組織の形
1564年冬
「基本的には、これまでの領管はすべて変更するべきだろう。安定した地には文官を、火種が残る地には最強の牙を置く」
まず、氏真が着手したのは、北陸と伊勢の平定である。
能登の畠山家。今川の融資を、名門への献上と履き違え、一銭の返済も行わぬまま慢心し続ける彼らに対し、氏真はついに断罪の剣を振るうことを決めた。
「能登へは、織田三郎信長を大将とし、副将に武田太郎義信、さらには浅井新九郎長政隊、稲葉彦六一鉄隊を配する。これ以上の贅はない布陣だ」
信長の苛烈な突破力で七尾城を包囲し、内応の約束ができている長氏と連携して能登を切り取る。
その後、この日本海側の要衝を任せるのは武田義信だ。
「太郎。そなたは海を知らぬ甲斐の育ちだが、だからこそ海がもたらす富の価値を誰よりも貪欲に学べるはずだ。能登を日本海の拠点としてどう育てるか、己の頭で考え、統治してみせよ」
義信の成長を促すとともに、武田との絆をより強固なものにする狙いもあった。
次に、宿敵とも言える北伊勢・志摩の北畠家に対しては、松平元信を抜擢した。
「次郎三郎。松永討伐の際、北畠は卑劣にも我が領土を狙った。その罪、容易には許せぬ。紀伊の藤吉郎と連携し、東西から好きに引っ掻き回してくれ。侵攻の時期も手段も、すべてそなたに一任する」
忍耐強く、かつ合理的な元信と、人たらしの天才である藤吉郎。この二人が組めば、北畠の領内は戦う前からガタガタになるだろう。
さらに、不穏な動きを見せる河内畠山家には、今川随一の猛将・岡部元信を大将に据え、副将に井伊肥後守直親、さらに山県三郎兵衛昌景隊、三木三郎良頼隊という、機動力と練度に優れた部隊を送り込むことにした。
そして、新天地の統治を担う三人の若き領管を定めた。
越前には、氏真の実弟・今川氏規。
「越前は朝倉左衛門督義景殿と共に、文化で売る土地だ。私の弟であり、幼少から駿府の雅に触れてきた助五郎以上に適した者はいない」
近江には、若手の中で最もその行政能力を高く評価している朝比奈泰朝。
「琵琶湖という巨大な水資源と物流の要。これを活用し、近江を今川の巨大な物流倉庫に変えてくれ。親族の弥太郎、そして旧六角重臣の進藤山城守賢盛や平井加賀守定武がそなたを支える」
そして紀伊には、あの木下藤吉郎を正式に配した。
「紀伊はまだ直轄地ではない。国衆たちの独立心が強いあの地には、あの強かな人たらしがうってつけだ。今は経済連携でも、あいつなら数年のうちに、今川がいなければ飯が食えないという状況を作り上げ、彼らを心服させるだろう」
最後に、側近として氏真の傍らへ呼び戻したのは、明智光秀であった。
「十兵衛。そなたの調整能力と京文化への深い理解、そして何よりその誠実さは、これからの畿内統治に欠かせない。私の右腕として、再び力を貸してくれ」
畿内の統治は、急激な変革を避け、まずは地元に詳しい国衆らと連携しながら、三好の色をゆっくりと薄めていく方針だ。そのためにも、大和や丹波、播磨といった周辺諸国とは安全第一の外交を進め、領内の安定に全力を注げる環境を整える必要がある。
「…よし。これで、新たな今川の骨組みができたな」
氏真は筆を置き、満足げに頷いた。それは、中世の武士の連合体から、近世の中央集権的な官僚国家へと脱皮しようとする、今川家の新憲章でもあった。
人事の刷新という華々しい動きの裏で、今川家は大きな悲しみに包まれていた。家老として長年氏真を、そして義元を支え続けてきた関口氏純が、静かにその生涯を閉じたのである。
「…式部大輔、そなたがいなければ、今の私はなかっただろう」
氏真は、主を失った関口の屋敷で独り、亡き重臣との日々を振り返った。氏真が暗君から脱却し、改革を始めた初期のころ。家中には当然ながら、新しいやり方への強い反発と懐疑があった。その荒波の中で、誰よりも早く氏真の真意を汲み取り、保守的な家臣たちの間を奔走して協力を取り付けてくれたのが、氏純であった。
彼の支えがあったからこそ、氏真の改革は内部分裂を起こすことなく、今川家という巨大な組織を動かすことができたのだ。
「もっと、大きくなった今川を見せたかった。そなたが守り抜いたこの家が、日ノ本の中心となる様を…」
氏真は、後任の家老に庵原忠政を指名した。 今川家は、その広大な領土に比して、家老の数が極端に少ない。それは、評定衆という合議制のシステムが、極めて高度に機能しているからであった。
今回の三好との同盟や畿内の移譲といった大事業も、重臣たちで方向性を定めた後、必ず評定衆にかけて議論を尽くしている。
「誰が当主になっても独裁はできず、多くの知恵が集まる。これこそが、私がそなたと共に作りたかった組織の形だ」
氏純の死は、一つの時代の終わりを意味していた。しかし、彼が蒔いた、協力と信頼という種は、今の今川家の隅々にまで根付いている。
「…安らかに眠れ。そなたの愛した今川は、私が必ず日ノ本一の安寧へと導いてみせる」
冬の空を見上げ、氏真は亡き師、そして戦友への誓いを新たにした。 悲しみを乗り越え、今川家はいよいよ、歴史の深淵へと足を踏み出そうとしていた。




