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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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武力と情報

1562年冬

 近江、観音寺城。その広間では、当主・六角義治が満足げに鼻を鳴らしていた。


「見たか。将軍家も朝廷も、この俺の忠義を絶賛しておられるぞ」


 手元にあるのは、将軍・義輝からの御内書と、朝廷からの感謝の意を示す書状である。


 昨年の遠征において、六角軍は、勅命を果たした義勇軍の一翼として動いた。義治はその功績を盾に、自身が六角家の正当な当主であることを内外に認めさせるべく、今川家から支援された膨大な遠征費のほとんどを献金に注ぎ込んだのである。


 将軍・義輝からすれば、思わぬ小遣いが転がり込んできた形だ。幕府の権威回復に汲々とする彼にとって、惜しみなく銭を差し出す義治は、実に見上げた忠臣に映ったことだろう。朝廷もまた同様である。慢性的な財政難に喘ぐ公家衆にとって、六角からの献金は天の恵みであった。


 だが、その銭の出どころを知る者たちの心境は、これとは真逆であった。


「…あれは、今川殿が我が家の兵たちのためにと、わざわざ融通してくださった銭ではないか」


 影で声を潜めるのは、六角家の宿老たちである。


 今川家は、疲弊した六角の家臣や兵の労をねぎらうため、そして戦後処理を円滑に進めるための慰労金として銭を与えたのだ。それを義治は、家臣の生活や軍備の補填に回すどころか、己の虚栄心と地位保全のために使い果たした。


「今川の殿は、名声よりも実利を、そして何より家臣や民の安寧を優先されると聞く。それに引き換え、我が主は…」


 重臣たちの中に渦巻く不満は、もはや無視できないほどに膨れ上がっていた。彼らにとって、義治の振る舞いは、主君の器を疑わせるに十分なものだった。


 今川との連絡役を務める平井定武は、冷徹な目でこの光景を見つめていた。定武は密かに駿河へ向けて密書をしたためる。


『六角家臣団の我慢は、もはや限界に近づいております。主君の独断専行は、家中を真っ二つに割りかねませぬ。我ら平井一派としても、これ以上の随行は困難かと愚考いたします』


 今川の銭が、皮肉にも六角家の内部崩壊を加速させる毒となっていた。



 一方、今川館。六角の騒乱とは対照的に、そこには活気と、ある種の緊張感が漂っていた。


「…さて、側近や小姓が足りなくなってきたな」


 氏真は、机の上に広げた人事案を眺め、ふうと息を吐いた。 腹心の朝比奈泰勝は北伊勢領管補佐として赴任し、明智光秀は畿内の差配で不在がちだ。手足となって動く若手が不足している。そんな折、各地から推薦が届いていた。


「失礼いたします。本多平八郎忠勝、参上いたしました!」


 廊下まで響くような大声と共に現れたのは、北伊勢の松平元信が強く推してきた若者だ。元信の書状には「算術や法度は不得手ですが、忠誠心と身体の強さは群を抜いております。必ずや殿の盾となりましょう」と、最大限の賛辞が並んでいた。 目の前に平伏した忠勝は、若さに似合わぬ凄まじい威圧感を放っている。


「平八郎、よく来た。次郎三郎からの話は聞いているぞ」


「はっ! この平八郎、この命を捨ててでも、殿をお守りいたします!」


 迷いのない言葉に、氏真は思わず苦笑した。


「見上げた忠義だ。頼もしいな。…だがな、平八郎。これからの時代は槍を振るい、主君のために散ることだけが華ではないぞ」


「…は?」


 きょとんとする平八郎に、氏真は人差し指を立てて告げた。


「お前には、私の下で銭の動きを学んでもらう。腹が減っては戦はできぬし、銭がなければ兵も動かせぬ。これからは算盤も武器になるのだ。しかと学ぶがよい」


「は…ははっ! 承知いたしました!」


 困惑しながらも、全力で返事をする忠勝。今川の最強の武が、今、経済という名の未知の戦場に放り込まれた瞬間だった。


 さらに、もう一人。懐かしい顔が氏真の前にいた。


「真田源五郎、ただいま戻りました」


 かつて武田からの留学生—実態はスパイとして送り込まれた少年、源五郎である。現在は信濃で父・真田幸隆と共に活躍していたようだが、幸隆から「ぜひ再び殿の傍で学ばせてほしい」と依頼があったのだ。


「源五郎。信濃との連絡役として、再び私の傍に置くことにした。お前には左京亮の下で、諜報や情報の扱いを学んでもらう。これからは情報の速さが勝敗を決するからな」


「ありがたき幸せに存じます」


 源五郎の瞳には、かつての幼さはなく、鋭い知性の光が宿っていた。 氏真は満足げに頷くと、彼に新たな名を与えた。


「戻るにあたって元服としよう。正式な元服の儀は後日行うが、まずはこれからは『真田源五郎昌幸』と名乗れ」


「昌幸…。生涯、大切にいたします」


 後に天下を震撼させる表裏比興の者・真田昌幸。彼もまた、氏真という特異な主君の下で、その才能を歪な、しかし強固な形へと昇華させようとしていた。 新旧の才能が交差する今川の城内。年末の冷たい風が、未来を運ぶ追い風のように感じられた。

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