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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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茶会

1563年春

 陽気に誘われるように、将軍・義輝を主宰とした大規模な茶会が駿府にて催された。会場となったのは、今川館の広大な庭園だ。そこには隠居した今川義元をはじめ、飛騨国司の姉小路済継、信濃国司の小笠原右馬助長時といった今川傘下の名門たちが顔を揃え、さらには京から招かれた公家衆や幕臣たちで溢れかえっていた。


「ほう…。これが駿河で焼かれた器か。実に、土の力強さを感じさせる」


 義輝が手に取ったのは、今川領内の職人たちが最新の登り窯で焼き上げた茶器である。 この茶会の狙いは、単なる社交ではない。


 足利将軍家がいまだ健在であり、今川の庇護下でその権威を保っていることを内外に知らしめると同時に、今川領で生産された漆器、茶器、そして最高級の茶葉を、京の名産として逆輸入させるための大商談会でもあった。


「公卿の方々も、名産品には目がございませぬからな。良い物を見せれば、必ずや都で評判になりましょう」


 氏真は、義輝の傍らで満足げに微笑んでいた。文化を尊重する姿勢を見せつつ、実利もしっかりと掴む。これが氏真のやり方だ。


 この開催に先立って、一つ象徴的な出来事があった。信濃国司である小笠原長時が、領国を離れて駿府に居を構えたことだ。義輝が駿府に滞在していることもあるが、それ以上に、寒く険しい北信濃よりも、文化と経済が極限まで高まった駿府という都市の魅力に抗えなかったらしい。


「文化を尊ぶ者として、この賑わいの中心にいたい」


 そう語る長時の決断を、氏真は諸手を挙げて歓迎した。


(これは、非常に良い兆候だ)


 氏真は、茶を啜りながら思考を巡らせる。 古くから続く武家は、とかく自らの土地、先祖伝来の領土に固執する。それが紛争の種となり、統治の障壁となる。


 だが、長時のように名門が率先して土地を離れ、中心都市での安心を享受するようになれば、他の国衆や民の意識も変わるだろう。住む場所を自由に変え、どこにいても今川の法と経済の恩恵を受けられる。土地への執着が薄れれば、領国支配は劇的に楽になるのだ。


「ようやく、信濃にも今川の色が染まり始めたか…」


 穏やかな春の風を受けながら、氏真は新しい時代の到来を確信していた。



 早川殿から、思いがけない、しかし何よりも待ち望んでいた報せを受けた。


「殿、懐妊いたしました」


 その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けるような安堵感に包まれた。戦場では常に神経を張り詰め、経済戦だ、外交だと頭を全力で回転させてきたが、この一報だけは、心の奥底がじんわりと温かくなるような衝撃だった。


 順調にいけば、冬の始まりには新しい家族に会えるだろう。 長男の龍王丸は、弟か妹ができるという実感を、まだ完全には理解していないようだが、周囲の大人たちが喜んでいるのを見て、良いことが起きたのだとはしゃいでいる。


 ふと、早川殿の横顔を見る。彼女はいまだ十代。現代の感覚で言えば、まだ学生であってもおかしくない年齢で、すでに二児の母になろうとしているのだ。この時代では珍しくないことだと分かっていても、どこか自分の行いが非道であるかのような、申し訳ない気持ちが微かに胸をかすめる。


 だが、やはり子が増えるのは純粋に嬉しい。前世では独身を貫いていたが、自分はこれほどまでに子供が好きだったのかと、この世界に来て初めて気づかされた。龍王丸が飯を食い、庭を走り回り、屈託なく笑い、そして泥のように眠る。ただそれだけの光景を見守ることが、これほどまでに深い幸福をもたらすものなのか。


