乖離
1562年秋
氏真は、手に入れたばかりの畿内の領土の差配について、大胆な決断を下していた。
明智光秀。この理知的で教養深い男を、畿内全体の総督に任命したのである。
「十兵衛、岸和田城の改修、雑賀港の拡幅、そして水軍拠点の造船…すべて貴殿に任せる。堺や山城の屋敷の差配もだ。貴殿のような文化人ならば、気難しい京や堺の連中とも上手くやってくれるだろう」
軍事力については、当面は駿河からの直轄軍を送るが、氏真は現地雇用を優先するよう命じた。今回の戦で主を失った浪人たちは数多い。彼らを今川の正規軍として取り立てれば、即座に質の高い兵力が手に入る。
そして、その補佐として氏真が選んだのは、偶然の産物か、光秀の隊に紛れ込んでいた木下藤吉郎であった。
「驚いたことに、雑賀衆や根来衆はすでに藤吉郎の虜らしい。あの人心掌握術…十兵衛、あやつを橋渡し役として使いこなせ。三郎の次は、十兵衛のもとで官僚としてのイロハを学ばせるのだ。信長には、後で極上の茶器でも贈って謝っておく」
光秀という静と、藤吉郎という動。この組み合わせこそが、畿内という魔境を統治するための氏真の答えであった。
留守居役であった三浦正俊からの報告を受け、氏真は改めて今回の遠征の成功を確信した。
九鬼水軍が伊勢を離れた隙を突き、北畠具教が不穏な動きを見せたようだが、松平元信が素早く察知。「これ以上動けば、朝廷に弓引く逆賊となるぞ」と恫喝に近い警告を与えたことで、北畠は即座に兵を引いた。
加賀の一向門徒についても、石山への支援を叫ぶ過激派がいたものの、氏真が確立した今川の安定を享受する穏健派の門徒たちによって、内々に処理されたという。
「終わってみれば、わずか二ヶ月余りか。畿内まで出向いたことを考えれば、あっという間の幕引きだったな」
浅井長政という頼れる若き隊長が成長し、光秀という新たな統治の柱が立ち、さらには朝廷からの最大の守護者というお墨付きまで得た。
氏真は、冬の澄んだ空気の中で、駿河の地を踏みしめた。 松永久秀という影を消し去った今、日ノ本の中心に空いた巨大な空白。そこを埋めるのは、武力という暴力ではなく、今川がもたらす利と秩序でなければならない。
「さあ、次は近江だ」
氏真の脳内では、すでに次の算盤の音が鳴り響いていた。
氏真が帰国してすぐに行ったのは、畿内と北陸に割拠する名門、畠山家への働きかけであった。今回の戦において、松永に荷担し、あるいは中途半端な立ち回りで戦況を混乱させた河内畠山家とその縁戚である能登畠山家。氏真はこの両家に対し、「此度の戦の事後処理について、少々問い質したいことがある」として、使者を寄越すよう公式に求めた。
冬が始まる間際、慌てた様子の両家から重臣たちが駿府へと足を踏み入れた。河内からは家老の遊佐河内守教頼。能登からは能登七人衆の一人として知られる長対馬守為連。いずれも当主の代行として、家中の命運を背負っての来着であった。
「冬も間近なこの折に、わざわざ遠路お越しいただき、誠に恐縮である。今日は堅苦しい話抜きで、まずは酒宴を楽しんでいただこうと思ってな」
氏真は、暖かな広間で二人を温かく迎えた。 案内された広間は、まさに異国情緒と伝統が融合した豪華絢爛な空間であった。
卓に並ぶのは、駿河の豊かな海と山から集められた極上の幸。そして、清潔な石鹸の香りが微かに漂っている。駿府の衛生管理の行き届いた環境に、北陸や畿内の荒廃した情勢から逃れてきた二人は、圧倒されるしかなかった。
「…これが、今川の繁栄か」
遊佐教頼が思わず独り言を漏らす。長為連も、出された澄み切った酒を一口含み、その雑味のなさに目を見開いた。
宴が進み、豪華な食事と酒によって二人の警戒心が解け始めた頃、氏真は談笑の合間に、まるで明日の天気を占うような気軽さで切り出した。
