表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

65/66

会議

1563年秋

 部屋に満ちる緊張感は、単なる領土拡大への期待ではない。今川家が、歴史の表舞台である京、そして日ノ本の中心へとその手を伸ばそうとする、巨大な転換点に立っていることへの自覚であった。


「…修理大夫殿の申し出、実に驚くべきものだが、理にはかなっておる」


 沈黙を破ったのは、隠居してなお絶対的な威厳を放つ義元であった。


「戦もせず、畿内の要衝が手に入るのだ。三好自らが陣を下げ、今川に協力をすると申すなら、畿内の安定はそう難しいことではなかろう。河内畠山、北畠、六角…。これらはいずれも、今川の新しい領土に挟まれる形となる。もはや、彼らが勝手な動きをすることはできまい」


 義元は、地図の上に置かれた駒を動かしながら、満足げに頷いた。


「飛び地になる点は懸念ではあるが、これでついに、今川は悲願の上洛を果たすことになる。悪くなかろう」


 家老の三浦、瀬名、関口の三人も、概ね義元の意見に賛成であった。 この話を呑めば、山城、摂津、河内、和泉という四つの国の大部分を、新たに今川の支配下に置くことになる。


「領内の国衆らがどの程度土地に残るか、あるいは三好と共に阿波に帰るか、まだ読み切れぬ点はございます。しかし、力で攻め取るわけではございませぬ。三好による秩序ある禅譲であれば、大きな反発は生じにくいでしょう」


 三浦正俊が冷静に分析する。 さらに、関口氏純が付け加えた。


「周辺の諸国がこれまで三好に反抗してきた大きな理由は、その家格にございます。成り上がり者が京を差配することへの反発です。その点、我が今川家は足利の連枝、名門中の名門。国衆や公家衆の間に戸惑いはありましょうが、直ちに攻め入る大義名分を立てることは、誰にもできませぬ」


 物流についても、以前とは状況が異なる。南紀伊を事実上の支配下に置き、九鬼や雑賀、そして堀内らの水軍を掌握した今川にとって、海路による志摩から紀伊を通じた物資供給は盤石だ。陸路においても、今川に心酔する根来衆が通路を固めている。


「して、父上。一番の問題は、誰を畿内の管理に据えるかでございましょう」


 氏真が、本質的な問いを投げかけた。


「今川の本拠は、あくまでこの駿河。しかし、畿内の拠点をどこにするにせよ、駿府との距離はあまりにあります。何事もこちらに連絡を取り、指示を仰いでいては、刻一刻と変わる畿内の情勢に対し、判断が遅れます。あちらに常駐し、陣頭指揮を執る人間を決めねばなりませぬ」


 氏真の言葉に、義元は茶を一口すすり、軽く答えた。


「そちが行けばよいではないか、五郎」


「よろしいのですか? 父上こそ、かつては京に強い思いを抱いておられたはず。私が畿内を治めることに、未練はございませぬか?」


 氏真の問いに、義元は豪快に笑った。


「確かに、そう思う時もあったな。上洛して天下に号令することこそが、武士の正義だとな。だが、どうだ。帝こそおられぬが、今の駿府を見よ。経済も文化も、今や日ノ本の中心はこの駿河にある。将軍家がおられ、各国の名門国司もおる。東は安定し、戦のない平和が続いておる。…ここをこれほどの都にしたのは、そちだぞ、五郎。おかげで私は、この地を離れるつもりなど、すっかり失せてしまったわ。それに近頃は、公方様までが、このまま駿府に定住したいとこぼしておられるぞ」


「左様でございましたか…」


 氏真は苦笑した。将軍をも魅了する駿府の繁栄。それは、彼が前世の知識を総動員して築き上げた賜物であった。


「北条、上杉とも、今は良好な関係だ。太平洋も日本海も、今川の手によって一つに繋がろうとしている。…古くからの今川の家臣らも、この天国のような駿河を離れて、泥沼の戦乱が続く京へ行くなど、ごめんだと思っておるのではないかのう?」


 正俊の冗談めかした言葉に、一同から和やかな笑いが漏れた。


「…承知いたしました。ならば、私が甲信や濃尾の若手、実務に長けた人間を連れて畿内へ参りましょう。幸い、領内は安定しております。私や彼らが離れても、父上がおられる限り、今川の根幹が揺らぐことはありますまい」


「うむ、決まりだな。…して、三好への引き出物だが、そちの妹の藤(隆福院)を、三好の養嗣子・千鶴丸殿に嫁がせるのはどうじゃ? 年も同じ頃であろう。三好との絆を血で固めるには、これが最良の策よ」


 義元の提案に、氏真も深く頷いた。


「そういたしましょう。妹にも私から話をしておきます。…三好と詳細を詰め、移動の時期や人員の選定を急ぎましょう。将軍家には、京の屋敷が整うまで、いえ、整ってからもごゆるりと駿府でお過ごしいただくよう、私からお伝えしておきます」


 こうして、琵琶湖を挟み、東の守護神・義元、西の新風・氏真を両頭とする新今川体制が産声を上げた。


 会議が終わり、退出する重臣たちの背を見送りながら、氏真は一人、窓の外を眺めた。


「…さて、西へ向かう前に、近江の掃除をしておかねばな」


 氏真の瞳に、冷徹な光が宿る。 近江・六角家。当主・義治の暴挙に激怒した宿老たちの不満は、もはや沸点に達している。平井を通じて薪をくべ続けてきた氏真にとって、それは計算通りの展開であった。


(もう間もなく、観音寺城で火の手が上がる…。それが、私の畿内入りの合図となるだろう)


 かつて暗君と呼ばれた男が、今、天下という名の巨大な盤面を、自らの意志で動かそうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