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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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安定

1562年夏

 義元率いる今川本隊は、勝利の余韻を背負い、一足先に駿河への帰路に就いた。戦場には、今川の足としての役割を完遂した浅井長政隊と森可成隊が残り、荒廃した陣跡の整理や戦後処理に奔走している。彼らもまた、氏真の用事が済み次第、共に東へと帰ることになる。


 飯盛山城の一室。そこには、畿内の未来を左右する三人の男が集まっていた。今川氏真、三好長慶、そして六角家を代表する平井定武である。


「まず、最も懸念される石山の地についてですが…」


 氏真は、地図上の石山を指した。血に染まったその地をどう扱うか、それがこの会談の最初の議題であった。


「石山は、三好殿に献上いたしたく存じまする」


 長慶が驚きに目を見開いた。石山は今や、今川の圧倒的な武力と財力によって手に入れた果実である。それをそのまま返そうというのだ。


「三好の領国は四国から淡路、そしてこの畿内へと広がっております。石山はその中枢を繋ぐ要石。もしここを今川や六角が領せば、三好家は東西に分断され、連絡を絶たれることになる。それでは、畿内に再び混乱の火種を撒くようなものです。三好家が安定することこそが、今川、六角にとっての利益でございます」


 氏真の言葉には、私欲を超えた、広域安定という確固たる理があった。今回、丹波の内藤宗勝を失い、支配力に影が差した三好家にとって、石山の確保は家門維持のための生命線であった。長慶は深く頭を下げ、その配慮に感謝を示した。


「代わりと言っては何ですが、今川からは三つ、お願いがございます」


 氏真は指を三本立てた。それは、一見ささやかな要求に見えて、今川の支配力を畿内に浸透させるための極めて緻密な戦略であった。


「一つ目は、堺の町に今川の屋敷を建てる許可をいただきたい。先の戦に際し、私は堺の商人たちに『駿河の産品を優先的に流す』と約束いたしました。交易の拠点としての拠点が、どうしても必要なのです」


 長慶は二つ返事で頷いた。今川という巨大な市場と直接繋がれることは、三好領内の経済活性化にも繋がる。


「二つ目は、山城にも屋敷を建てる許可をいただきたい。松永のような者が再び現れ、帝に危険が及ぶことは避けねばなりませぬ。三好殿の軍事力が回復するまでの間、警護の重責を共に担わせてください」


 これも拒む理由はなかった。朝廷の警護は名誉であると同時に重い負担でもある。今川がそれを分担するという申し出は、疲弊した三好家には渡りに船であった。


「そして三つ目、これが本命にございます。岸和田を今川の領土として、私に預けていただきたい」


 この要求には、一瞬の静寂が流れた。岸和田は、長慶の弟・安宅冬康が治めていた地である。


「あそこは石山と雑賀・根来の間に位置する緩衝地帯。筑前守殿亡き後、小競り合いが続いていると聞きます。修理大夫殿にとっては弟君の仇とも言える雑賀らと隣接する地。本来なら仇討ちを望まれるところでしょうが…今の三好家に、新たな戦を始める余力はありますまい。なれば、私が間に入り、彼らに睨みを効かせましょう。不毛な争いを防ぐための盾に、今川を使いなされ」


 長慶は震える声で、「…かたじけない」と絞り出した。もし今川がいなければ、自分は今頃四国へ逃げ帰っていたかもしれない。三好家を救った恩人の申し出を、断れるはずがなかった。



 続いて、六角家の平井定武が口を開いた。


「我ら六角は、此度は大した戦働きもしておりませぬ。朝廷に恩を売れた、それだけで十分な報酬にございます」


 実利を求めぬ定武の謙虚さは美徳であったが、氏真は首を振った。誘っておきながら無報酬というのは、今川の流儀に反する。


「左様なことは仰いますな。今川から六角家へ、今回の遠征費のすべてを支払わせていただきます。もし六角家として受け取れぬと仰るなら、加賀守殿、貴殿の懐に入れてくだされ。貴殿個人への礼としてな」


「…ははっ、そこまで仰るなら、六角家としてありがたく頂戴いたします」


 定武は苦笑しながら応じた。この銭があれば、北近江の復興も進められるだろう。


 長慶もまた、「戦後の復興を優先させていただくため、銭の支払いは遅れるが、必ず…」と申し出たが、氏真は「気長に待ちましょう」と微笑んでそれを受け流した。



 三好・六角との協議を終えた氏真は、紀伊に向かい待つ鈴木孫一と津田監物と相対した。


「三好殿との話し合いで、岸和田は私が治めることになった。これで貴殿らと三好の間に今川が入る。余計な争いに巻き込まれる心配はなくなるはずだ」


 孫一と監物は、安堵の色を浮かべた。彼らにとって三好家との因縁は火種でしかなかったからだ。


「さて、これからについてだ。二人が良ければ、今後も継続的に手を取り合いたい」


 氏真は、二人をただの戦争屋としてではなく、今川の経済圏に組み込むための提案を始めた。


「雑賀衆、貴殿らには雑賀港を共同で管理させてもらいたい。決して利益を奪うためではない。九鬼水軍や駿河の船団と連携し、交易船の護衛と大阪湾の監視を担う、共同水軍を作りたいのだ。岸和田に軍港を作れば三好に警戒されるが、雑賀の港なら角が立たん。共に開発を進めよう」


「根来衆には、駿河の今川学問所に何人か知識人を送ってほしい。貴殿らの持つ技術や知識を次代へ伝えてもらう。それに加え、畿内から駿河に至る陸の交易路の護衛と、難所越えの補佐を頼みたい。商いの規模が広がれば、護衛の仕事は無限に増えるぞ」


 戦時だけでなく、平時においても継続的な収入を保証する。それは、銭という名の見えない鎖で彼らを縛り付けることに他ならなかった。他所に稼ぎに行かせる隙を与えず、今川の理の中に彼らの生活を溶け込ませる。


「…よろしく頼むぞ。貴殿らの技術は、日ノ本の静謐に不可欠なのだ」


 氏真の言葉に、二人の頭領は力強く頷いた。 武力で屈服させるのではなく、利をもって共生する。氏真の算盤は、戦後の畿内に、かつてないほど盤石な安定をもたらそうとしていた。

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