「そうそう、忘れぬうちに伝えておかねばならぬことがあった。松永との戦の結末、当然ながら両家も聞き及んでいよう」
二人の箸が止まる。
「あの戦で、畿内は甚大な被害を受けたのだ。帝も心を痛めておられる。ついては、朝廷を支える名門たる畠山家にも、その復興の一翼を担っていただきたいと考えておる。額としては…そうだな、両家それぞれに三万貫の支払いを頼みたい」
三万貫。その途方もない金額に、二人は言葉を失った。今の畠山家に、そのような大金を用意する余力などない。しかし、氏真は彼らの動揺を見透かしたように、穏やかな笑みを絶やさなかった。
「ああ、案ずることはない。額が額だ、一度に払えとは言わん。まずは今川が全額を立て替えよう。両家には利息も取らぬし、いつになっても構わぬ。気長に今川へ返してくれれば良いのだ。これは帝への忠義の証だ。名門畠山の名が、反逆者の荷担者などと疑われぬよう、私なりの配慮だと思ってくれ」
氏真が合図をすると、傍らに控えていた林秀貞が、そっと数枚の書状を差し出した。
「ご参考に。こちらが今後の返済計画の一案にございます」
そこに記されていたのは、確かに長期にわたる分納案であった。
「お主らのような話の分かる者ならば、この真心を理解してくれよう。帰ったら当主へ、今川は畠山を救おうとしているのだと伝えてくれ。さあ、どうぞ一杯」
あまりにも軽い口調。怒りの色は微塵も感じられない。遊佐と長は、心の底から安堵した。
(今川は怒っていない。それどころか、名門の威信を守るために無利息で肩代わりまでしてくれるとは…)
酔いの回った頭で、彼らは、今川は自分たちの味方であるという誤った確信を抱き始めていた。
「ところで、お主ら、しばらくはここに滞在する予定であろう? 特に長殿、能登までの冬の山越えは身体に堪える。いっそ春になるまで、ここ駿府でゆるりと過ごされてはどうだ? 遊佐殿も、河内の騒がしさを忘れて羽を伸ばされると良い」
氏真のこの上ない配慮に、二人は、これ幸いとばかりに申し出を快諾した。こうして、畠山家の情報を握る重臣二人は、駿府という黄金の籠に留まることになったのである。
宴が終わり、客人が下がった後の静まり返った広間。氏真の表情から柔和な笑みが消え、冷徹な統治者の顔が戻っていた。彼は控えていた林秀貞と富士信忠に、低く冷たい声で指示を飛ばした。
「新五郎。定期的に両家へ督促状を送れ。内容は簡素で良い。ただ、今川は正当な権利として請求を続けている。という事実を文面に残し続けろ。それが後に、法的に彼らを縛る鎖となる」
「はっ。承知いたしました」
「左京亮。商人たちに噂を流せ。今川は、此度の戦での畠山の立ち振る舞いに激怒している。いつ領地を没収されてもおかしくない、とな。…商人の往来が減れば、河内も能登もますます貧しくなろう。当然、三万貫の支払いは滞るはずだ」
信忠は無言で頷く。
「彼らは、帝への不敬、あるいは支払いの不履行という理由を自ら積み上げていくことになる。じわじわと真綿で首を絞めるのだ。息が詰まっていることさえ気づかせぬほど、じわじわとな」
氏真の策は、時間をかけて相手を内側から腐らせるものであった。重臣である遊佐と長が駿府で優雅に過ごしている間、本国の家臣たちの間では不安が広がるだろう。「今川は怒っているらしい」という商人の噂と、氏真から届く督促状。そして、それを「問題ない」と軽く報告する、現場を見ていない重臣たち。
この情報の乖離が、やがて畠山家の中に深刻な疑心暗鬼を生む。
「真実を悟り、情報の重みを知るのは誰か。そして、崩壊する畠山を見捨てて、誰が最初に今川に付くと声を上げてくるか…」
氏真は、窓の外に広がる冬の夜景を見据えた。今川の算盤が弾き出したのは、武力を使わずに一国を解体する、残酷なまでの合理性であった。名門畠山家の黄昏は、この駿府の豪華な酒宴の席から、すでに始まっていたのである。




