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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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狂言

1562年夏

 石山本願寺の最も深い奥の間。外界の喧騒が嘘のように静まり返ったその部屋で、松永久秀は下間頼廉らと対峙していた。


 盤面を切り崩す策を練り始めて、すでに数日が経過していた。しかし、議論を重ねれば重ねるほど、自分たちが陥っている沼の深さを思い知らされるだけであった。どのような奇策を案じようとも、氏真が張り巡らせた利と理の網に、指一本かけることすら叶わない。


「…弾正殿」


 沈黙を破ったのは、本願寺の軍事指揮官である頼廉であった。その声には、怒りや憎しみではなく、ただ深い諦念が混じっていた。


「貴殿の策は、決して劣ったものではなかった。三好を内から壊し、近隣を抱き込み、機を待つ。それは乱世における正道であったろう。…だが、相手が、今川が、我らの一枚も二枚も上手であったのだな。もはや、この石山に退路はあるまい。いかがなされるおつもりか」


 久秀は、薄暗い部屋の隅を見つめたまま、力なく鼻で笑った。


(今川左近衛少将氏真…。畿内にまでその辣腕が届いているとは聞き及んでいたが、これほどまでとは)


 久秀自身、自らを理の人間だと思っていた。古い権威を否定し、実力と合理性で天下を掴もうとする先駆者のつもりであった。だが、氏真が行っているのは、その久秀の志を遥かに凌駕する、新たな世界の創造であった。圧倒的な資本をもって敵を無力化し、宗教の自治さえも経済の歯車として組み込んでいく。その振る舞いは、もはや嫉妬や怒りを超え、久秀の心に畏怖という名の楔を打ち込んでいた。


「某が、そなたら本願寺の門徒の助命を嘆願いたそう」


 久秀は静かに、しかし決然とした口調で切り出した。


「此度の戦、すべての責めは私の独断にある。本願寺は、松永の野心に巻き込まれたに過ぎぬと、そう言い張るのだ。略奪した銭を返すことはできぬが、幸い今川は富んでいる。氏真という男、一向門徒であっても理に従う者には領の門を開いていると聞く。今川が勝者となる以上、無意味な殺戮はせぬはずだ」


 頼廉は久秀を見つめ、静かに首を振った。


「左様か。…だが、弾正殿。我ら本願寺の人間も、結果として帝に背いた身。貴殿一人の首では、あの今川権中納言の、そして左近衛少将の納得は得られまい。…私の首も差し出そう」


 驚きに目を見開く久秀を制し、頼廉は続けた。


「強硬派の顕如様らが生き延びれば、たとえこの石山を失おうとも、本願寺の教えが消えるわけではない。教えさえ残れば、またどこかで息を吹き返すこともできよう。私とそなたの二人の首をもって、門徒たちの命を買う。それが、この理詰めの戦における、唯一の対等な取引ではないか」


 梟雄と呼ばれた松永久秀と、法のために剣を振るった下間頼廉。かつて天下を揺るがそうとした二人は、今、初めて同じ場所に立っていた。それは、氏真という巨大な理の前に屈した敗者の場所であり、同時に、次代へと命を繋ごうとする守護者の場所でもあった。



 石山の門が開き、二人の男が歩み出た。久秀と頼廉。死を覚悟した降伏の儀。武器を持たぬその姿に、包囲する今川の将兵も一瞬、殺気を緩めた。しかし、それは稀代の梟雄、久秀が描いた最期の狂言であった。


 今川の本陣まであとわずかという距離。久秀の懐から、陽光を跳ね返す銀光が閃いた。素早く抜き放たれた短刀は、隣を歩く頼廉の無防備な喉元を深く、無慈悲に切り裂いた。噴き出す鮮血を浴びながら、久秀は倒れ伏す頼廉を見下ろし、唖然とする今川軍に向かって朗々と声を張り上げた。


「此度の謀反の首謀者、下間刑部卿頼廉の首、お届けにまいった! 某は本願寺の賊徒に脅され、言われるがままに従ったにすぎぬ。ご用命とあれば、今すぐにでも城内の門徒を根絶やしにいたそう。願わくば、この弾正の忠義に免じ、命をお助けいただきたい!」


 その振る舞いは、歴戦の兵たちさえ「あるいは真か」と錯覚させるほどの悲壮感と説得力に満ちていた。しかし、本陣の奥、床几に腰掛けた義元の瞳だけは、一滴の揺らぎもなく凍てついていた。


「…放て」


 短く、乾いた命が下る。刹那、数十挺の火縄銃が火を噴いた。鉛の弾丸が久秀の虚言を、その野望ごと一瞬にして撃ち砕いた。


 松永久秀、討ち死に。


 己の理のために他者の命を弄んできた男の最期は、自らも理によって断罪されるという、あまりにも皮肉な幕切れであった。



 頼廉の最期を城壁の上から見ていた本願寺の僧兵たちの怒りは、一瞬にして沸点に達した。


 彼らにとって、頼廉は法のために戦う精神的支柱であった。それを、共闘していたはずの松永が、己の保身のために無惨に屠ったのだ。


「松永を殺せ! 裏切り者に仏罰を!」


 石山本願寺の内部で、地獄の蓋が開いた。僧兵八千と、城内に残る松永軍三千。極限状態の籠城戦の中で、味方同士の殺し合いが始まったのである。


 外を包囲する義元は、攻撃を命じなかった。


「手出しは無用。彼ら自身の業に、彼ら自身で決着をつけさせよ」


 義元は冷静に、城内から漏れ聞こえる絶叫と怒号を聴き続けていた。丸一日、今川軍は一歩も動かず、内部崩壊を待った。


 翌日、門が開かれた時には、石山の地は文字通り血の海と化していた。残った僧兵はわずか二千。はじめから松永軍は、混乱に乗じて僧兵を殺し尽くすつもりであったのだろう。兵数では勝る本願寺側も、信頼していた味方からの突然の牙に、対応が遅れたのが致命傷となった。


 ついに本願寺は無条件降伏した。飯盛山城から戦場に降りてきた氏真の決断は迅速かつ苛烈であった。


「信教の自由は認める。だが、帝に背き、武力をもって世を乱す指導者は不要なり」


 本願寺の教主・顕如をはじめとした最高幹部らは、軒並み斬首に処された。本山にて二度も繰り返された、味方同士の血みどろの争い。戦国の世の理不尽と人間の業を凝縮したかのような石山の地は、呪われた最期を遂げたのである。


 後世の歴史家は語る。松永久秀という男、もし今川が動くのがあと半月遅かったならば。あるいは、氏真が彼と手を取り合う道を選んでいたならば、天下の形は大きく変わっていたであろうと。すべてが彼の手のひらで転がるはずだった戦場は、氏真という算盤の前に、その前提から覆されてしまった。


 天下という巨大な碁盤に足を踏み入れ、神を畏れず、己の才気だけで盤面を支配しようとした男。その最期の戦いは、氏真という、彼以上に冷徹で、彼以上に合理的な新時代の支配者によって、わずか一月あまりで無惨に散らされたのであった。


 石山に落ちる夕日は、血のような赤さで焦土を染め上げていた。今川の算盤が弾き出した戦後という新たな盤面が、今、ここから始まろうとしていた。

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