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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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新生活

1564年春

 かつて京の都を蹂躙した武士たちとは異なり、今川の軍勢は極めて規律正しかった。略奪はおろか、路地の塵一つ落とさぬような行軍に、京の民は窓を細く開け、固唾を飲んでその様子を見守っていた。


 氏真は、まず何よりも先に朝廷へと参内した。御所の奥深く、御簾の向こう側におられる帝との対面である。


「今川左近衛少将氏真にございます。三好殿より畿内の平定と安寧の重責を引き継ぎ、これより身を賭して帝をお守りし、都を、そして日ノ本の民を富ませることを誓い奉ります」


 氏真の言葉に、帝の静かな声が響いた。


「…三好の長きにわたる勤め、見事であった。そして今川よ、そなたの駿河での差配は聞き及んでいる。これからは、この畿内の地を、そなたの力で導いてほしい。よろしく頼むぞ」


 それは、名実ともに今川が天下の差配役として認められた瞬間であった。その場で氏真は、これまでの功績と、京の守り人としての立場を明確にするため、左近衛中将への昇進を打診された。


 今川家にとって、官位は単なる飾りではない。朝廷の権威を盾に、旧態依然とした諸勢力を抑え込むための強力な武器となる。


「謹んで、お受けいたします」


 深々と頭を下げる氏真。これにより、彼は「今川中将」として、名実ともに京の正式な番人となったのである。



 参内の後、氏真は多くの公家たちに囲まれた。彼らの関心事は、ただ一つ。「今川は、幕府を開くのか」という点である。


「中将殿。三好を追いやり、これだけの領土を握られた。足利の血を引く今川であれば、将軍となって幕府を開くのも道理。…左様な御予定は?」


 ある公家が、探るような目で問いかけた。氏真は、穏やかな笑みを浮かべたまま答えた。


「今のところ、幕府を開く予定はございませぬ。私の目的は、この日ノ本を安定させ、民が飢えず、争いのない世を作ること。幕府という枠組みで諸国を統べたいわけではないのです。帝をお守りし、経済を回し、日ノ本から無用な戦を無くす。もしその先、誰かが実務的な統治を行うべき時が来たならば、それは帝に決めていただければ良いこと。私個人に、将軍の椅子への執着はございませぬ」


 公家たちは顔を見合わせた。前例主義に固執する彼らにとって、幕府を作らない権力者という存在は、理解しがたい異端であった。しかし同時に、彼らが最も恐れていた、慣れない急進的な変革を、今川が押し付けようとしていないことに、微かな安堵を覚えたようだった。



 次に取り組んだのは、宗教勢力の再編である。 先の三好による粛清で、石山本願寺はもぬけの殻となっていた。広大な伽藍は静まり返り、かつての喧騒は嘘のようである。


 氏真はここに、三河、長島、加賀といった今川領内の穏健な一向宗の教主たちを呼び寄せ、本願寺を再興させることを決定した。


「条件は二つ。僧兵や武器を一切持たず、ただ修行と民の救済、そして心の安寧にのみ集中すること。今川の法に従い、政に与せぬこと。さすれば私は以前よりも厚く、そなたらを庇護しよう」


 教主たちは、涙を流して氏真の足元に平伏した。一度は滅びかけた自分たちの信仰が、今川の手によって再び息を吹き返したのである。これ以降、一向宗が今川に刃を向けることは、二度となくなるだろう。


 さらに氏真は、現代的なクラウドファンディングの発想を持ち込んだ。


「寺の再興費用は、民からの寄付制とする。信仰の力は強い。寄付したいと願う民は、日ノ本中にあふれている」


 今川の懐を痛めることなく、巨額の銭が集まり、石山は瞬く間に再興されていく。さらに、堺を通じた資材の供給ルートを今川が握ることで、その再興事業そのものが今川に莫大な利益をもたらす仕組みを作り上げた。


「石山の門前を、一大市場にする。今川の法は楽市楽座だ。ここが堺以上に栄えれば、堺の特権的な自治はやがて意味をなさなくなり、自然と今川の商圏へと飲み込まれていくだろう」


 武力ではなく、経済の流れによって、難攻不落の自治を無効化する。氏真の真骨頂であった。



 畿内の国衆たちの多くも、今川の統治を受け入れる道を選んだ。 かつて戦場で今川軍の圧倒的な強さを、そして戦後、尾張や美濃がどれほど豊かになったかを目の当たりにした彼らにとって、今川に飲み込まれることは、もはや敗北ではなく、生存への特権であった。


「三好の殿が、最後に出家される前に背中を押してくださったのです。『今川こそが、これからの日ノ本を照らす光である。迷わず付いていくが良い』と」


 ある国衆がそう語った。長慶は自ら身を引くことで、家臣たちが路頭に迷わぬよう、丁寧に根回しをしてくれていたのだ。


「修理大夫殿は、真に知性に溢れ、思慮深い素晴らしき御仁だ。…彼が作り上げようとした秩序を、私はさらに盤石な形にしてみせよう」


 氏真は、当面の間は大きな変革を控えることにした。まずは畿内全域の検地を行い、各地の石高や物流の実態を正確に把握する。急激な変革は、人々の心に軋轢を生む。


「夏までには、すべてを把握し、秋からは本格的な改革に取り掛かる。…畿内を、駿河に負けぬ豊穣の地に変える」



 その日の夜。堺の新しい拠点が完成するまでの仮拠点である岸和田の屋敷で、氏真は早川殿と語り合った。 窓の外には、畿内の夜風が静かに吹いている。


「御前、駿府の父上や北条の義父上と離れ、遠い地へ来させてしまったな。寂しくはないか」


 氏真が尋ねると、早川殿はそっと夫の肩に頭を寄せ、微笑んだ。


「少し、寂しゅうはございます。…ですが、殿がこれほど多くの方々に慕われ、帝に直接『頼む』と言われるほど頼りにされている。そのお姿を間近で拝見できるのは、妻として、これ以上ない誇りにございます。新しい生活、私はとても楽しみにしておりますよ」


 彼女の強さと優しさに、氏真は改めて救われる思いがした。暗君と謗られ、すべてを失うはずだった十年前。 そこから必死に、溺れる者が藁を掴むようにして始まったこの旅。気づけば、足利の連枝として帝を支え、天下の半分を背負う立場にいた。


「まだまだ、道半ばだ」


 氏真は、眠る龍王丸と、産まれたばかりの五郎丸の寝顔を見つめ、心に誓った。彼らが育つこの日ノ本を、誰にも壊させはしない。今川中将の、真の統治が、今この春から幕を開けたのである。

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