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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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畿内の覇者

1562年夏

 六角領を電光石火の速さで駆け抜け、氏真が三好の本拠・飯盛山城に入ったのは、夏の盛りが過ぎようとする頃であった。駿府を出て以来、これほどまでの長時間、馬を走らせ続けたことは氏真にとって初めての経験であった。


「…くっ、身体中が悲鳴を上げているな」


 城門を潜り、馬から降りた瞬間に襲ってきたのは、焼けるような筋肉の痛みと関節の強張りだった。普段、領政の書類仕事や算盤を弾くことに時間を割いている報いだろう。


 氏真は、武芸を疎かにしていたわけではないが、この時代の戦う大名たちの強靭な体力を改めて思い知らされていた。もっと鍛錬の時間を増やすべきだったか、などという悠長な思考が脳裏をよぎるが、眼前に広がる情勢はその甘えを許さなかった。



 飯盛山城の天守から西を望めば、淀川の河口付近に巨大な要塞のごとくそびえ立つ石山本願寺の姿がはっきりと見て取れた。まさに目と鼻の先。現在、三好軍はこの飯盛山城と、北に位置する芥川山城の二箇所から石山を挟み込む形で包囲網を敷いている。


 しかし、その包囲は砂上の楼閣に近い危うさを孕んでいた。久秀は、自身の居城である大和の信貴山城を南の拠点とし、石山と信貴山を太いパイプで繋いでいる。


 さらに西の大阪湾からは海路で物資が運び込まれ、南からは久秀が抱き込んだ雑賀衆、根来衆の精鋭たちが今か今かと牙を剥いている。


 久秀の本来の狙いは、他の勢力が介入する前に主要な城を次々と落とし、既成事実を作ることだったはずだ。


 だが、氏真率いる今川直轄軍の進軍速度は、久秀の計算を遥かに上回っていた。その速度という暴力によって、久秀は一時的に南側の確保に甘んじているが、決して諦めたわけではない。


「弾正のことだ。この飯盛山城や芥川山城の内部に、すでに飼い犬を忍ばせているに違いない」


 氏真は、城内の兵たちの視線を冷徹に観察した。もしこの重要拠点が内側から崩れれば、包囲網は一瞬で瓦解する。そうなれば、松永の勢力は畿内全域に放射状に拡大し、三好家は完全に消滅するだろう。時間は一刻を争っていた。



 城の奥深く、薄暗い一室で氏真を待っていたのは、かつて畿内の覇者として天下を震撼させた三好修理大夫長慶であった。


 しかし、そこに座していたのは、覇者とは程遠い、抜け殻のような男だった。十河一存、三好実休という最愛の弟たちを立て続けに失い、信頼していた久秀に裏切られた衝撃。長慶の瞳からは精気が失せ、肌は土色に沈んでいる。怒りよりも、深い絶望とやるせなさが彼を支配していた。


「少将殿…。よくぞ、このような泥舟にお越しくださった。だが、もはやこれまでよ。三好の命運は、弟らと共に尽きたのかもしれぬ」


 力なく笑う長慶の姿に、氏真の胸の中に沸き立つものがあった。それは同情ではなく、歴史の荒波を共に行こうとした先駆者への、激しい憤りであった。


「修理大夫殿!その醜態、草葉の陰で筑前守殿や左衛門尉殿が泣いておりますぞ!」


 氏真の鋭い一喝が、静まり返った部屋に響き渡った。長慶が驚いたように顔を上げる。氏真は一歩踏み込み、その衰弱した肩を掴む勢いで畳みかけた。


「筑前守殿が、左衛門尉殿が、命を賭して守り抜いてきたこの三好家を、あのような簒奪者に易々と明け渡して良いのか! 彼らが繋いだ命の炎を、貴殿が自ら吹き消してどうする! 今一度、立ち上がれ! ともに乱世の塵を払い、真の静謐を取り戻そうではないか!」


 氏真の声には、現代の知識を持つがゆえの平和への渇望と、今川家を背負う者としての覚悟が宿っていた。


「すべてが終わった暁には、刀を置き、誰に邪魔されることもなく、静かに連歌に興じよう。貴殿が愛した、あの風雅な世界を取り戻すのだ。そのためには、今、この瞬間に鬼とならねばならぬ。貴殿には三好家内の混乱を鎮め、家臣たちの心を一つにまとめていただきたい。軍の指揮と、この城郭の維持、松永への攻勢は、この今川左近衛少将氏真がすべて引き受ける!」


 長慶の瞳に、微かな、しかし確かな光が灯った。氏真の言葉は、絶望の底に沈んでいた彼の誇りを、力強く引き上げたのである。


「…不甲斐ないところを見せたな、少将殿。そこまで言われて、動かぬ儂ではない。礼を言おう。貴殿がいなければ、三好は今日この日に瓦解していただろう。恩に着る」


 長慶は深々と平伏した。その背中からは、先ほどまでの無気力さは消え、再び当主としての重みが戻っていた。


「三好家の混乱は、某が命に代えても抑え込もう。すぐに戦えるよう、全軍を再編する。それまで…、畿内の差配、頼み申す」



 三好家の再結束を確認した氏真は、即座に陣頭指揮に立った。飯盛山城を包囲軍の本陣とし、今川・三好の連合軍が再定義される。対するは、石山を本拠に据え、根来・雑賀の鉄砲集団を翼に従えた松永軍。


「火蓋は切られた。これよりは、どちらの理が勝るかの勝負だ」


 数日後、今川の鍛え抜かれた直轄軍二万五千が、近江を経由して続々と到着した。九鬼水軍の船団もまた、大阪湾を封鎖すべく紀伊水道を北上している。


 一方、石山の久秀もまた、籠城の準備を完璧に整え、不敵な笑みを浮かべてこちらを睨みつけているだろう。


 氏真は、戦端が開かれる直前の静寂の中、自らの算盤を強く握りしめた。 武力による破壊ではなく、秩序を取り戻すための戦。


 今川、三好、そして六角の思惑が絡み合う中、日ノ本の中心地・畿内を舞台にした、歴史上最も壮絶で、最も合理的な戦いが、今まさに始まろうとしていた。

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