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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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帰還

1562年秋

 御所の奥深く、凛とした静謐が支配する広間で、氏真は義元がと共に平伏していた。簾の向こうには、日ノ本の頂点に座す帝・正親町天皇の気配がある。


「お初にお目にかかります。今川左近衛少将氏真でございます」


「今川権中納言義元でございます」


 親子の声が、磨き抜かれた床に低く響く。氏真は懐から書状を取り出し、今回の遠征の結果を奏上した。


「此度は、勅命をいただきました松永討伐のご報告にあがりました。松永弾正、並びに下間刑部はすでに果て、石山の反乱も収束いたしました。これにて畿内の憂いは一掃されたかと存じます」


 簾の向こうから、重みのある言葉が降りてくる。


「…うむ。大義であった」


「勿体なき御言葉。京の静謐に微力ながら貢献できましたこと、臣としてこれ以上の喜びはございませぬ。して、願いますれば…二度とこのような不届き者が現れぬよう、山城の地に今川の屋敷を建てさせていただきたく存じます。帝を、そして朝廷を未来永劫お守りするための拠点として。三好殿からは、既にお許しをいただいております」


 帝はわずかな沈黙の後、深く頷かれた。


「うむ。よろしく頼む」


「はっ。ありがとうございまする」


 氏真と義元が同時に頭を下げる。それは、今川家が公式に京都の軍事警察権の一翼を担うことを朝廷に認めさせた瞬間であった。


「…褒美をやらねばならぬな」


 帝の問いに、義元が静かに、しかし毅然と答えた。


「勿体なき御言葉なれど、謹んで辞退させていただきまする。我らは朝廷の守護。京の安定こそが最上の報酬にございます。此度の遠征は当然の務めであり、見返りを求めるものではございませぬ」


 その無欲な姿勢に、帝は感銘を受けたようであった。


「…無欲なのであるな。今後とも、朝廷の最大の守護者として、よしなに頼む」


 その一言に、氏真の背筋に熱いものが走った。最大の守護者。それは、名ばかりの室町幕府、家格はあれど内紛の絶えない足利、そして実力はあれど正統性に欠ける三好を、朝廷が今川の下に置いたことを意味していた。


 金があり、武力があり、そして何より家格と理がある。今や朝廷からすれば、今川こそが日ノ本を支える真の柱なのだ。


(父上…これは誰にも言えませぬな)


(うむ…公方様も、三好も、これを聞けば顔を青くしよう)


 親子の間に流れる無言の合意。足利を身内に抱えながらも、真に朝廷を支えているのは我らだという自負。今川を、ただの大名から王道の守護者へと昇華させる、二人だけの秘め事であった。



 赤く染まった近江の山々を眺めながら、今川の軍勢は帰路に就いていた。休息中の兵の中に、六角家の重臣・平井定武の姿があった。


「少将殿、此度は誠にありがとうございました。今川の戦、その凄まじさ…身にしみて理解いたしました」


 定武は、氏真の隣に歩み寄り、心底感服した様子で語りかけた。


「いえいえ。急な誘いに応じてくださった加賀守殿のおかげでしょう。…さて、加賀守殿。難所を共に乗り越えた戦友として、少し個人的な話をしてもよろしいかな?」


 氏真は柔らかな笑みを浮かべ、傍らに控える若き小姓を呼んだ。朝比奈泰勝である。


「この弥太郎に、加賀守殿の娘御を嫁がせてもらえないかと考えております」


 定武は絶句した。 彼の娘、「綾」は、かつて浅井長政に嫁いでいた。しかし長政が六角から独立した際、離縁され、実家へと送り返された悲劇の女性である。六角承禎は、浅井に裏切られた腹いせに、役に立たなかった嫁として彼女を、そして平井家を冷遇し始めていた。


「弥太郎は、私の弟のような存在です。此度の戦の後、彼を北伊勢の領管補佐として任じ、常駐させるつもりです」


 氏真の狙いは明白だった。泰勝を六角の重臣である平井家と結ばせ、さらに近江に近い北伊勢に配置する。これにより、六角家の内部情報を平井家経由で直接吸い上げ、同時に平井家を今川の強力なシンパへと変貌させる。


