傭兵
1562年夏
氏真が近江の六角領に足を踏み入れ、飯盛山城で三好長慶と対峙するより少し前のこと。真夏の強い陽光を浴びて、太平洋の荒波を蹴立てて進む巨大な影があった。駿河水軍が誇る安宅船の艦隊である。
その甲板には、今川の軍制改革によって鍛え上げられた三河直轄軍、三千の精鋭が整然と陣取っていた。
この紀伊急襲隊の指揮を執るのは、氏真の側近であり、理知的な軍略家として知られる明智光秀である。そして、その傍らには、本来ここにはいるはずのない男―木下藤吉郎が、潮風に目を細めながら立っていた。
「藤吉郎殿。もはや引き返せぬ海の上ゆえ、今更お聞きするのも野暮ですが…。誠に、ついてきてよろしかったのですか?」
光秀が、いつもの冷静な口調で尋ねた。光秀にとって藤吉郎は、織田信長の下で驚異的な立身出世を遂げている奇妙な男であり、同時に氏真が「あれは化けるぞ」と高く評価している興味深い存在でもあった。
「いやぁ、明智殿。全くよろしくないでしょうなぁ! 戻ったら三郎様に何を言われるか。考えただけで背筋が寒くなりますわい!」
藤吉郎は、大仰に身振り手振りを交えながらガハハと笑った。
「三郎様からはな、『駿府へ行って儂に似合う一級品の茶器を買うてこい』と使いに出されたんじゃ。ところが、駿府の港で何やら面白そうな大艦隊が準備を整えておる。これはいかん、居ても立ってもいられん! と思って覗き込んでおったら、いつの間にか船の上にいたというわけですな」
藤吉郎は、わざとらしく猿のような顔をしておどけて見せたが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。彼は直感的に、この遠征が日ノ本の中心を塗り替える歴史的転換点になると悟り、その瞬間に立ち会うために、主君の命を曲解してまで乗り込んできたのだ。
「して、明智殿。そなたは少将様から、一体どんな無理難題を仰せつかっておるんじゃ?」
「…無理難題、ですか。確かにそうかもしれません。私は殿の命により、松永の退路を断つべく、紀州の雑賀衆と根来衆を調略し、味方に引き入れる役目を担っております」
藤吉郎は、目を丸くして感嘆の声を上げた。
「なるほどのう! だからこれほどの大軍と物資を積んでおるのか。雑賀も根来も、銭と鉄砲で動く手強い連中じゃ。ここが落ちるか、それとも味方になるか。今回の遠征の山場ですな」
光秀は無言で、遠く霞む紀伊の山並みを見つめた。氏真の指示は明確だった。「彼らを力で屈服させるな。彼らが最も欲するものを提示し、彼らの意思でこちらへ歩ませろ」と。
数日後、艦隊は雑賀衆の本拠、雑賀港の沿岸に到達した。 雑賀衆は、久秀から多額の資金を受け取り、三好・今川軍の南からの攻勢を防ぐ防御壁としての役割を担っていた。和泉平野を守り、海路からの補給路を確保する彼らにとって、太平洋側からこれほどの艦隊が現れるのは想定外の事態であった。
「全艦、並べ。威嚇射撃の用意!」
光秀の鋭い号令が飛ぶ。安宅船の舷側から、今川が独自に改良を重ねた長射程の鉄砲隊が銃口を並べた。
「放てっ!」
轟音と共に、白煙が海面を覆う。だが、その弾丸は雑賀の砦を破壊するためではなく、彼らの目の前の砂浜を正確に撃ち抜くために放たれた。一糸乱れぬ斉射。雑賀衆の鉄砲の名手たちでさえ、これほどまでの数と精度を誇る統制射撃は見たことがなかった。
上陸はあっという間であった。雑賀の水軍が反撃の体制を整える前に、直轄軍は整然と陣を敷き、光秀は白旗を掲げて頭領らとの会談を要求した。
