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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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人事

1564年冬

 氏真は、駿府の書斎で巨大な地図を広げた。


「…随分と、遠くまで来たものだ」


 色分けされた勢力図を指でなぞる。 拠点の駿河から始まり、東海道は甲斐、遠江、三河、尾張、北伊勢。東山道は信濃、飛騨、美濃、近江。北陸道は越中の西部、加賀、越前。そして間もなく加わる畿内の山城、河内、和泉、摂津。さらには南海道の紀伊。


 かつて東海道の守護に過ぎなかった今川家は、今や日ノ本の心臓部を握る巨大国家へと変貌を遂げていた。


 これら広大な領土のうち、近江、越前、紀伊を除いた地域では、すでに今川法が行き渡っている。楽市楽座による経済活性化、兵農分離による生産性の向上、そして寺社の管理。これらがシステムとして機能し、今川の安心というブランドを支えていた。


「次郎三郎も、よくやってくれたな」


 北伊勢の地を思い浮かべる。かつて北伊勢四十八家と呼ばれ、複雑怪奇な国衆の利害が絡み合っていたあの地も、松平元信の粘り強い交渉と実力行使により、今では直轄軍の配備が完了している。


 また、真田幸隆からの報告によれば、甲斐や信濃の整備も劇的に進んでいた。山がちな地形を逆手に取った治水事業が功を奏し、かつては痩せていた土地から豊かな米が収穫されるようになっている。


 そして加賀。かつては百姓の持ちたる国と呼ばれ、いまだ残る火種から抵抗が予想されたが、石山の本願寺が今川の経済圏に屈したことでさらに毒気が抜けたようだ。


「信仰のために命を捧げるより、今川の法の下で腹一杯食って生きる方がいい」


 そう民が思い始めたなら、それは鉄砲で殲滅するよりもはるかに強固な勝利と言える。


「さて…問題は、この広大な領土を誰に任せ、どう守るかだ」



 領管を定めるにあたり、氏真は隣国との関係性を整理した。盤面は刻一刻と変化している。


 東では、川中島の戦いと加賀一向宗という重荷から解放された上杉輝虎が、一気に押し出すかと思われた。しかし、義父・氏康もさるもの。今川から供給される最新の火薬を武器に、関東の守りを鉄壁に固めている。


 さらに、奥羽の蘆名や伊達が越後をうかがう動きを見せることで、上杉も関東に全力を注げない。


「義父上も、なかなかしぶといな」


 関東の膠着状態は、今川が西へ注力するための最大の猶予となっていた。


 北の能登畠山は、いまだ名門のプライドを捨てきれず、今川の経済圏への参入を拒んでいる。だが、今川の顔色をうかがう商人たちは、すでに能登への物資供給を絞り始めていた。


「能登では物が足りず、悲鳴が上がっているという。長続連との内応も済んでいる。いずれ七尾城を包囲し、一兵も損なうことなく干殺しだな」


 越前と接する若狭は、かつて朝倉の庇護下にあった地域だが、今の彼らに今川へ牙を向くような団結力も武力も残っていない。


 問題は、伊賀と甲賀だ。六角親子を匿っているとはいえ、氏真は深追いを禁じた。


「忍びの里を無理に踏み荒らすのは労力に見合わん。周辺に直轄軍を置き、物流を断てば、彼らもいずれは商売相手として頭を下げてくるだろう」


 伊勢志摩の北畠は、北伊勢と九鬼水軍を今川に抑えられたことで、激しい敵意を剥き出しにしている。先の石山合戦の際も、隙あらば今川領を突こうと準備をしていた。


「ここもいずれ、統一せねばなるまいな」


 そして、空白地帯となりつつあるのが大和だ。松永久秀が健在であった頃は、信貴山城や多聞山城を拠点に大和全域を圧倒していたが、久秀亡き後は、大和四家と呼ばれる古くからの領主たちが、主導権争いで泥沼の内紛を続けている。


「まさに戦国の縮図。飢えた獣たちが共食いをしているようなものだ。…まあ、放っておけばいい。共食いが終わった頃に、私が秩序を届けに行ってやろう」


 前提を整理し終えた氏真は、筆を執った。 今川が目指すべきは、旧来の武力による支配ではない。


「これまでは、三郎や次郎三郎のような個の武威を原動力として、力技で改革を進めてきた。だが、安定期に入った地域にまで武官を置く必要はない」


 氏真が決断したのは、統治と軍事の完全分離であった。


 今までは大名や国司が、その土地の裁判、徴税、軍事を一手に引き受けていた。しかし、これからは違う。楽市楽座が定着し、民が法に従うようになった安定地域において、領管に求められるのは戦の強さではない。


「正しく税を収受し、領土を整え、経済を回す。…つまり、必要なのは官僚や文官だ」


 戦や争い、あるいは国境警備は、すべて氏真が直属で動かせる直轄軍が担う。そうなれば、領内の国司が隣国と勝手に戦を始めることも、私利私欲で民を苦しめることもできなくなる。


「武に優れた者、兵を率いるのが上手な者は、すべて直轄軍の将として再編する。領地の内政からは切り離し、純粋な力として私が握る」


 この方針転換は、今川の重臣たちにとっても衝撃的なものになるだろう。だが、これができなければ、いずれ今川もまた、内側から崩壊する戦国大名の宿命を辿ることになる。


「さあ、誰を連れて行き、誰をどこに据えるか…。私の内閣を編成するとしようか」


 冬の朝、氏真は清々しい気持ちで、新たな人事の草案を書き始めた。 それは、武士が戦う専門職から守る専門職へと変わる、静かな、しかし決定的な革命の始まりであった。

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