一歩
1563年冬
「修理大夫殿、まずは返事が遅くなってしまったこと、深くお詫び申し上げまする。近頃はどうにも来客が多く、駿府を離れるに時間を要してしまいました」
氏真の言葉に、長慶は穏やかな笑みを浮かべて首を振った。
「滅相もござらぬ。南紀伊の国衆や、越前の朝倉殿までもが少将様を頼って駿府を訪れたと聞き及んでいる。今や日ノ本の目は、すべて今川に向いている。お忙しいのは当然のことにござろう」
長慶の顔色は、以前見舞った時よりも幾分か良くなっていた。嫡男・義興を失った悲しみが癒えたわけではなかろうが、巨大な領国を支え続けるという重責から解放される道筋が見えたことが、彼にとっては何よりの薬となったのだろう。
「さて、修理大夫殿。先日の申し出、慎んでお受けいたしたい」
氏真が居住まいを正して告げると、部屋の空気がわずかに震えた。
「畿内の統治については、私自身がこちらへ移り、直接取り仕切るつもりです。幸い、近江の騒動を経て六角領も今川の手に落ちた。陸路では近江を通り、海路では紀伊を抜けて、駿河と畿内が完全に地続きとなった。これならば、情報の遅れも物資の滞りも最小限に抑えられる」
氏真は、具体的な統治の拠点についても語り始めた。
「当面の本拠は、以前お預かりした岸和田城、そして堺の外れに新たに造らせている屋敷といたします。ここ飯盛山城は、万が一の際の防衛拠点として整備したい。ゆえに、修理大夫殿の引っ越しや阿波への移動は、急がずとも構いませぬ。こちらはこちらで準備を進めるゆえ、三好家中の整理を優先してくだされ」
「…痛み入る。我ら三好の者の進退についても、寛大な御処置を」
「ええ。阿波に帰りたい者がいれば、修理大夫殿と共に連れ帰っていただきたい。もし、この畿内に残って今川の統治を受け入れたいと願う者がいれば、そのまま所領を安堵しましょう。三好の誇り高き家臣たちを、無理に引き裂くつもりはございませぬ」
実務面についても、氏真は抜かりなかった。
「京との引き継ぎや、日々の行政については、すでに今川の官僚を数人こちらへ連れてきております。彼らを岸和田に常駐させますゆえ、三好の文官たちと密に連絡を取り合ってもらいたい。当面の責任者には、私の腹心である明智十兵衛光秀を命じました。連絡事項はすべて岸和田の十兵衛に伝えてもらえれば、滞りなく私まで届くでしょう」
「明智殿ですな。あの若くも冷静沈着な御仁であれば、我らも安心して委ねられます」
冬康が感心したように頷く。氏真はさらに続けた。
「それに、阿波へ退くといっても、今川と三好は固き同盟国です。頻繁に便りも行き来する距離。一度にすべてを完璧に整えるのは難しい。少しずつ、話し合いながらやっていきましょう」
そして、氏真はこの禅譲をより確固たるものにするための贈り物を提示した。
「それと、修理大夫殿。養嗣子の千鶴丸殿のお相手として、私の妹、藤を嫁がせたいと考えているのですが、いかがでしょう。歳は同じ頃。私の実の妹であれば、三好家にとっても決して悪い話ではないと思うのですが」
長慶の瞳に、驚きと深い感動が走った。
「…少将殿の妹君となれば、断る理由などござらぬ。我が三好家をこれほどまでに対等に、いや、それ以上に重んじてくださるとは。かたじけなさに言葉もござらぬ」
「これで、我らは名実ともに親族です。…三好の皆も、これで少しは安心してくれるだろうか」
「ああ。すでに国衆らには、いずれ今川に委ねる日が来ることを伝えておるが、この縁組を聞けば皆、諸手を挙げて喜ぶだろう。年が明ける頃には、帰る者、残る者、すべて定まっておろう」
長慶は、深く深く頭を下げた。そして、晴れやかな顔で付け加えた。
「帝におかれても、三好が阿波に退き、今川が畿内を治めることに異論はないとのお返事をいただいた。『長年の支えに感謝する』との身に余るねぎらいも賜った。…武士として、三好の統治を帝に認めていただけたこと、これ以上の喜びはござらぬ。今、最高に心晴れやかに、阿波へ帰ることができよう」
冬康もまた、柔らかな笑みを浮かべていた。
「少将様自らが畿内の統治に携わってくださること、京の方々も大変喜ばれるでしょう。あの火の海だった都が、今川の法と富によって真に蘇るのを、皆が待っております」
三好兄弟の表情には、長い戦乱を潜り抜けてきた男たちが、ようやく辿り着いた安息への安堵が満ちていた。
飯盛山城を辞し、夕闇に包まれ始めた山道を下りながら、氏真はふと足を止めた。 足元には、広大な河内平野が広がり、遠くには京の街の灯火が微かに揺れている。
(…十年、か)
天文二十三年の冬。あの早川殿との婚儀のさなかで目覚めてから、間もなく十年が経とうとしている。 最初は、ただ生き残ることに必死だった。今川が滅びる未来を変えるため、義元の死を避け、経済を回し、外交を尽くした。
だが、がむしゃらに駆け抜けてきたその先に、これほどの領土を抱え、天下の半分を掌握し、朝廷を支える存在になるとは、当時の自分に教えたとしても到底信じなかっただろう。
(私は、少しは民の幸せに貢献できているだろうか)
かつて暗君と嘲笑われた男の魂が、今の自分の中にどれだけ残っているかは分からない。だが、少なくとも龍王丸や五郎丸、そして早川殿が安心して暮らせる世を、そして今川を頼る国衆や民たちが飢えずに済む世を、形にしつつある自負はある。
「殿、如何なされました」
隣を歩く小姓の忠勝が、不思議そうに顔を覗き込んできた。
「いや…少し、昔のことを思い出していただけだ」
氏真は微笑み、再び歩き出した。
「まだ道半ばだ。歩みを止めるわけにはいかぬからな」
氏真は、ついに天下の主としての第一歩を、京の地へと踏み出すことになる。




