熊野
1563年夏
南紀伊において独自の自治を貫く国衆たちの代表団が駿府を訪れた。顔ぶれは、新宮を拠点とする堀内安房守氏善、口熊野の要地を握る山本掃部頭忠長、十津川の山深くを治める玉置河内守直和、そして紀伊最強の武力と名高い湯河宮内少輔直春。さらに、熊野別当家を代表して新宮対馬守行継らが名を連ねていた。
彼らは平時から互いに協力して南紀伊を治め、連携して外敵から領土を守ることで、峻険な地形の中に一つの小宇宙を作り上げてきた連中である。
「今川少将様の武名、そして駿河の豊かさは、紀伊の果てまでも届いております。我ら南紀伊の者、今川の傘下に入り、領土の安堵と、何より経済的なつながりを求め参りました」
代表して口を開いた氏善の目は、武士のそれというよりは、海を渡る交易者のように鋭く、先を見据えていた。氏真は彼らを丁重に迎え入れ、自ら用意した紀伊振興策を提示した。それは、単なる主従関係を超えた、綿密な経済安全保障の提案であった。
「まず、紀伊沿岸部の各所に補給所を整備し、改良していただきたい。これには今川が資金を出す。代わりに、そこには今川の赤鳥の旗を掲げる許可を出そう。今川の支配圏であることを示すことは、海賊や他国への抑止力となり、治安の維持にも繋がるはずだ。無論、我が方の船が寄港する際は、最優先で利用させてもらう」
氏真の第一の提案に、それぞれ顔を見合わせた。自分たちの拠点を守るために今川の看板を使わせてくれるというのだ。これほど心強いことはない。
次に氏真が切り出したのは、彼らが手土産として持参した鯨についてであった。
「捕鯨についてだが、今は自由に獲っていると聞く。しかし、獲りすぎれば鯨はいなくなる。そこで今川が、捕鯨許可証を発行し、これを持たぬ者の捕鯨を禁じる。資源を守り、持続可能な産業にするのだ。その代わり、獲れた鯨は駿府や堺へ、今川印の高級品として卸す販路を約束しよう。鯨の干し肉や皮を名産品化し、収量を抑えつつ単価を上げる。数で稼ぐのではなく、質で稼ぐのだ」
「持続可能…。なるほど、獲り尽くしてしまえば元も子もない、ということでございますな」
氏真の現代的な資源管理の考え方に、面々は深く感銘を受けた。ただ獲るだけではなく、市場をコントロールして利益を最大化する。これが今川流の戦い方なのだと彼らは理解し始めた。
話は造船にも及んだ。紀伊南部は良質な木材の宝庫である。特に堀内氏は造船技術に優れ、関船や安宅船の建造にも長けていた。
「堀内殿の技術で、駿河水軍や九鬼、雑賀の船を改良してほしい。さらには、これまでの常識を覆すような大型船の建造も目指す。そのために南紀伊に今川専用の造船所と修理拠点を設ける。資材は地元の材木を使い、雇用も地元から出す。これで紀伊の山も海も潤うはずだ」
そして、氏真が最も力を入れたのが、宗教的権威の象徴である熊野三山を活用した観光政策であった。熊野は古来より、蟻の熊野詣と称されるほど、公家や大名、民衆が参拝に訪れる聖地である。
「岸和田から熊野三山までの熊野古道を、日ノ本で最も安全で快適な道にする。これには、皆の役割分担が必要だ」
氏真は地図を広げ、それぞれの役割を指し示した。
「まず、最大の武力を持つ湯河氏。貴殿らには今川公認の参拝案内役兼護衛を担ってもらう。参拝客が賊に襲われる心配をなくすのだ。次に玉置氏。宿場や伝馬を管理し、宿泊代金を徴収して運営に充てよ。山本氏は口熊野の入口を抑えている。ここを通行と徴税の管理所とし、不正を許さぬ目となれ。新宮家ら熊野一族は、宮司として厳かな儀式を執り行い、聖地としての権威を高める。そして堀内氏は、これらに必要な材木と、海路からの参拝客のための港を管理する」
氏真の狙いは明確だった。それぞれに役割を与え、収益を分配する。
「このように分担すれば、参拝客が増えるほどに全員が得をする仕組みになる。自分の努力が他人の利益になり、他人の働きが自分の潤いとなる。互いに監視し、支え合うことで、透明性は上がり、より良いもてなしをしようという向上心もつく。随所に今川の名産品を置けば、京の公家らも喜んで銭を落としてくれるだろう。入口の岸和田は今川が抑えているゆえ、客足は私が保証しよう。いかがだろうか」
「…恐れ入りました。ただ土地を守るだけでなく、こうも鮮やかに富を生む道を示されるとは。もはや異論などございませぬ」
直春が感嘆の声を漏らし、他の面々も深く頷いた。
最後に氏真は、東の北畠家に対する防衛策を提示した。
「北畠との国境警備については、根来衆を強力に支援する。鉄砲鍛冶を増強し、熱田から熟練の職人を数人送ろう。そこで造らせた新式の鉄砲と、我が方の高火力の火薬を安く卸す。自分たちの領土は自分たちの最新兵器で守るのだ。それと、今川の旗を大量に持っていけ。国境沿いに赤鳥の旗が隙間なく並んでいれば、北畠とて手は出せまい。北伊勢も今川領なのだ。手を出せば挟撃されることは、向こうも百も承知だろう」
氏真の提案は、武力による制圧ではなく、経済的な依存と共通の利益による従属であった。紀伊の国衆たちは、今川という巨大な経済圏に組み込まれることで、自らの地位と富が盤石になることを確信したのである。
「これで決まりだな。紀伊の安寧は、今川が引き受けよう」
商談はあっさりと、しかし極めて強固にまとまった。かくして、経済安全保障を軸とした今川勢力の紀伊拡大が決定したのである。紀伊はわずかに畠山家が残るものの、実質的にはその全域が今川の手足となったも同然であった。
氏真は、退室しようとする彼らに声をかけた。
「明智十兵衛光秀と木下藤吉郎を紹介しよう。これからの実務は彼らが窓口となる。帰ったらすぐに会えるように手配しよう。今夜は丁重にもてなすゆえ、まずはゆっくりと旅の疲れを癒してくれ」
紀伊の荒くれ者と言われた国衆たちが、今川の礼節と豊かさに圧倒され、満足げに下がっていく。 その後姿を見送りながら、氏真は傍らの昌幸に微笑みかけた。
「戦わずして勝つ。…いや、戦う必要すら感じさせぬのが一番だな、半兵衛」
「ええ。…殿の戦い方は、やはり既存の兵法書には載っておりませんね」
半兵衛の感心したような言葉を背に、氏真は次の策を練り始めた。紀伊を抑えたことで、瀬戸内の制海権はより確実なものとなる。そしてそれは、三好から託された畿内統治の大きな一助となるはずであった。
(天下、か。…一歩ずつ、だが確実に形になっていくな)
駿府の夏空に、今川の旗が誇らしげに翻っていた。