「我らは侵略に来たのではない。一つの提案をしに来たのだ。話を聞いてもらえるならば、これ以上の攻撃は控える。だが、拒むならば…この港は二度と使えぬ焦土と化す。選ぶのは貴殿らだ」
利に聡く、極めて合理的な雑賀衆にとって、今川軍の圧倒的な物量と、戦意ではなく商談を前面に押し出した態度は、無視し得ない重みを持っていた。
会談の場は、鷺森に設けられた。集まったのは、雑賀衆の頭領の一人、鈴木孫一。そして、数時間後には光秀の呼びかけに応じ、根来衆の頭領、津田監物も姿を現した。
「…孫一よ、これはどういうことだ? なぜ今川の人間がここにいる」
監物は不機嫌そうに光秀と藤吉郎を睨みつけた。久秀から受け取った雇われ賃がある手前、表立って今川と手を組むわけにはいかない。
「これは、新たな商いの話だ。監物よ」
孫一が、どこか清々しい表情で答えた。
「うちには一向宗の門徒も多い。ゆえに今川の評判は、加賀や三河、長島から嫌というほど入ってくる。驚いたことに、連中は誰も今川を悪く言わんのだ。信仰を認め、自治を守り、何より…今川の下にいれば、食うに困らぬと」
そこで藤吉郎が、懐に飛び込むような笑顔で割り込んだ。
「そうじゃ! うちの殿は寛容でのう。儂のような身分の無い者でも、才があれば大事にしてくれる。上に立つのが苦しいんじゃないかと心配になるほど民想いなんじゃ。決して不自由はさせんぞ」
光秀は、静かに算盤を取り出すような仕草で、本題を切り出した。
「今川が求めることは二つ。松永との契約を破棄し、今川に味方すること。そして、紀伊の海と陸を今川の物資のために開くこと。見返りとして、松永が提示した銭の倍を今すぐ支払いましょう」
監物の眉が動いた。光秀はさらに言葉を重ねる。
「それだけではありません。戦が終わった暁には、駿河から雑賀、貝塚、そして堺を結ぶ新たな海上交易路を今川が独占的に保証いたします。京への荷駄は、陸路より遥かに早く、安全に届くようになる。貴殿らは日ノ本の物流を支配する大商人となりましょう」
銭で雇われた連中を、それ以上の銭で買い上げる―氏真が授けた、このあまりにも身も蓋もない、しかし絶対的な説得力。雑賀も根来も、特定の主君に命を捧げる家臣ではない。彼らは自己の利益と生存を最優先する独立自尊の集団である。どちらにつくのが合理的か、答えは明白だった。
「…いいだろう。今川の理、聞き届けた」
監物が腕を組んで頷いた。
「だが条件がある。まず、我らの完全なる自治の継続。そして火薬だ。我らの命である火薬を、優先的に回すと約束してくれ。それさえあれば、今すぐにでも今川の矛になってやろう」
「承知いたしました」
光秀は微塵の迷いもなく応じた。
「これにて、貴殿らは今川の友です。藤吉郎殿、船に積んである手付の銭と、友誼の証である最高級の火薬を配る手配をお願いします」
「合点承知! 雑賀の皆衆、根来の皆衆、今夜は宴じゃ! 今川の酒は旨いぞ!」
藤吉郎の明るい声が響き、緊張に包まれていた鷺森の空気は一気に和らいだ。
「さて…」
光秀は、西に沈む夕日を見つめた。
「手付の銭に、少々色をつけましょうか。早速一仕事、お願いしたい。」
こうして、久秀が最大の盾として期待していた雑賀衆・根来衆は、戦端が開かれる前に今川の算盤によって懐柔された。彼らは今川の新たな兵装を纏い、最新の火薬を手に、かつての雇い主である久秀の喉元を狙う鋭い牙へと変貌したのである。
太平洋からの風が、畿内に向かって力強く吹き始めた。今川、三好対松永の戦いは、すでに氏真の描いた勝利の計算に沿って動き出していた。




