進軍
1562年夏
松永久秀による石山奪取の報が駿府を揺らした翌日。久秀からの密使が氏真のもとを訪れた。
「三好を東西から挟撃し、天下を分け合おう」という誘惑。しかし、氏真は一瞬の逡巡の後、その申し出を断った。
久秀という男は、既存の秩序を破壊して己の居場所を作る梟雄である。対して氏真が目指すのは、圧倒的な経済力と権威による安定した秩序だ。久秀と組むことは、自ら育てた秩序の苗床に猛毒を撒くようなもの。氏真の計算では、すでに久秀を孤立させ、中央の混乱を収束させる道筋は見えていた。
断りの返事を出した直後、氏真は今川という巨大な機械を始動させた。
「銭で養った兵の真価、今こそ見せてもらうぞ」
今川領内の直轄軍、すなわち駿河、遠江、三河、尾張、美濃の五国に展開する精鋭に対し、即時出陣の号令を下した。彼らは農繁期に左右されぬ常備兵である。氏真の「今日出立せよ」との命が届くや否や、半日も経たぬうちに各地の兵舎から軍装を整えた数千の列が湧き出してきた。
氏真は畳みかけるように指示を飛ばす。 まず北陸。加賀の氏家直元と柴田勝家に対し「本願寺の変事に呼応して門徒が動かぬよう、徹底して睨みを利かせよ。不穏な芽は即座に摘め」と命じた。
駿府の留守居役には、筆頭家老の三浦正俊を据え、行政の停滞を防ぐ。 そして北伊勢の松平元信には、九鬼水軍を動員するよう指示。
「次郎三郎、そなたは北畠が今川の背を突かぬよう、その鋭い眼光で抑え込め。九鬼には、三河の精鋭を船に乗せ、紀州の雑賀港や貝塚に向かわせろ。石山との連携を阻止するのが目的だ」
美濃の織田信長には、降ったばかりの浅井長政を隊長に据えた直轄軍五千を、先遣隊として京へ急行させるよう伝えた。これは長政にとっての名誉挽回の機会であり、同時に信長の精強さを天下に見せつけるデモンストレーションでもあった。
そして、義元には、「父上、二万の軍を率い、上洛の途についていただきたい。六角領を抜け、一気に京の静謐を取り戻すのです」と伝えた。
これに義元は満足げに頷き、甲冑を鳴らした。
同時に、三方向への早駆けが放たれた。 六角家へは領内通過の打診。三好家へは「内訌を鎮めよ、今川が松永を包囲し、協力の盾となる」との共闘提案。
そして朝廷には、「京を脅かす松永を討つため、討伐の勅命を賜りたい。平定の暁には拝謁に伺う」との奏上。
「早ければ十日ほどで石山を包囲できる。御前、龍王丸…雪が降る前には、天下に新たな理を示して帰ってくる」
氏真は、愛する妻子にそう誓い、自らも馬を走らせた。今川の算盤は、今や戦場の血で墨を引く準備を終えていた。
早川殿:戦勝祈願
殿が畿内での戦に向け、出立されました。戦が始まると決まってから、ほんの数日の出来事でした。館内は息つく暇も無いほど、大慌てとなりました。なんとか皆様を送り出し、一息付いた時には、とても身体が疲れ、随分長く寝てしまいました。
ですが、殿が居ないからといって、優雅に過ごすことは出来ません。いえ、むしろ居ないからこそ、私が皆を支えなくてはなりません。
恒例行事となっている、家臣の家族への文、此度の戦の不安に共感し、労う。そして戦勝祈願。静岡浅間神社にて祈祷をしていただき、亡き太原様へご挨拶として臨済寺に参拝いたします。富士山本宮浅間大社へも行きたいところですが、数日かかってしまうので、今回は見送りましょう。
館に戻れば、戦の準備にかかった出費を、勘定奉行の方とともにまとめます。殿のご帰還後に報告をしないとなりません。
此度の戦は、畿内の三好家を救い、静謐を取り戻すための戦だと言います。領土を得たり、攻め取る戦ではありません。北条では、いえ、どこの家でもそうだと思いますが、戦とは攻め取り、領土を拡げるためにするものかと思っておりました。
ですが、殿の、今川の戦は違うようです。そこに理があり、戦う先に静謐がある。
殿はよく、「戦は割に合わぬ」と仰います。兵を失い、銭をかけ、得られるのは焦土のように荒れた土地と疲れ果てた民。米を得るために戦をし、銭のために民が苦しむ。殿はそんな世を変えるために戦うのです。
どうか、ご武運を。勝つためではなく、悲しまないための。静謐のための力を、殿に与えてください。私は強く目を閉じ、少しでもこの思いが伝わるよう、西の空に向かい、手を合わせました。
数日後、氏真は数千の精鋭を率い、近江・六角家の本拠、観音寺城へと到着した。 突如として現れた隣国の当主と、一糸乱れぬ鉄の軍勢に、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
だが、氏真は兜を脱ぎ、穏やかな表情で使者を送った。
「敵対しに来たのではない。畿内の混乱を鎮めるため、六角殿の知恵をお借りしたいのだ」
お目通りを許された氏真は、六角承禎・義治親子の前に悠然と座した。
「お騒がせして恐縮でございます。すでにご存知かと思いますが、松永が三好を裏切り、石山で牙を剥きました。これは帝のおわす京を脅かす暴挙。我ら今川は、帝の勅命をいただくべく動いております」
氏真は、戸惑う親子に対し、立て板に水のごとく二つの提案を繰り出した。
「一点は、石山包囲のため、六角領内の通行を許可いただきたい。数万の軍勢が通りますが、道中の宿場にはたっぷりと今川の銭を落とさせましょう。貴殿らの領民にとって、これはまたとない商機となるはずです」
承禎の目が、銭という言葉にわずかに動く。氏真は逃さず畳みかけた。
「二点は、今川・三好の連合軍に、名門たる六角家もぜひ加わっていただきたい。とはいえ、先の浅井との戦で兵も民も疲弊しておられると存じます。ゆえに大軍は求めませぬ。ただ『六角も共に戦っている』という姿勢が欲しいのです。たとえば、先の戦で後方を完璧に支えたという平井加賀守定武殿。彼のような経験豊かなお方を、畿内の情勢共有のために同行させてはいただけませぬか。先鋒などの危険な役回りは、すべて今川が引き受けます」
この提案は、六角親子にとって美味しい話でしかなかった。自軍の消耗を抑えつつ、通行料で潤い、なおかつ朝廷に恩を売ることができる。氏真が自らの内情を熟知していることにも驚いたが、その配慮に悪い気はしなかった。
「…承知した。加賀守を同行させよう。今川殿の進軍、心より応援いたす」
数日後、六角領を通過する今川直轄軍二万五千の足並みは、近江の民を驚かせた。乱暴狼藉一つなく、整然と歩みを進め、宿場で惜しみなく銭を払う軍勢。
それはもはや軍隊というよりも、巨大な文明の行進であった。氏真は馬上で、遠く霞む石山の空を見つめていた。梟の首を撥ねる準備は、これ以上ないほど整っていた。




