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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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誓い

1562年冬

 美濃の山々は白く化粧を始め、吹き抜ける風は肌を刺すほどに鋭い。かつて北近江の主となるはずだった浅井長政は、今川家臣・織田信長の指揮下で直轄軍の隊長としてこの地にいた。


「はあぁぁっ!」


 鋭い気合と共に、長政の木刀が空を裂く。美濃領管である信長の下、長政は己を律するように稽古に明け暮れていた。先の石山の戦いでは、獅子奮迅の働きを見せ、その名は今や今川軍の中でも猛将として知れ渡っている。だが、彼は決して驕らなかった。


「…まだ、足が甘いな」


 独りごちて汗を拭う。そんな彼を、少し離れた場所から見守る視線があった。


「新九郎、相変わらず精が出るな。貴様のその愚直さだけは、見ていて飽きぬ」


 声をかけたのは信長だ。その瞳には、実の弟を慈しむような、それでいて厳格な師のような光が宿っている。


「三郎様。…お恥ずかしいところを」


「ふん、謙遜は無用だ。貴様の槍が石山でどれだけの今川の将兵を救ったか、少将も高く評価していたぞ。だが、体は資本ぞ。あまり根を詰めすぎるな」


 信長が歩み寄ろうとしたその時、背後から鈴の鳴るような、透き通った声が響いた。


「お兄様、新九郎様。お稽古の最中に失礼いたします」


 振り返れば、そこには雪の妖精かと見紛うばかりの美少女が立っていた。信長の妹、お市である。彼女は盆に載せた温かな手ぬぐいを、まず信長に、そして少し頬を赤らめて長政に差し出した。


「新九郎様、あまり無理をなさってはお体に障りますわ。これを」


「あ…、は。かたじけなく存じます」


 手ぬぐいを受け取る際、指先がかすかに触れた。長政は心臓が跳ねるのを感じ、思わず言葉を失った。冬の寒さを忘れさせるような、お市の柔らかな微笑み。そのあまりの美しさに、長政はただ見惚れるしかなかった。


(…いや、私のような男が)


 ふと、胸の奥に冷たい澱のような罪悪感が首をもたげる。 長政には、かつて妻がいた。六角家から迎えた娘、綾である。六角からの独立を果たした際、彼は断腸の思いで彼女を離縁し、六角へと送り返した。


 反逆の汚名を着る自分に、彼女を巻き込むことはできなかった。彼女を不幸にした私が、誰かと結ばれるなど許されるはずがない。その思いが、長政の心に堅い鍵をかけていた。



 数日が過ぎたある日のこと。信長に呼び出された長政は、衝撃的な言葉を投げかけられた。


「新九郎、単刀直入に言う。市を、貴様に娶らせたい」


「なっ…!?」


 長政は心臓が口から飛び出すかと思った。しかし、すぐに首を振った。


「三郎様、身に余る光栄…。しかし、私にはその資格がありませぬ。私はかつて、自らの都合で妻を捨てた男。そのような不誠実な者に、市様を幸せにする権利など…」


「…っははははは!」


 信長は腹を抱えて笑い飛ばした。


「馬鹿め、何を引きずっておる。少将が言った言葉を忘れたか? 『過去に縛られる者は、未来を拓くことはできぬ』と。それにだ、貴様が案じているその娘はな、今や、朝比奈家の男と縁を結んだと聞いている。少将が仲介したそうだ」


「朝比奈様の…。弥太郎様、ですか?」


「左様だ。少将の小姓を務める、あの若造よ。貴様よりよほど、少将の言う自由な世に近い男だ。二人はは穏やかに暮らしておるという。貴様が気に病むことなど、何一つないのだ」


 長政は呆然とした。自分が後悔し、責め続けていた過去は、氏真の手によって既に救われていたのだ。自分が傷つけた女性が、幸せになっている。その事実が、長政の心の鍵を静かに解いた。


「…朝比奈様ならば、私などよりよほどの良縁。…良かった、本当に」


 少しだけ苦笑を漏らし、長政は深く頭を下げた。


「三郎様。この縁談、謹んでお受けいたします。この命に代えても、市様をお守りいたします」


 ここに、後に戦国一の美女と謳われるお市と、義の将・浅井長政という、新しい時代の風を象徴する一組の夫婦が誕生したのである。



「…北伊勢領管補佐、謹んで務めさせていただきます」


 氏真の私室で改めて辞令を聞いた時、朝比奈泰勝は不安を感じていた。朝比奈家といえば今川の中では名門であるが、自分は本家ではなく、それにまだ若輩の小姓に過ぎない。しかも、同時にもたらされたのは、あの六角家から戻っていた綾殿との縁談であった。


「弥太郎、不安か?」

 氏真が、いつものように穏やかで、それでいて全てを見透かすような眼差しで問いかけた。


「は…。正直に申し上げれば、喜びよりも、務まるだろうかという不安が勝っております。私は殿のように広く深い知識も、人を惹きつける器もございませぬ」


「ふふ、私と比べる必要はない。弥太郎、お前に期待しているのは、私の真似事ではない。お前自身の誠実さだ。綾殿を幸せにすること、それがお前の最大の任務だと言ったであろう」


 氏真はそう言って、悪戯っぽく笑った。


(殿に比べれば、俺なんて本当にちっぽけだ)


 泰勝は自嘲気味に笑った。だが、同時に胸の奥に熱い火が灯るのを感じた。


(だが、一人の女子を幸せにできないほど、狭量な男でもないはずだ)



 後日、顔を合わせた綾は、確かに美しかったが、どこか影があるように見えた。一度は離縁され、戻ってきた身。その瞳には、喜びや期待よりも、「申し訳ない」という深い謝罪の念が浮かんでいるようだった。


(…この時代、離縁など珍しくもない。だが、当事者にとってはこれほどまでに傷つくことなのか)


 泰勝は、氏真が常々口にしている言葉を思い出した。


「誰もが自由に恋愛をし、自由に相手を選べる社会が来るといいな」


 それを聞いた時、泰勝には夢物語のように聞こえたが、目の前の、震えるように俯いている綾を見て、泰勝は心の底からその言葉に共感した。


「綾殿」


「…はい」


「俺は、殿のように立派なことは言えません。北伊勢の政も、手探りになるでしょう。ですが」


 泰勝は彼女の細い手を、力強く、それでいて優しく包み込んだ。綾が驚いて顔を上げる。


「俺は、あなたを全力で守ります。前の夫がどうだったか、そんなことはどうでもいい。ただ、弥太郎と結婚して良かったと、いつか笑って言わせてみせる。…前の男のことなんて掃いて捨てて、俺のことしか考えられなくなるくらいにな」


 綾の瞳に、初めて小さな光が宿り、やがて大粒の涙が零れ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、凍てついた心が溶け出した証だった。


「男、朝比奈弥太郎泰勝…一世一代の大勝負だな」


 独りごちて、泰勝は凛と前を向いた。北伊勢の冬は寒かろうが、隣にいるこの人を温めることくらいはできる。 殿が創ろうとしている新しい世。その一隅で、自分は自分の守るべきものを守り抜こうと、泰勝は固く誓ったのである。

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