表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/67

1563年冬

 美濃、岐阜城。かつての稲葉山城を岐阜と改めた織田信長は、凍てつく冬空の下、届いたばかりの書状を握りつぶしていた。


「…あの阿呆が。猿の分際で、気づけば紀伊で傭兵どもをまとめ上げておるとはな」


 信長の口から漏れたのは、呆れと、わずかな驚きであった。かつて自分の下で馬を引いていた木下藤吉郎、通称「猿」。駿府への使いに出したはずが、今や氏真の直臣として、紀伊の雑賀衆や根来衆といった一筋縄ではいかぬ連中を手懐けているという。 その主君である氏真からは、『三郎の秘蔵っ子を勝手に借りて申し訳ない』などという、殊勝な謝罪の文まで届いていた。


「当主というものが、簡単に家臣へ謝るな。舐められるだけだというに…」


 信長は鼻で笑った。だが、その瞳に宿る光は温かい。信長にとって、氏真という男は相変わらず理解しがたい存在であった。先の石山の戦いにしてもそうだ。一向宗という、戦国大名にとって最も厄介な敵を相手にしながら、氏真は最後に彼らを降伏させ、命を救った。


 信長であれば、迷わず根絶やしにしていただろう。反抗の芽は根こそぎ摘み取る、それが乱世の鉄則だ。


「奴は甘い。甘すぎる。力を示さねば、いつか必ず舐められる。舐められれば、付け入る隙を与える。そうなれば、簡単に命など爆ぜるのだぞ」


 信長は独りごちる。自分が仕えるに値すると認めた男が、その正しさゆえに身を滅ぼすことなど、この信長が許さない。だが、認めざるを得ない事実もある。氏真が次々に繰り出す策―複式簿記による財政管理、兵農分離による直轄軍の創設。それらは、数年前まで誰も思いつかなかったような、あまりに合理的で、かつ圧倒的な成果をもたらすものだった。


 たった数年で今川の勢力をここまで広げた手腕は、もはや神がかり的と言っていい。しかし、その統治はあまりに綺麗すぎるのだ。


 その証拠に、能登の畠山も伊勢の北畠も、いまだにのうのうと自領を保っている。今川の武力をもってすれば、一捻りで終わるはずの連中だ。


「…だが、その武力さえも、奴が戦わずして領土を広げたからこそ蓄えられたものか」


 農民は米作りに専念し、農繁期を問わずいつでも戦に出られる直轄軍。数がものを言う戦場において、これは最強の戦略だ。そしてそれを可能にしたのは、氏真がもたらした富である。信長は苦笑した。


 かつては自分こそが天下を統治し、新たな理を敷くのだと信じて疑わなかった。だが今、己の心に宿っているのは、氏真が創り上げる新時代がどのようなものになるのか、それを見届けたいという奇妙な期待感であった。


「仕方あるまい。あの甘さが通用せぬ、力でぶつかることを余儀なくされる相手が現れたなら…この儂が自らぶち殺してやろう。あの甘さを許し、守ってやれるのは、俺だけだ」


 氏真は、これまでのどんな武家とも、公家とも違う。常識も発想も、まるで異界のものだ。あるいは、数百年先の世界から来た未来人とでも言うべきか。


「予想を裏切られるというのは、悪くない」


 信長は空を仰いだ。新春の冷気が肺を満たす。


「新たな天下…少将。見せてもらおうではないか。俺がいる限り、負けさせはせぬぞ」



 甲斐、躑躅ヶ崎館。 かつて甲斐の虎、武田信玄が住まい、天下を睨んだこの館も、今は今川領甲斐の統治拠点となっていた。


 三月に一度の定例となっている領管と領管補佐による会議が終わり、甲斐領管補佐として会議を終えた武田義信は深い溜息をついた。武田家が今川に降ってから、早いもので四年の歳月が流れている。


「太郎殿、少々お疲れのようですな。茶を淹れさせましょう」


 声をかけたのは、信濃領管補佐を務める真田幸隆である。かつて信玄がその智謀を高く評価した男だ。


 二人は部屋の隅に座り、暖かい炭が赤々と燃える火鉢を囲んだ。かつての武田の冬といえば、常に死の影が付きまとっていた。薪を惜しみ、尽きかけた粥を啜りながら、春まで命が保つかを怯えて過ごす。それが甲斐の日常であったはずだ。


 だが、今の暮らしはどうだ。部屋には石鹸の清潔な香りが漂い、茶菓子として並んでいるのは塩をふんだんに使った漬物だ。内陸の甲斐や信濃にとって、塩は金にも勝る宝であったはずだが、今では当たり前のように食卓にある。


「…弾正、信濃の調子はどうだ」


「はっ。治水と新田開発の効果が、ようやく数字となって現れ始めました。収支は昨年の倍近くまで改善しております。民も、来年の種籾を心配せずに冬を越せると喜んでおりますな」


 幸隆は穏やかに語る。その顔には、かつて戦場で見せた鋭利な気配はなく、一人の有能な官吏としての落ち着きがあった。


「年々、日に日に…我らは牙を抜かれていくような気がするな」


 義信は自嘲気味に呟いた。 身体の芯まで冷えるような寒さも、飢えへの恐怖もない。今川が用意した安全という名の首輪。それはあまりにも心地よく、温かく、いつの間にか違和感すら感じなくなってしまっていた。


「父上が生きておられたら、今の我らを腑抜けと蔑んだだろうか。だがな、弾正。城下から聞こえる民の笑い声を聞くたびに、少将様への深い感謝と、父への申し訳なさが、胸の中で渦巻くのだ」


 義信の言葉に、幸隆は静かに首を振った。


「太郎殿。信玄公は確かに比類なき名将であり、立派なお方でした。しかし…もうあの時代に戻りたいと思う民も、兵も、もはやこの地には一人もおりませぬぞ」


 幸隆は漬物を一つ口に運び、続けた。


「兵農分離が進み、若者は戦に駆り出される恐怖から解放されました。冬を越せるか、塩が買えるか、そんな心配をする必要もない。野心では腹は膨らみませぬ。民を、一族を生き残らせるためには、この首輪こそが正解だったのです。これからも共に、今川の繁栄を信じ、支えようではございませぬか」


「…そうだな。我らはもう、独立した大名ではない。今川の武田であり、真田なのだ」


 義信は、湯気の立つ茶を一口飲んだ。熱い液体が喉を通り、腹の底を温める。かつての野望は、この温かな安寧の中に溶けて消えた。だが、それに代わる新しい誇りが、義信の中に芽生えていた。


「全力で、少将様に尽くすとしよう」


 甲信の地に、今川の支配を疑う者はもはやいない。 深い雪に覆われた山々の麓で、かつての虎の子らは、氏真がもたらした新しい理の中で、確かに未来を見据えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