「弥太郎、よいな? 加賀守殿の娘御を、何よりも幸せにするのだ。それが主君としての、そして兄としての私との約束だ」


「はっ! この朝比奈弥太郎泰勝、命に代えましても!」


 泰勝の力強い返答に、定武の瞳が潤んだ。政略結婚でありながら、氏真は「幸せにしろ」と言ったのだ。冷遇されていた自分たち親子に、これほどの救いがあるだろうか。


「加賀守殿。これでもう、我らは他人ではありません。六角家内で困ったことがあれば、いつでも弥太郎を通じて私を頼りなさい。全力で支えましょう」


「…有難き幸せ。この平井加賀守定武、今川家への恩、生涯忘れることはありませぬ」


 それは、大名同士の婚姻ではない。あえて重臣同士の縁組にすることで、六角承禎の警戒を逸らしつつ、その足元を確実に切り崩す一手であった。


(承禎殿は、頭越しに話をまとめられたと嫌がるだろう。だが、一度味わった恩義と幸福は、いかなる権力よりも重い)


 氏真は、秋風に舞う落ち葉を見つめながら、六角家という大樹が内側から蝕まれていく未来を、冷静に計算していた。畿内を制した氏真の算盤は、すでに次の東国の盤面へと向かっていた。



 城内に入り、氏真が真っ先に向かったのは、愛する妻・早川殿と息子の龍王丸が待つ奥の間であった。鎧を脱ぎ捨て、旅の塵を払った氏真の前に、一月前よりも少し背が伸びたような龍王丸が駆け寄ってくる。


「待たせたな。なんとか約束通り、本格的な冬が来る前に帰ってこられたぞ」


 氏真が龍王丸を抱き上げると、早川殿が柔らかな笑みを浮かべて出迎えた。


「お帰りなさいませ、殿。戦勝の報せは聞き及んでおりましたが…こうして無事なお顔を拝見するまでは、生きた心地がいたしませんでした。本当にお疲れ様でございました」


「ああ。今回は…正直、綱渡りのような場面もあったが、なんとか勝利を収めることができた。こうして家族の顔を見ると、ようやく肩の荷が下りる思いだよ」


「しばらくは、政務も戦も忘れて、ゆっくりとなさってください」


 早川殿の慈しみ深い言葉に、氏真は心の底から安堵を覚えた。しかし、天下を動かす当主にとって休息という言葉は、束の間の夢であることを彼は知っていた。



 翌朝、氏真を待ち構えていたのは、顔を青くした林秀貞であった。彼は今川の経済中枢を担う実務家だが、その手元にある大福帳には、恐ろしい数字が並んでいた。


「…殿、此度の遠征。随分と派手に銭を使われましたな」


 秀貞の冷ややかな声が、広間に響く。


「どうしてこれほどまでに…。堺での買い占め、雑賀・根来への契約金、さらには六角家への遠征費肩代わり。とんでもない出費でございますよ。蔵の底が見えかねませぬ」


「そう言うな、新五郎。銭というものはな、蔵に貯めておくだけではただの金属の塊だ。停滞すれば経済は死ぬ。今回は、三好を救い、松永を討つという大目的のために必要な投資であったのだ」


「投資、でございますか。殿、銭を領内で回すのであれば、税として戻りもございましょう。しかし、今回消費された莫大な銭のほとんどは畿内に落ち、東海道には戻ってまいりませぬぞ。これは純然たる出費でございます」


 氏真は苦笑しつつ、地図を広げた。


「その通りだ。だからこそ、ここからが本番なのだよ。紀伊に港を手に入れ、堺にも拠点を確保した。西の海路と陸路を今川が握ったのだ。これからは、そこを拠点に西で大稼ぎをし、失った銭を倍にして駿河へ引き戻す。新五郎、腕の見せどころだぞ」


「…全く。殿の大きな絵図には、いつも私の寿命が縮まる思いです。分かりました、西の利権、逃すわけにはいきませぬよ」


 氏真の頭痛の種は、敵軍よりもむしろ、身内の有能な官僚たちの突き上げであった。

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