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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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重圧

1563年夏

 三好家の嫡男、三好孫次郎義興が、二十二歳の若さでこの世を去った。義興はかねてより病がちではあったが、父・長慶に似た知勇を兼ね備え、三好の次代を担う希望そのものであった。


 長慶は、かつて今川氏真から受けた「新しい世を共に創ろう」という言葉を支えに一度は精気を取り戻したものの、最愛の息子の死を前に、再び深い絶望の淵へと沈み込んでしまった。


 一存、実休という二人の弟を失い、さらに唯一の嫡男までも失った長慶の憔悴ぶりは凄まじく、今は飯盛山城の奥深くで床につく日々が続いているという。


 氏真はこの報を聞き、極少数の護衛と、真田昌幸や本多忠勝ら数人の小姓だけを従え、再び長慶の見舞いのために飯盛山城の門を叩いたのである。


「…修理大夫殿、此度は何と声をかけてよいか。ご落胆は、ごもっともに存じまする」


 薄暗い寝所に通された氏真は、やつれ果てた長慶の姿に胸を締め付けられる思いだった。枕元には、かつての覇者の面影はなく、ただ一人の子の死を悼む老いた父の姿があった。


「少将殿…。かような折に、わざわざ足を運んでくださるとは…」


「こればかりは、言葉よりも心を、と思いましてな。和歌をしたためて参りました」


 氏真は、懐から一枚の短冊を取り出した。


「世の中に 絶えず流るる 乱れ雲 晴れゆく先を 共に見まほし」


「戦乱の世でなければ、孫次郎殿も、もっと長くこの美しい世界を謳歌できたはず。私は、あなたと共にこの曇天を晴らし、太平の世を創りたいと願っております。我らは共に京の町を戦火から守り抜いた、いわば同志。私に手伝えることがあれば、なんなりと言ってくだされ」


 氏真の真摯な言葉に、長慶の瞳に微かな光が宿った。彼は身を起こそうとするのを冬康に助けられながら、重い口を開いた。


「少将殿、かたじけない。…摂津守、こちらへ。少将殿に、我らの考えを聞いていただきたい」


 傍らに控えていた安宅冬康が、氏真の正面に座り直した。長慶は、氏真の目をじっと見据えて語り始めた。


「三好は、大きくなりすぎたのかもしれぬ。筑前守、左衛門尉、そして孫次郎までもがいなくなった。儂の命も、そう長くはあるまい。…正直に申せば、最後は三好の根拠地である阿波に戻り、この畿内の果てしない戦乱からは逃れたいと思うてしもうたのだ。…勝手な願いであることは承知している。だが、今のこの京を、畿内の民を守り抜けるのは、今川少将殿…貴殿しかおらぬと思うのだ」


「な…」


 氏真が言葉を失う中、長慶は必死に言葉を継いだ。


「貴殿は帝の信任も厚い。どうか、この畿内を、我らに代わって委ねさせてはもらえぬだろうか」


「修理大夫殿、滅多なことを仰いますな!」


 氏真は慌てて首を振った。


「京を真に守り抜いてきたのは、将軍家でもなく、三好家…そなたらでしょう。三好が成し遂げたことは誇り高く、素晴らしい偉業だ。それに、今川は駿河の本拠からあまりに離れすぎている。私には、そなたのようにこの複雑な畿内を治めることなどできませぬ。私が支えるゆえ、もう一度、踏ん張ってはいただけませぬか」


 しかし、長慶は静かに首を振った。


「少将殿は、そうやって常に己の領土欲ではなく、日ノ本の安定を考えておられる。…だからこそ、貴殿に任せたいのだ。先の戦で丹波を失い、周辺には死肉を貪り食わんとする飢えた獣ばかりが蠢いている。欲深き者にこの地を預ければ、混乱は永久に静まらぬ。されど、今川ならばそうはならぬ。…どうか、死を待つだけの人間の、最後の願いを聞き入れてはもらえないだろうか」


「某からも、何卒、何卒お願いいたします」


 冬康までもが畳に額を擦り付けた。


「三好がこうして、自らの意志で託す相手を選べるのも、すべては少将殿が我らを対等の同志として扱ってくださったおかげでございます」


 氏真は困惑し、冬康を見た。


「摂津守殿…。そなたは岸和田の件で、今川を快からず思っているのではなかったのか」


「…その気持ちが皆無だとは、否定いたしませぬ」


 冬康は顔を上げ、苦渋を滲ませながらもはっきりと答えた。


「ですが、雑賀や根来といった連中と領土を接することは、今の三好にとって死活問題。彼らを手懐け、制御できているのは今川だけです。これがもし畠山や他の欲深き者たちであったなら、我らは選ぶ余地もなく、阿波に逃げ帰っていたやもしれぬ。不躾な願いとは存じておりますが、どうか、この畿内を…」


 沈黙が寝所を支配した。氏真は、長慶の震える手と、冬康の覚悟に満ちた目を見た。彼らは、自ら築き上げた畿内三好政権を、平和裏に解体し、今川に譲渡しようというのだ。


「…うむ。しかし、即答は、出来かねます。これほどの大事、少々お時間をいただきたい。一度駿河に戻り、父や重臣らとも熟議を重ねたうえで、改めて返事をさせていただいてもよろしいでしょうか」


「熟議を要するのは当然のこと。元より、無茶な願いをしているのはこちら。…良き返事をいただけるまで、なんとか自らに鞭を打って、領内の仕置に励むとしよう」


 長慶が、ほんの少しだけ口角を上げた。それを見た氏真も、空気を和らげるように笑った。


「…つまりは、私が返事を引き延ばせば延ばすほど、修理大夫殿に精を出していただける、ということかな?」


「はは…。そういじめないでくれ」


 長慶の苦笑に、氏真も少しだけ安堵した。冬康がその場を引き取り、今後の三好家の体制についても言及した。


「三好家としては、阿波三好の嫡男・千鶴丸を兄上の養子とし、家督を譲る考えでおります。九条の血を引く十河の熊王丸をという話もありましたが、阿波を本拠に戻すとなれば、阿波三好から宗家を担う人間を出すべきだと思い、千鶴丸とすることにいたしました。当面は、兄上と某が後見として支えてまいる所存です」


「左様か…。畿内のことを引き受けるとなれば、三好との同盟関係もより強固なものにせねばなるまい。今川から嫁を出すことも念頭に置き、真剣に検討いたしましょう」


「なにからなにまで…すまない、少将殿」


 長慶のその言葉を最後に、氏真は席を立った。


「そんな顔をしないでくだされ。さて、お疲れのところ長居をしてしまいました。私はこれにて。起きる必要はござらぬ。見送りは結構」



 城を出て、帰路につく氏真の足取りは重かった。 小姓たちが、主君の背中を無言で見守っている。


(…大変なことになったな)


 氏真は、夏の日差しに目を細めた。 最初はただ、今川家が生き残るために始めたことだった。戦を避け、富を蓄え、誰もが飢えぬ世を夢見た。だが、気づけば天下の主権そのものが、己の元へ転がり込もうとしている。


(天下が見えている、立場か…)


 これまで避けてきた重圧が、濁流のように押し寄せてくるのを感じる。慎重に考えねばならない。今川を、そしてこの日ノ本をどこへ導くべきか。


「…自分に、出来るだろうか」


 小さく漏らしたその呟きは、蝉時雨の中へ吸い込まれていった。

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