互いを高め合いながら北関東へと向かう。その姿を、氏真は頼もしく見送ったのである。



 旅の終盤、一行は京に立ち寄った。氏真は御所に参内し、帝に対し、関東の静謐を完全に取り戻した旨を奏上した。


「東海、畿内にとどまらず、ついに関東の乱れまで鎮めるとは。中将、そなたの働き、誠に天晴れである。これで日ノ本の安定は大きく前進したであろう。これからも民のために尽くせよ」


 帝からの温かいお言葉を賜り、氏真は深く平伏した。


 その後、関白・近衛前久の屋敷を訪れると、相変わらず鋭い眼光の貴公子が、からかうような薄笑いを浮かべて出迎えた。


「これはこれは、関東の覇者。中将よ、以前は『領土を拡げるつもりなどない』と仰っていたはずだが…気づけば日の本の半分近くが今川の色に染まっているではないか。あれは方便であったかな?」


 氏真は苦笑しながら、茶を啜った。


「滅相もございません。自らの意思で切り取った地など一つもございませぬ。攻められた火種を消し、内紛を抑え、民の嘆きに応じているうちに、気づけば今川の法を敷かねばならぬ状況になっていただけのことにございます」


「ふむ。武家とは力こそがすべて、より強き者がより広く支配する。それが道理だと思っていたのだが…中将、そなたはどうも違う。領土を拡げることを喜びとしておらぬ。それは、なぜだ?」


 前久の問いは、核心を突いていた。氏真は少し考え、言葉を選んだ。


「割に合わぬのです。戦となれば、どんな勝ち戦であろうとも必ず兵が死ぬ。兵が死ねば、新たな兵を育てねばなりませぬ。ですが、人はそう簡単には育ちませぬ。赤子が生まれ、戦場に出せるまでに育つには、早くて十五年はかかります。その十五年、戦に明け暮れていれば、海の外の情勢は大きく変化してしまうでしょう。この島国の中で足を引っ張り合っている暇など、本来は無いはずなのです」


 前久は目を見開いた。十五年という具体的な数字、そして海の外という視点。それは、この時代の人間が持つものとしてはあまりに特異であった。


「なるほどのう。つまり中将は、いずれは海の外へ打って出ようというのか?」


「それもまた、少し違います。私が申したいのは、侵略ではなく防衛にございます。内がまとまらぬ隙に大陸や南蛮の勢力に攻め込まれれば、この島に逃げ場はございませぬ。ですが、せめて内が一つにまとまってさえいれば、戦いようも、話し合いようもございます。そのような事態がいつ起こるかは分かりませぬが、起きてから備えては遅いのです。何事も備えあれば憂いなし。私はただ、この国を強固な一つの石垣にしたいだけにございます」


 前久はしばらく沈黙した後、楽しげに笑声を上げた。


「…面白い。中将の目指すその奇妙で壮大な世界、麿も特等席で最後まで見守らせてもらうとしようかの」


「ええ、特等席を準備しておきましょう。それでは殿下、私はこれにて」



 堺の館に戻る頃には、一月も終わりが見える頃となっていた。道中、様々な者と会い、言葉を尽くした旅は、流石の氏真も心身ともに疲れを感じさせた。特に関白・前久のような、腹の底を見透かそうとする人間との対話は、神経を削られるものがある。


 だが、堺の活気ある港の匂いを感じた時、氏真の心はふっと軽くなった。帰路に眺めた畿内の風景は、以前とは見違えるほどに今川の色に染まっていた。街道は平坦に整備され、以前はあちこちで見かけた物乞いの姿も消えている。町には威勢の良い商人の声が響き、村々には農民たちの笑い声があった。


「良い証拠だ…」


 次なる課題は大和の興福寺、そして筒井順慶との交渉である。 古き宗教権威をいかにして十五年の計に組み込むか。氏真の思考は、休む間もなく次の一手へと向かっていった。

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