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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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資本

1562年夏

「盤面は、ようやく私の引いた線に沿って動き出したな」


 手元には、海路を行った明智光秀からの文が届いていた。紀伊の急襲は見事に功を奏し、最強の鉄砲集団である雑賀衆と根来衆が、揃って今川の軍門に降ったという。


 氏真はわずかに口角を上げた。「金に糸目はつけるな」と光秀には命じていた。石山本願寺の蔵には、長年門徒から集められた莫大な銭が眠っているだろう。


 しかし、それは蓄えに過ぎない。一度吐き出せば減り続ける死蔵の金だ。対して、今川がもたらすのは、検地と楽市楽座、そして海上交易によって永続的に生み出され続ける富である。


 傭兵であり、本質的に商人でもある彼らが、どちらに未来を賭けるかは自明であった。


「奴らにとって、今川はもはや単なる雇い主ではない。生涯で最大の利益をもたらす得意先となったのだ。そうなれば、今川に刃を向ける理由など、この世から消滅する」


 報告を読み進めるうちに、氏真は思わず苦笑した。光秀の隊に、木下藤吉郎が紛れ込んでいたという。


「あの猿め…。茶器を買いに来たと言っていたが、戦の匂いを嗅ぎつけて勝手に船に乗るとは。後で三郎には、私が借りたと一報入れておこう」


 だが、氏真の思考はすぐにその不測の事態を利へと変換した。藤吉郎という男の、異常なまでの人心掌握術。あの懐に滑り込むような話術と、裏打ちされた冷徹な計算高さ。それこそが、誇り高く気難しい雑賀・根来の荒くれ者たちを繋ぎ止める鎹として最適ではないか。


「藤吉郎を紀伊のまとめ役に据えよう。彼なら、鉄砲の生産拠点の整備から、交易路の管理まで、私の意図を汲んで完璧にこなすだろう。この戦が終われば、三好の許可を取り、奴らの拠点の近くに今川の城を築かせたいな」


 それは、三好家に対する絶妙な牽制にもなる。かつての宿敵である根来衆を野放しにせず、今川が責任を持って見張るという名分。


 一方で、雑賀・根来に対しては、三好や畠山からの報復を退けるための庇護を与えるという実利。海上補給の拠点としても、これ以上の場所はない。


「どちらの顔も立てつつ、今川の楔を深く打ち込む。算盤の弾き方としては、悪くない」


 視線を南へ転じれば、孤立を深める信貴山城が陽炎の中に揺れていた。 久秀の嫡男・久通は、父を救うべく乾坤一擲の下山を敢行したようだ。


 しかし、その退路はすでに断たれていた。紀伊の畠山領が今川・雑賀・根来に襲われ、さらに朝廷から松永討伐の勅命が正式に下されたという報は、河内畠山家を震え上がらせた。名門としての存続を第一に考える彼らは、あっという間に松永を見捨て、自領へと逃げ帰ったのである。


「西へ、石山へと突き進むしかなかったか。若き当主としての意地は認めよう」


 だが、その前に立ち塞がったのは、死地から蘇った覇者であった。


 氏真の一喝で精気を取り戻した長慶は、自ら前線で指揮を執り、三好軍を鉄の結束でまとめ上げた。数に勝る三好軍が正面から久通軍を抑え込み、その背後から、今川の誇る森可成隊が、城の高所から猛烈な追い打ちをかけた。 久通軍は、まさに袋叩きの形となり、石山へ状況を伝えるという悲願も虚しく、その勢力は潰え去った。


「信貴山は落ち、周囲の出城もすべて灰となった。これで二勝だ」


 石山から見れば、南の紀伊と東の信貴山、双方が完全に塞がれたことになる。


「次は丹波の内藤軍か。可成隊の分隊を芥川山城の救援に向かわせた。包囲の輪は、刻一刻と狭まっているぞ、弾正」


 氏真は、地図上の石山を指先で強く叩いた。その目は、冷徹な勝利の計算を終え、次なる一手を見据えていた。



 今川義元の本隊が、重厚な足音を立てて六角領を通過し、畿内へと迫る少し前のことである。 和泉の国、自由都市・堺。そこには、軍勢ではなく、経済の力をもって戦場を支配せんとする今川の重臣がいた。家老、関口式部大輔氏純である。