 早川殿は「殿によく似た男子が欲しい」と微笑むが、氏真としては性別など二の次だ。


「無事に、健康に産まれてきてくれさえすれば、それでいい」


 そう告げると、早川殿は少し意外そうな、けれど幸せそうな顔をした。春の駿府に、また一つ守るべき宝物が増えるのだ。



 茶会の余韻が残る四月。今川館に、一風変わった手土産を持った使者が訪れた。紀伊の南、新宮を拠点に自治領を持つ堀内氏らの一団である。彼らが持参したのは、見上げるような巨体の鯨の肉であった。


「我ら堀内の者、少将様の武威と仁徳を伝え聞き、こうして挨拶に参りました」


 代表の使者は、卑屈さを感じさせない堂々とした態度で口を開いた。紀伊の南岸は、良質な木材の宝庫であり、古くから造船が盛んな地域だ。彼らの提案は、実に戦略的であった。


「もし今川家が資金を援助し、我が領内に大規模な造船所を建ててくださるならば、我ら堀内一族、喜んで今川の門下に加わりましょう」


 彼らは、今川がこれまで造ってきた関船や安宅船を上回る、さらに大型で堅牢な船を造る技術があると言い切った。


(売り込みが上手い連中だな)


 氏真は心中で唸った。彼らは、昨年の今川軍による海路侵攻を目の当たりにしていた。雑賀衆や根来衆が今川の仕事を請け負い、信仰や自治を認められつつ、多大な銭と安全を手に入れた。


 その姿を見て、自分たちも、価値ある技術を切り札に、今川の傘下に入るのが最良の選択だと判断したのだろう。


 志摩から大阪湾に至る航路の中間に位置する彼らの拠点は、補給基地としても極めて重要だ。


「面白い。その提案、乗らぬ手はないな」


 氏真は即座に応じた。


 現在進めている岸和田城の改築や、雑賀港の拡幅工事においても、熟練の職人はいくらいても足りない。彼らを今川の技術体系に組み込めれば、将来的に瀬戸内海、あるいはさらに外海へと進出するための巨大な艦隊を保有することも夢ではない。


「まずは代表らを駿府にお招きしたい。その際、詳しい条件を詰めようではないか」


 氏真の言葉に、使者たちは安堵と期待の表情を浮かべた。


 武力で屈服させるのではなく、相手が欲しいものを提示してくるような状況を作り出す。氏真が撒き続けてきた経済の種が、海の向こうからも芽を吹き出していた。



 春が終わりに近づく五月。今川館に、能登の畠山修理大夫義綱からの使者が到着した。その内容は、実に保身に満ちたものであった。


「先の河内畠山家による不義理は、我ら能登畠山とは一切関係のないこと。何卒、寛大な御処置を願いたい」


 河内の畠山高政が久秀と手を組み、三好へと反旗を翻したことへの飛び火を恐れたのだ。能登の義綱は、同じ畠山一族でありながら、その責任をすべて河内に押し付け、自分たちは無関係だと主張してきたのである。


 これに対し、氏真の対応は冷徹であった。


「…河内との縁が無い、と申すか」


 氏真は届けられた書状を放り出すと、使者を冷たく見据えた。


「ならば、それは名門・畠山の血を自ら汚す行為に他ならぬ。一族の誇りがあるならば、不義理を働いた同族を諫めるか、あるいは自らが先頭に立って帝への忠義、そして今川への誠意を示すべきであろう」


 氏真にとって、畠山という家は名門としての価値があるからこそ生かしていたのだ。責任を逃れ、同族を切り捨てるような輩に、その看板を背負わせる価値はない。


「誇りなき名門に用はない。その手土産、そのまま持たせて突き返せ」


 氏真は使者を追い返した。


「予想通りの反応だが、譲るつもりはない。今川の理に従い、義務を果たせぬのであれば、その家を消すまでだ。…払わぬ者は、去る。それだけのことだ」


 かつての暗君であれば、名門というだけでへりくだったかもしれない。だが今の氏真は、新しい世のルールを自ら創る男だ。 古い権威にすがり、義務を怠る者への慈悲は、そこには微塵も存在しなかった。

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