天下の幻影
1562年夏
信貴山城。かつて木沢左京亮長政が築き、久秀が心血を注いで修復・拡張を重ねたこの堅城は、今や巨大な檻と化していた。
本丸の櫓に立ち、眼下の光景を見つめる一人の若き将がいた。松永右衛門佐久通。昨年、父から家督を譲られ、名門・松永家の当主という重責を担い始めたばかりの二十を過ぎたばかりの若武者である。
「…信じられぬ。なぜ、これほどまでに早い」
久通の唇から漏れたのは、乾いた嘆息だった。
本来の計画では、久秀が石山本願寺にて下間頼廉や根来・雑賀の精鋭を束ねて三好を内から切り崩し、嫡男である久通はこの信貴山城を守備。河内の有力大名・畠山修理大夫高政が率いる一万の軍勢と合流し、飯盛山城に拠る長慶を南北から挟撃、一気に息の根を止めるはずであった。
だが、今、久通の視界を埋め尽くしているのは、畠山の二つ引両の旗ではない。今川の赤鳥と、死地から蘇ったかのような三好の三階菱の軍旗が、麓の平野を隙間なく埋め尽くしていた。
わずか数日前まで、この信貴山城の麓には畠山家の将兵たちが陣を敷いていた。久通にとって、それは勝利を約束する力強い盾であったはずだ。しかし昨日、その盾は音もなく砕け散った。
「雑賀衆、根来衆が…今川に寝返っただと?」
もたらされた報せは、久通の理解を遥かに超えていた。銭と信仰で動く、あの強欲で独立独歩の集団が、松永の提示した以上の条件を呑んで今川についたという。
さらに、彼らは紀伊の畠山領を即座に急襲。その上、氏真の手によって、松永討伐の勅命までもが京より下されたという事実が、畠山軍の心胆を寒からしめた。
「勅命とあらば、もはやこれは反乱軍の汚名を着る戦。我ら畠山は、これ以上松永には付き合えぬ」
そう言い残し、一万の兵は蜘蛛の子を散らすように自領へと引き返していった。残されたのは、信貴山城に籠るわずか二千の松永勢。対する包囲軍は、今川・三好を合わせて二万を超える。
「父上…。我らは、見誤っていたのでしょうか。今川という男の底力を」
久通は拳を握りしめ、櫓の柱を叩いた。今川軍の進軍速度。それは、物流と経済を完全に掌握した者だけが可能にする、速度という暴力であった。
信貴山城は、四方に険しい崖を配した難攻不落の山城である。だが、その堅牢さゆえの弱点があった。山城は籠城戦に際して外部からの補給を絶たれれば、即座に袋の鼠となる。
「…食料の備蓄が、底を突き始めている」
城内の惨状を思い、久通は眉を潜めた。今回の遠征に際し、久秀は、飯盛山城と芥川山城を攻め落とすための前方拠点として信貴山を位置づけていた。
そのため、城内を兵糧で溢れさせるよりも、迅速な機動を優先し、必要最小限の物資しか運び込ませていなかった。戦になれば堺や和泉から随時運び込ませれば良い、そう考えていたのだ。
だが、今川軍は久通が石を運ぶ間もなく、堺への街道を封鎖し、城を完全な孤立状態に追い込んだ。この真夏の酷暑である。城内に押し込められた二千の兵から発せられる熱気と、腐敗し始めたわずかな食糧の臭いが、城内の士気をじわじわと削り取っている。
「半月…。いや、十日も保つまいな。この暑さで疫病が流行れば、戦わずして全滅だ」
こちらが三好に対して仕掛けようとしていた包囲と枯渇の策を、そのまま今川にやり返されている。皮弱な話であった。
眼下に広がる包囲陣の中で、ひときわ整然とした一画がある。三好軍の陣だ。報告によれば、三好長慶は、氏真の一喝を受け、完全に覇者としての精気を取り戻したという。
「修理大夫殿が指揮を執り、今川が軍資金と物資を支える…。これほど恐ろしい組み合わせが他にあるか」
久秀はかつて言っていた。三好家はもはや、十河一存と三好実休という柱を失い、家臣たちが疑心暗鬼に陥り、崩壊を待つだけの泥舟だと。久通もそう信じていた。一月前まで、三好家を実質的に動かしていたのは、家臣であるはずの久秀であったのだ。
すべては、今川が余計な手出しをしなければ終わっていたはずなのだ。 長慶の絶望を討ち、病がちの義興を排し、松永の天下を築く。久秀がもたらす新たな秩序の下で、日ノ本は生まれ変わるはずだった。その計算は、非の打ち所がないほど完璧だったはずなのに。
「計算を、理を超えた何かが、奴らにはあるというのか」
久通は、氏真の掲げる算盤と理による統治を憎んだ。それは、久秀が築き上げてきた謀略の芸術を、ただの数字と物量で踏み潰す無機質な暴力に感じられたからだ。
このまま籠城を続けても、待っているのは干からびた死のみだ。 久通は、瞳に決然とした光を宿した。
「全将兵に告ぐ!」
久通の声が、熱気に沈む城内に響き渡った。
「我らの使命は、この城を守ることではない。松永の意志を、石山の父上へと繋ぐことにある。このままここで朽ち果てて、父上の天下を夢のままに終わらせて良いのか!」
兵たちが顔を上げる。その表情には、死を待つ者の絶望ではなく、最期のひと働きを求める武士の情動が灯り始めた。
「これより、全軍をもって山を下り、石山方面への包囲を突破する! 一人でも多く、一兵でも多く、父上の元へ辿り着け。そして、この信貴山の窮状を伝えよ! 某は、殿としてこの城に残り、今川・三好の注意を引きつける。一人でも多くの敵を道連れにし、父上の天下への礎とならん!」
久通は、自分を信じてついてきてくれた兵たちを逃がすため、自らが囮になる道を選んだ。父を尊敬していた。父のような冷徹な知略家にはなれなかったかもしれない。だが、松永の家を想い、父の理想に殉じる覚悟だけは、誰にも負けないつもりだった。
「行け! 走れ! そして生き残れ!」
門が開かれる。二千の兵たちの、死に物狂いの突撃が始まった。久通は一人、櫓の上に残り、眼下に広がる今川の大軍を見据えた。
「さあ、来るが良い。今川左近衛少将氏真、三好修理大夫長慶。松永の意地、貴様らにとっては計算外の不条理であろうが、それをたっぷりと味わわせてやる」
夏の陽炎の向こうに、久通は久秀が描いた、松永の天下の幻影を見た。たとえここで自分が果てようとも、石山の父が生きている限り、松永の灯は消えない。
久通は太刀を引き抜き、迫り来る包囲軍を迎え撃つべく、静かに構えた。 信貴山城を包む蝉時雨が、戦の始まりを告げる咆哮のように、激しく鳴り響いていた。