 堺の豪商、今井宗久の屋敷。香木が幽かに漂う広間で、宗久は目の前の老練な武士に対し、深々と頭を下げていた。


「これはこれは…。もしや今川家家老、関口式部大輔様でございましょうか。東国一の権門の重臣が、このような商人の街へ遠路はるばる…誠に恐悦至極に存じます。して、本日はどのようなご用命で?」


 宗久の言葉には、商人の如才なさと、状況を推し量る鋭い警戒心が混じっていた。氏純は、鷹揚に頷き、扇子を膝に置いた。


「某の名をご存じか。さすがは天下の堺、耳が早い。実はな、近隣で少々厄介な…そう、小競り合いが起きましてな。我らが主君が、その仲介役として参上したところなのだ」


 小競り合い、という言葉に、宗久の眉が微かに動いた。三好と松永、そして今川の巨大な対突。それを小競り合いと称する氏純の度量に、今川の余裕を見たのである。


「そこで、堺の顔である宗久殿に、折り入ってお願いをさせていただきたい。今、この堺にある兵糧、火薬、そして武器。これらを…今川家が、一物も残さず、すべて買い取らせていただきたいのだ」


「全て、でございますか…?」


 宗久は言葉を失った。堺は中立を標榜し、あらゆる勢力に物を売ることで繁栄してきた。すでに松永や三好からの注文も入っている。


「しかし、その…。我ら商人にも、先約というものがございましてな」


 氏純は、微笑みを崩さずに言葉を重ねた。その声は穏やかだが、抗い難い威圧感を含んでいた。


「ふむ。もしや今川よりも豊かな方からの注文が、既に入っておられるのかな? ならば仕方あるまい。その方々には誠に申し訳ないが…今川は、現在の市場の五割増で購入しよう。五割だ。それならば、先約の相手に対しても『今川が無理やり持っていった。しかしこれほどの金が手に入った』と、貴殿らの顔も立つであろう?」


 五割増。それは商売の常識を逸脱した、圧倒的なまでの資本の暴力であった。


「宗久殿。これは一方的な要求ではない。平等な商いだ。もし快く応じていただけるならば、今後は今川の領内すべてが、堺の市場の得意先となろう。駿府、三河、尾張、美濃、甲斐、信濃、飛騨…そして加賀。これら広大な版図との優先的な商いができる。貴殿らにとって、どちらに転ぶのが理に適っているか、改めて算盤を叩いてみるがよい」


「…少々、お時間をいただけますでしょうか。仲間の商人らを集め、評議いたしたく」


 宗久は退出した。一刻も経たぬうちに、堺の主要な会合衆が集まり、緊迫した議論が交わされた。結論が出るのは早かった。今川はすでに近江を抜け、圧倒的な軍勢で畿内を包囲しつつある。そして何より、提示された条件が破格すぎる。



 再び氏純の前に現れた宗久の顔には、迷いはなかった。


「式部大輔様。大変お待たせいたしました。もう間もなく、堺にある品はすべて、今川様の陣屋へと運び入れましょう。すでに荷を届けるべく発っていた者たちにも、急ぎ引き返すよう早駆けを出しました。これより、堺は今川様の御用に応じます」


「これはこれは、かたじけない」


 氏純は満足げに頷いた。


「すぐに駿府に早馬を飛ばし、銭を運び入れさせよう。遠方ゆえ少々お待たせするが、それまでゆるりと…。ちとばかし、この堺の町を案内してはいただけぬかな? 殿も、この街の繁栄には常々関心を持って居られるゆえ」


「もちろんでございます。喜んでご案内いたしましょう。ささ、まずは一服…。奥に茶の用意がございます。天下の名器を揃えてお待ちしておりますぞ」


 氏純は、宗久に導かれ、静かに茶室へと向かった。 堺の物資をすべて買い占める。それは、久秀から継戦能力を根こそぎ奪い去る、戦わずして勝つための最後の一撃であった。今川の算盤による攻略は、戦場の外側で、すでに久秀を絶望の淵へと追い詰めていた。

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